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私もあなたも大切、な姿勢 ~後編~

腹が立つ、イライラする、などの感情を伝えるときも同じ。

あなたが悪い! 間違ってる! ではなく、

それは、こういう部分で私が心地よく感じない、

私がつまらない、私が悲しい。

相手から、落ち着いて(ここも重要)そう言われたら、

それについてまったく何も感じない人は、まずいないと思う。

そうなれば、どうすればいいかも、相手は会話の流れのなかでちゃんと、

自分から考えようともしてくれるだろう。

自分で考えて答えを出せば、それは命令でも強制でもないから、

相手も納得できる。納得できればこの先、ウッカリすることはあっても、

双方でやがて覚えていけるのだ、お互いの着地点を。

結果としてそのほうが、自分も、相手も、心地よくないだろうか?

もちろん、悲しいかな、どうしても、それが相手に通じないときはある。

着地点が見つからない。絶対、折り合いがつかない。

その場合も、検討したうえであるなら、

今回はこう、その代わり次はこう、とお互い、妥協もできるのだ。

私はひたすら、ラクをしたいんです、という人(子どもとかねあせる)には、

まあ、強制しなくてはいけない場面もあるとは思う。

子どもでなくても、どうしても、自分が得することしか、

選びたくない人もいるけれど……。

その場合、たとえば保護・被保護関係にある血縁者でなければ、

関係することを一度やめる選択だってあるのだ。

これまでにも何度か言っているように、相手の問題は

相手が気づかない限り、変わらないから。

そしてどうしても、相手を、自分が変えなければいけないことでもない。

そう、言うことを聞かない子どもだって、

たとえば彼氏や彼女ができればアッサリ変わるかもしれないのだ。

相手が気づく機会は、あなただけが作らなくてはいけないわけではない。

もちろん、相手に伝えておくことは、意味があると思う。

でも、それを「いつ」受け止めるか、

そして受け止めるかどうかさえも、相手の選択なのである。

実際、やってみるとわかるのだが、

こちらが「アイ・コンタクト」を始めると、

そのメリットは、意外にスッと、相手にも伝わることが多い。

するとやがて、なんだか知らないうちにお互いが

「アイ・コンタクト」を使えるようになり、

双方それぞれに選択の余地ができて、折り合いできる着地点が見つかる。

結果としてもめごとが減り、心地よく感じ、

お互いのことを信頼できることにもつながっていくのだ。

その場限りの関係、力のやり取りなどで、相手や自分が納得いかないまま

お互い疲弊するよりは(傷ついても、傷つけても、結果はともに疲弊だ)、

気持ちを伝え合い、両方が納得できたほうが、よほどラクだし、

自分が何より、うれしくて楽しいと思う。

自分の気持ちを自分で見つめ直すためにも、

一度、「すべての相手」に対して、やってみてもらえればと思う。

身近な練習例を言えば、ご飯をつくってもらって、それがおいしかった、

で、おいしい、というだけでなく、「おいしいから“うれしい!”」までを伝える。

おいしいという言葉、そして笑顔を見れば十分、伝わるじゃないか、という

ツッコミを受けそうではあるが、では、あなたは、

毎回必ず、相手に笑顔も言葉も伝えているだろうか?

難しいことを考えていたら、言葉どころか笑顔も忘れていないだろうか?

あるいは慣れて、当たり前になったりしてないだろうか?

うれしい、と言ってもらえたら相手もまた、

「そう言ってくれて私もうれしい」に、すぐなれる。

うれしさをそのようにやりとりできたら、お互い、どんな気持ちになれるだろう?

家族を相手に、お店の人を相手に、その心地よさをあらためて確認できるのだ。

ふだんできていないのなら、それは「十分伝えている」ことには、決してならないのだから。

どれほどの効果があるかは、相手によっても違ってくるだろう。

でも少なくとも、これは「思いやり」という気持ちをはぐくみ、

自分が嘘をつかず、相手にも嘘をつかせないで済む、

そんな方法だと、私には思えている。

とくに「うれしい」「ありがとう」が増えると、

それは自分の心にも、脳にも、効くのだから。

私もあなたも大切、な姿勢 ~中編~

ま、そんな極端な例はともかく。

話を戻すと、自分の満足のために他人を利用するタイプの人も、

一見、メリットがありそうだけれど、

実は、どんなにたくさんの人と知り合っても、

本当の信頼関係を築きにくくなる。

「自分勝手さ」に慣れていく過程で、過去に知り合っていた人との間にも亀裂が入りやすい。

結果として、たとえばやがて「へりくだる相手」と「上位に立てる相手」を

区別するようになって、損得勘定でしか、人付き合いができなくなっていったりする。

で、残念ながら他者は、人のそういう計算をたいてい、きちんと「怪しい」と感じ取れるので、

やはり、よい人間関係からは、遠のいていってしまうのである。

「自分がこうしてほしい」という希望だけが、何かと強すぎることを、

いつか、自覚できればいいのだけれど。

とはいえ、そういうゆがみは、誰にでも起こり得る。

私だって、常に両方を揺らいでいるのだと思う。

自分と他者との関係は、1人ひとり、

誰が相手かによって、変わるだろうから。

でもね。

なるべくうまくいく捉え方は、あるような気がしてきたのだ。

それは「私も大切、あなたも大切」という、

両方を大事にするやり方。

まず最初に「自分がやられてイヤなことは、他人にしない」という

一番の(!)前提条件があって、

そのうえで、自分も相手も尊重する方法だ。

その場面、場面によって、どっちでもよいこと、

正解がいくつも存在することって結構、あるように思う。

だから、お互い、折り合えるところ、妥協できるところ、

その着地点を、探ればいいんだな、と。

いちいち面倒だと思われるかもしれないが、

最初にきちんと、その着地点を一度見つけられれば、

それは次から、暗黙の了解にもなっていく。

確認し合わなくてもよくなっていくのだ。

わかりやすい例を挙げれば、新婚さんが、タオルの使い方ひとつで

習慣が違っていて、最初にケンカするような、そんな感じ。

それを、気持ちの部分にも、当てはめていいのではないか。

そのときには「あなたがどうこう」と相手側のことを

指摘するのではなく、これもまた心理学用語で言うところの

「アイ・コンタクト」を用いればいいのかな、と。

「アイ・コンタクト」の“アイ”とは、「私は」の“I” である。

しかもなるべく、何をしたい、何が悪い、などでなく、

それを「どう感じるか」まで踏み込んで伝える。

たとえば、この日に一緒に何かをしたい、

それにはこんな理由がある、

さらには、それがその日にできないと

私は「困る」のか、単に「寂しい」のか。

そこまで伝えるのだ。

困るレベルなら、相手も都合を合わせてくれるかもしれない。

あるいは、他にやり方がないかも検討できる。

寂しいだけなら、代わりにメールで報告したり、

別の日に埋め合わせしたりできるかもしれない。

なぜそうなのか、という気持ち、感情まで伝えることで

相手にも無理のない選択肢を、検討できる余地が生まれる。

自分も、たとえば「あ、単なるワガママを言ってるな」と気づいたりして、

今回は甘えたいな、今回はまあ、我慢しようかな、と

落ち着いて判断できる余地が生まれるのだ。

~後編へつづく

私もあなたも大切、な姿勢 ~前編~

今日の話は、複数の読者さんとやり取りしたり

ブログを拝見していて感じたこと。

恋愛であろうと、友情であろうと、家族間であろうと、

悩んだり、困ったりするときに、意志の疎通の「仕方」が

結構な割合で何か、おかしくなっているのかな、と。

もちろん、これは私にも当てはまることゆえに、

自戒を込めて、書くことになるのだけれど。

何かを一緒にしたいとか、どう考えているか知りたいとか、

お近づきになりたいとか、お互いの距離感を縮める希望を持ったとき。

なぜか、相手の都合、相手の考え、気持ちだけを優先しようとしたり、

逆に、自分の都合を押し付けてみたり。

それで「今回は勝ったわ」などと、何というのか、 

相手との駆け引きの部分に、注目してしまうことがある。

それってやはり、長い目でみればキツイよな、と。

その場限り、その場さえしのげればとか、

そのとき自分が優位に立てればとか、

そんな感情がお互い、見え隠れしてしまうと、

信頼関係とか、深い愛情(親愛も含む)を、

構築しづらくなるだけに思えるのだ。

例を挙げると、あの人と仲良くなりたい、近づきたいと思ったときに、

自分の希望や気持ち、感情を抑え、相手に気に入られることのみを望むとする。 

で、相手がどうすれば心地よいかだけを探し、実践していくと、やがて相手側も

「この人は自分のことより、私を優先してくれるんだ」と、

近くはなったけれど、それが「当たり前」の関係ができてしまう。

最初のうちは相手も、ありがたい、うれしい、と思ったとしても、

それが標準になれば、人は、やがて慣れてしまう。

そして近寄っていく側も元々は、自分の感情を抑えていたわけだから、

慣れてくれば少しずつ、自分がどう感じるかも伝えたくなるだろう。

しかし、そこですでに「片方が気持ちを抑える」関係が標準になっていれば、

相手は「どうして今ごろになって、自分のことばっかり言うのさ」

と、受け取りかねない。

それは、相手側がワガママというだけでなく、言ってしまえば

近づく側も、相手をヘンなふうに甘やかしてしまった、という話でもあるのだ。

で、仲良くなってから、ちゃんとお互いを尊重しようなどと思うと、

ケンカしたり、ズレを矯正するのに、時間がかかったりする。

そりゃそうだ。最初は、近づく側も、無理してるのに

「やってあげられるのうれしい♪」

などと思っているわけだから、やがて、

その無理が続かなくなることを、想像していない。

受け取る側も「あ、やってくれる相手か」と感謝や遠慮があったのが、

慣れてしまえば「いつもやってくれてるのに!」となる。

そうなってから修正するのは、普通に考えて、面倒だし困難だ。

また一方で。

初めから、自分がとりあえず今、楽しくなることのみに目的を置く人もいる。

私はこういう気分を味わいたい、そのために自分が優位に立てる他者を必要とする、

じゃあとりあえず、弟や妹ならいいか、子どもなら、結婚相手ならいいか、

あるいは逆に、身近な人でなければややこしくならないからいいか、と

考えてしまう人も、残念ながらいる。

これはハナから「もし、自分が相手の立場で、

同じように扱われたらどう感じるか」を想像できていない。

怒りや悲しみを、相手が受け取ることを、自分じゃないからいい、と

割り切ってしまえば、ある意味、怖いものナシである。

なぜそんな非情なことができるかというと、それって実はその人からの

とても遠回しなSOS、Help me! だったりするのだけれど……ね。

今は、その話は申し訳ないが割愛したい。

で、それゆえに、最初に自分の気持ちを抑えてしまうタイプの人が

割り切りタイプの人と出会い、近づこうとすると、

ものすごい主従関係になってしまったりする。

片方はワガママ前提、もう片方は、アナタを理解できるのは私だけね、とか。

やがてワガママな人も、それが通じる相手はその人しかいないから、

その人に対してのみ、存分にワガママを発揮する。

……たぶんそれが、身近な相手との関係に深く適用されると、

心理学で言われる「共依存」にもつながっていくのだろうと思う。

~中編へつづく