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常に今「より平穏」を選ぶ ~その1~

私たちが日常生活で、なにげによく陥る罠。

過去の失敗を今、現在のものであるかのように

頭の中で再現し、落ち込み、自分を卑下したりする。

楽しければいい、あるいは今さえよければ、と、

あとあと黒い気持ちになってしまうこと、身体に負担がかかって辛いことを

ワザと選び続ける。程度を超えてそんなハメの外し方をし、

あとで自分をイヤな気持ちにさせたり、イヤな関係に陥らせ、破滅させる。

自分の怒りを真っ先に表現し「なぜ相手がそれを選択したか

(相手は選択したから発言する、行動するわけだ)」は最初に考えない。

怒りを発してまず自分を満足させ、しかも厳しい空気になってから、

初めて相手の理由を聞く余裕が生まれ、

ときに勘違いしていたことに気づいたりしたら、

そのときは自分が苦しくなったりする。

すべて、瞬間的、刹那的、そのときの負の感情だけを

優先して、その結果、自分がかえってつらくなるやり方である。

怒りや憎しみや悲しみ、後悔や考えなしの楽しみを

持つことが悪、というわけではない。

人間だから、喜怒哀楽の感情はあって当たり前である。

ただ、それに「とらわれる」、飲み込まれて後先を考えなくなると、

「結果として」自分がつらくなることが多いのである。

だからといって常に冷静沈着でいられるわけでもないだろうが、

日々、なるべく楽しさが持続し、満足し、嬉しさを感じ、

落ち着いた気分で過ごせたほうが、より、充実するだろう。

そのための手段のひとつが

「今からは、自分のために一つひとつ、

より平穏なほうを選ぶ」と心がけることである。

順番に例を挙げていこう。

たとえば、過去の出来事を思い出して落ち込む。

しかしそれはあくまで「過去」の話。今、現在進行形で

それに向かい合っているわけではない、と

自分に本気で、真剣な気持ちで、きちんと自覚させるのだ。

そうすれば「つらい、つらい、どうしようもなくつらい」という

感情の波に巻き込まれないで済む。

つらさは湧くだろう。確かに湧くけれど、それに心が乗っ取られて

感情が丸ごと飲み込まれてしまう事態は、

防げるか、少なくとも時間を短縮できるのだ。

現在進行形のことで、それがまさに今、

自分を痛めつけているなら、そういう事態は現実だけれど、

でも延々、この苦しみを続かせなくちゃいけないわけではないことを自覚する。

たとえば病で今、苦しくても、この先、それと折り合う考え方を

見つけられるかもしれない。

病は、自分を見つめ直すキッカケを与えてくれることは事実で、

それによって自分も変化する「学び」には、変えていけるのだ。

そしてその際、未来については「起こっていないことの

悪い予想をしたうえでの心配である」ことを、明確に自覚するのだ。

対策は、本当に立てられないのか。

ほんの少しの改善(しばらく時間を置いて

改めて考える、も含む)さえ、不可能なのか、ということだ。

次に、そのときさえよければ、楽しめれば、と思ったときには、

あとで自分が後悔しそうなところまでは選ばない、

あるいは、どうしてもそれを選ぶとしても

「あとでこうなるかもしれないことは、自覚しておくぞ」と意識する。

失うのが怖いがゆえに、疑問や違和感を感じながらも

その場の雰囲気に、相手に、とりあえず合わせてしまうのではなく、

「感じている」ことを今、この瞬間に、明確に自覚しておくのである。

これを繰り返すと、選択肢がだんだん変わってくることが、

少しずつ理解できると思う。自分を客観視できるからだ。

~つづく~

追伸:好きでいていい練習

心のなかで、広い野原をイメージしてください。

広くて、青々した草がふくらはぎのあたりまで柔らかく生い茂り、

太陽の光がふんわり降り注いでいる、

見渡す限りの、優しい平原。

それが、あなたの心の中にある、

あなたの世界の中心です。

その世界の中心で、思い切り、叫びましょう。

オレは、自分のこと、好きでいいんだ!

私は、自分のこと、愛してあげていいんだ!

と。

世界の中心で、自分に向かって、世界中に向かって、

心のなかで、本気で、叫んであげましょう。

何度でも、いつでも。

そして、気が済んだら、自分で自分を、優しく抱きしめてあげましょう。

優しく、温かく。

自分のあまりの欠点に、叫ぶ気力がなければ。

「○○だけど、私はそれでも、自分を好きでいていい」と唱えましょう。

○○のところに、どうしても思い浮かぶ、自分の欠点を当てはめて。

ヘタレだけど、弱いけど、勝手だけど、動けないけど、

お金ないけど、仕事できないけど、

なんでもいいです。

全部の欠点について唱える必要もないけれど、

唱えたければ、気が済むまで、唱えてもいい。

何があろうと。

どんな状態であろうと。

私は、私を好きでいていい。

私は、私を、愛している。

ただ、それだけでいいのです。

理屈なしで自分を好きになる

自分はヒドイ人間だ。

でも私は、そのヒドイ自分であることを、今、ゆるしていい。

自分は弱い。

でも私は、弱い自分を今、そのまま好きになってあげていい。

あの人が自分の言うことを聞いてくれなかった。

あの人が愛してくれなかった。

でも、今、私は、私を自ら、愛してあげていい。

私自身が、愛してあげていい。

できてないから。

応えられないから。

動けないから。

そうなのね。そのこと自体は、苦しいよね。

でも、その状態とは何も関係なく、

私は、自分が、自分を愛することを、許可していい。

自分を愛するのに、何か理由はいらない。

まったく、必要ない。

すべての根っこの部分で、当たり前のこととして、

何があろうとも、何ができてなくても、

自分はいていいし、自分は自分に愛されていていいのだから。

アイツが憎い。

社会が憎い。

こうなったのはアイツのせいで、

うまくいかないのはあのことのせいで、

私は悪くない。全部、外側のせいだ。

うん、それもまた、そう感じているの、キツイよね。

でもそれとは何も関係なく、

ただ、そう感じている自分自身をゆるしていい。

苦しんでいる自分を、苦しみとは関係なく、ただ、愛すると思っていい。

かわいそう、と同情するんじゃないよ。

人と比べて自分が云々、じゃないよ。

他人のことは、周りのこととは、一切関係なく、

どんな自分であっても、私は、自分を愛していい。

過去に何があったとしても、

まず、私が一番最初に決めるのは、

今、この瞬間から、

自分を憎むのをやめて、自分の失敗をゆるして、

自分が、自分を、好きでいてもいいんだ、

どんなときも、本当にどんなときも、

自分は自分を見捨てなくていいと、

決めることなのだ。

そのために周囲と自分を比べて、どちらがひどかったか、

量る必要は、一切ないのだ。

ヒドイ他人は、一切関係ない。ヒドかった自分も、もういいのだ。

私は、私のことを、

大事にして、優しくして、好きになってあげていい、

どんな自分も、いつも、ゆるして、愛してあげていい。

一番最初に、

自分でまず、自分に手を差し伸べてあげる、

今から、その許可を自分に出していいと、

ただ、決意するのだ。

たぶん、あなたが、どんなに自分をキライな理由を述べても、

どんなに他者に傷つけられた理由を述べても、

そんなことはもういいんだよ、もう大丈夫だよ、

それがあろうとなかろうと、あなたは、根拠も理由もなく、

自分を愛おしいと思っていいのだと、

心ある人なら、皆、わかるだろうから。

過去に何が起ころうと、何を経験してこようと、

今、ただ、この瞬間から、

自分を愛してあげていい。

自分をゆるし、大切にしてあげていい。

それが土台、それがすべての基本、

それを思っていいのだと、あなたの周りの人は知っているのだ。

あなたも、痛んだ他者をみれば、知っていることに気づくはずだから。

それにね、

自分を愛していい、ということと

自分だけを愛していいということは

全然、まったく、違うから。

自分だけを愛している人は、他者を傷つけるけど、

自分が自分を愛していいのだと知れば、

他者を傷つける必要さえなくなる。

だから。

ブスでも、デブでも、弱気でも、強引でも、

情けなくても、自己チューでも、カッコ悪くても、孤独でも、

傷ついていても、傷つけていても、

あの人がひどくても、社会が原因で苦しんでいても、

関係ない。構わない。なんら自分を愛する妨げに使わなくていい。

何の理由も理屈も納得もなく、

今までがどんな自分であっても

今から、今、この瞬間から、

私は、私を好きでいい、愛していい、大切にしてあげていいと

ただ、決めてほしい。

過去から丸ごと、自分をゆるして、もうこれからは、

ずっと、何があろうとも、自分を愛していいのだ、と。

過去の苦しみを整理したいときだけ、

たとえば、他者に打ち明ければいいよ。

自分をもっと愛するために、そんなふうに整理する。

整理すればその苦しさを、手放すきっかけをつくれる。

愛しているからこそ、整理できる。

これから先も、何が起こっても、

自分を愛していいし、

その土台はもともと、揺るがないまま、

存在していていいものだったと、

実際、決めてやってみれば、

その後でやっと、気づくから。

この先も、何かがあったら、整理すればいい。

ただ、それだけのことなのだ。

どうか、今、まず最初に、自分を抱きしめてあげてください。

心の中で、優しく、温かく。