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肯定感を持つために

先に書いた、他者の前で自分の痛みを見つめることは

自分を客観視することにつながる。

そのときの自分がどういう状態にあったかを、

苦しい思いのみにとどまらずに

見ていくことになるのだ。

人間関係で苦しむ人の場合、

ときに、自分の思いにこだわるあまり

他者の感情を客観的に想像できない、という事態が起こる。

それはなぜかというと、どう思われるかが、怖いから。

怖いからこそ、自分の感情のみに注意を払ったり、

怖いからこそ、過度に、他者への影響を心配するのである。

相手は傷ついているのに、そのことに気づけない。

あるいは逆に、相手はなんとも感じていないのに、

自分が何かしてしまったのではないかと、

ビクビクして顔色をうかがってしまう。

そんなことはない、自己愛のひどい人、自分勝手な人は、

自分のことを優先して、大事にしているではないか、と

思われるかもしれないが、強烈に自分勝手に振る舞う人の心の中には、

逆説的に、人から見捨てられるかもという強い恐れがある。

横暴な父親は、自分を愛していることを示してもらうために、

横暴・命令的に、振る舞ったりするのだ。

もちろん家族がそのことを安易に指摘しようものなら、

とんでもない逆襲に遭ってしまうけれど……。

他者が怖いから、先に相手はひどい人間であると仮定して攻撃する。

他者が怖いから、常に自分を悪者ではないかどうかチェックする。

そのような緊張関係を、自ら作り出してしまうのだ。

そしてそんなにも他者が怖いのは、自分が傷つくのが怖いから。

傷つけられたときに、立ち直るすべを、

自分は持っていない、そういう弱い人間であると、

決めつけているからである。

どちらも、自分自身を信用していないからこそ、起こる。

心理学的には、例えば幼少期に親との関係がうまくいかなかったなど、

子ども時代に適切な自我が芽生えなかったことが、

こうしたいびつな関係性を生むとされている。

確かに、幼少期の体験は、その後の人格形成に

大きな影響をもたらすらしい。

しかし、100%、必ずゆがむかと言えば、そうではない。

あとから学んでいくことができるからだ。

だから今、大人になってから、改めてそのゆがみを

別の形に変え、新たな自分を取り戻していくことは、できるのだ。

そのために、恥だと思って隠してきたこと、

自分で許せない自分、の部分を、ゆるしていくやり方がある。

他者に打ち明けるというのは、そのひとつの方法なのだ。

親と、大人になってから(場合によっては親の死後でも)

和解できる点を探すこともできる。

自分が「そうだったんだ」と理解できればいいのだ。

ただ、もしかしたら長い間に渡って、

あまりにも自分自身の感情のみに意識を集中してきたのであれば、

他者の気持ちを的確な範囲で感じ取る練習から、

始めなくてはいけない場合もあるだろう。

その練習を、恥じることのないようにするためにも、

まず先に、否定している自分のことを、

否定しなくなるように、変えていく練習を始めてほしい。

他にも、例えば、他者との関係で自分を見つけることはできる。

他者が頼ってくるのがわずらわしい、と感じるなら

人に頼ることはいけないのだ、と決めつけている自分がいるかもしれない。

それは、その苦しさを打ち明けてみることで、

いけないことではないのだ、と気づけたりもする。

だからこそ、他者との対話は、そういう気づきの上でも、

大切にしていってほしいと思えるのだ。

ただ、どうしても他人に打ち明けられないし、

自分を好きになれない、というのであれば、

無理やり呪文のように、自分に向かって

「○○(自分の名前)、愛してるよ」と言い続けてみる方法もある。

これは、私が傷を自分で癒やすためにさまざまなことを

知っていくうち、スピリチュアルな方面で知り合いとなり

助けをもらった、癒羽(ゆう)さんから教えてもらったやり方だ。

詳しい方法は癒羽さんのホームページに載っているので後で紹介する。

私はこの方法で、幸せ、と感じるまでには至らなかったが、

ある日、やっていたら、ふと泣けた。

その涙は、お馬鹿な自分をゆるしていくために

必要なものだったように思う。

スピリチュアルが嫌いな人でも、自分を少しくらいゆるすことは

できると思うので、どんなに嘘っぽく感じてもいいから、

我慢して、しばらく、例えば1ヵ月、やってみてほしい。

1日5秒だけで終わるようでは、ほとんど意味がないけれど……。

自分に自分を信じさせることが、まずは大切だからこそ。

今よりよくなる可能性はあっても、悪くはならないから、どうか……。

最後に、癒羽さん、今回は勝手ながらご連絡せずに

ここでホームページの一部を紹介させていただきます。

事後承諾になり申し訳なく存じますが、どうかご容赦ください。

◎癒羽さんの解説ページ

http://healingspaceyou.com/work.html

経験を他者の前で語るということ

痛い思いを過去にした人は、ときとして

自分を守ろうとするあまりに、

経験から感じるその痛い部分を遮断する。

とくに小さいころ、それを経験すると

自分が痛い、と感じることは、

自分の命が守られなくなることと

直結してしまうことさえある。

親から、あるいは目上の人からの

守護を受けられなくなったり、

友達への信頼を失ったりする、と、

感覚的に判断してしまうのだ。

それゆえ、この痛い思いは

「自分がいけないことをしたから」感じたのであり

そう感じるのは「自分が悪いのだ」と、決める。

それを「悪いことではないよ」と説明してくれる他者が

そのとき、そこにいなかったがゆえに。

痛い思いをしたら、普通に、人は、悲しむ。

この「悲しむ」という行為は、

その後、自分が立ち直っていくうえで

とても重要で必要なことなのだけれど、

先に書いたように、自分が悪いのだと感じた人は、

悲しむことをも、停止してしまう。

ゆえにその思いは軽減されず、癒されず、

それゆえ、心の中にはずっと重たい
ものが残る。

でも、頭の中の理解では、

それは「いけないこと」であるから、

その思い自体を、忘れてしまおうとし、

実際、表面的な記憶からは消えてしまうこともあるのだ。

あまりにも繰り返し、理不尽なことが身のまわりに起こり、

なぜなのかまったくわからず、

途方にくれているなら。

とくに、人間関係で何度も同じように行き詰まるのなら。

この、痛い思いにまで立ち返り、それを改めて、

ちゃんと悲しんであげる必要があることも多いのだ。

カウンセリングというものは、治療する他者がいて、

その他者の前で、自分がこれまで恥だと思ってきたこと、

心の闇だと思ってきたことを、

改めて表面化させ、理解しなおしていく作業である。

もちろん、職業的にそれを行っている人のもとで

表面化させ「なければいけない」わけではなく、

信頼できる友人や恋人との間で、それができることもある。

痛い思いを追体験することは、自分の首を締めるように思えるし、

それを聞いた他者が自分にあきれてしまい、

見捨てられてしまうのではないかという恐怖心をもかきたてる。

それでもなお。

ひどく痛い思いを抱えているのであれば、

あるいは抱えていることは忘れていても

何かおかしい、と感じているのであれば。

改めて掘り起こし、痛かったことを感じ、涙を流すことは、

自分を取り戻すことの役に立つのである。

痛い思いをする前の、感情をきちんと捉え、涙できていた自分を。

何が他者のせいで、何が自分のせいであり、

どうすればうまくそれを捉え、整理し、

乗り越えていくのかを「自分でわかる」ようになる、

その手助けとなる。

答えは、必ず、自分の中にあるから。

本当に深く痛い思いをした場合、身体も、精神も、

自分の心から離れさせてしまうこともあるから、

この作業を行ううえでは、自分がどういう状態であるのか、を

見極めつつ、その機会を作っていくよう、

注意をはらう必要もありうる。

そのことを私は専門にしているわけではないので、

ここでは、他者に打ち明けるということが、

ときに自分を取り戻すことにつながる

重要な行為になりうることを、伝えたい。

話を聞いても、自分を馬鹿にしたりは

しないだろうと感じられる相手に。

あるいは、そのような人が集まり、安全が保証されている場で。

自分が痛く、かつ、恥だと思ってきたことを打ち明け、

涙を流すことは、自分を変えていくであろう力になることを、

ここに記しておきたい。

最後に、ひとつ、残念な話。

そうしたことを職業的に行っている方の中には、

お金儲けや自分の名誉のために、そういう人たちを操作したり、

あるいは自分を癒やすためにさえ利用する人がいる。

話として、聞いたことが何度かある。

とても大変な仕事であるから、それを選択されたことには

敬意をはらいたいけれど、

いつのまにか、操作する側に回られてしまったのであれば、

それを自覚し、いったんその仕事を止め、ご自身の傷を

まず先に癒されますようにと心から願う。

さらなる悲劇を産まないためにも。

そして 自分を抱きしめる

悲しいときに

苦しいときに

これまで経てきた自分の道を

責めるのではなく

叱るのではなく

抱きしめるのは なぜ いけないのだろう

間違いを犯したから?

正しくないから?

弱かったから?

怖がっていたから?

それは 非難に値すると

誰が 決めたのだろう

苦しむくらい

痛いくらい

涙が出るくらい

あるいは泣けないくらい

あなたは 必死だったじゃない?

何もしてない? できてない?

怖くて 動けなかったんだよ

そうやって なんとか

自分を守り 自分を支えてきたんじゃない?

そのこと自体が 間違いだとも?

それはどんな 間違いなの?

正しいって何がだろう

他の人がすごいって何をだろう

何を基準に

何と比較しているのだろう

その基準すら もう

わからなくなってはいない?

自己卑下の嵐の中

あなたはいったい 本当は

何を 責めているのだろう

観念的な 抽象的な

他人と自分? 社会と自分?

その比較に 意味はあるの?

間違ってきたとしても いいんだよ

うまくいかなったとしても

練習なんだよ

あなたを除くすべての人は

間違ったりしないとでも?

ほとんど正しいとでも?

正しさ なんてものがあったとして

その正しさという基準は

とてもあいまいで

とても危ういものでしかないのに

時代が変われば基準も変わる

環境が変わればまた変わる

そんな流動的なものなのに

あなたは 架空の固定観念をつくり

その中にある 理想の偶像に

自分はなれないと決めつける

自分をただ 卑下の位置に

縛りつけているだけなのに

ねえ

どんなに失敗してもいいのよ?

どんなに悩んでも

その学び方をしている道は

決して間違いではないし

正しくない なんて類のものでもない

ただの 学びの ひとつの道に 過ぎないのだ

学びの道なんて 千差万別だし

その学びから あなたは必ず

何かを得ているから

優しさだったり 思いやりだったり

思慮深さだったり 共感力だったり

必ず 必ず

何かを感じとっているのよ?

だから今は 気づけなくても

自分を そんなにまで

否定しなくていいんだよ

痛いときこそ

苦しいときこそ

あなたが 頑張ってきたということだ

あなたが 何かをつかもうと

挑戦してみた証なのだ

だからこそ そんなに 痛いんだよ

ねえ だからもう

そこまで自分を責めなくて大丈夫だよ

それより先に 真っ先に

今の自分を

耐えてきたね 辛かったね

よく頑張ってきたね

答えの見えない中で

右往左往しながら 

なんとかやってきたんだよね って

心の中で 抱きしめてあげてほしいんだ

小さな子どもを いたわるように

小さな生きものに 優しく触れてみるように

自分自身で 自分を 抱きしめていいんだよ

本当は今 それが一番先で

一番大切で

一番 今のあなたに

必要なことだから さ