経験を他者の前で語るということ

痛い思いを過去にした人は、ときとして

自分を守ろうとするあまりに、

経験から感じるその痛い部分を遮断する。

とくに小さいころ、それを経験すると

自分が痛い、と感じることは、

自分の命が守られなくなることと

直結してしまうことさえある。

親から、あるいは目上の人からの

守護を受けられなくなったり、

友達への信頼を失ったりする、と、

感覚的に判断してしまうのだ。

それゆえ、この痛い思いは

「自分がいけないことをしたから」感じたのであり

そう感じるのは「自分が悪いのだ」と、決める。

それを「悪いことではないよ」と説明してくれる他者が

そのとき、そこにいなかったがゆえに。

痛い思いをしたら、普通に、人は、悲しむ。

この「悲しむ」という行為は、

その後、自分が立ち直っていくうえで

とても重要で必要なことなのだけれど、

先に書いたように、自分が悪いのだと感じた人は、

悲しむことをも、停止してしまう。

ゆえにその思いは軽減されず、癒されず、

それゆえ、心の中にはずっと重たい
ものが残る。

でも、頭の中の理解では、

それは「いけないこと」であるから、

その思い自体を、忘れてしまおうとし、

実際、表面的な記憶からは消えてしまうこともあるのだ。

あまりにも繰り返し、理不尽なことが身のまわりに起こり、

なぜなのかまったくわからず、

途方にくれているなら。

とくに、人間関係で何度も同じように行き詰まるのなら。

この、痛い思いにまで立ち返り、それを改めて、

ちゃんと悲しんであげる必要があることも多いのだ。

カウンセリングというものは、治療する他者がいて、

その他者の前で、自分がこれまで恥だと思ってきたこと、

心の闇だと思ってきたことを、

改めて表面化させ、理解しなおしていく作業である。

もちろん、職業的にそれを行っている人のもとで

表面化させ「なければいけない」わけではなく、

信頼できる友人や恋人との間で、それができることもある。

痛い思いを追体験することは、自分の首を締めるように思えるし、

それを聞いた他者が自分にあきれてしまい、

見捨てられてしまうのではないかという恐怖心をもかきたてる。

それでもなお。

ひどく痛い思いを抱えているのであれば、

あるいは抱えていることは忘れていても

何かおかしい、と感じているのであれば。

改めて掘り起こし、痛かったことを感じ、涙を流すことは、

自分を取り戻すことの役に立つのである。

痛い思いをする前の、感情をきちんと捉え、涙できていた自分を。

何が他者のせいで、何が自分のせいであり、

どうすればうまくそれを捉え、整理し、

乗り越えていくのかを「自分でわかる」ようになる、

その手助けとなる。

答えは、必ず、自分の中にあるから。

本当に深く痛い思いをした場合、身体も、精神も、

自分の心から離れさせてしまうこともあるから、

この作業を行ううえでは、自分がどういう状態であるのか、を

見極めつつ、その機会を作っていくよう、

注意をはらう必要もありうる。

そのことを私は専門にしているわけではないので、

ここでは、他者に打ち明けるということが、

ときに自分を取り戻すことにつながる

重要な行為になりうることを、伝えたい。

話を聞いても、自分を馬鹿にしたりは

しないだろうと感じられる相手に。

あるいは、そのような人が集まり、安全が保証されている場で。

自分が痛く、かつ、恥だと思ってきたことを打ち明け、

涙を流すことは、自分を変えていくであろう力になることを、

ここに記しておきたい。

最後に、ひとつ、残念な話。

そうしたことを職業的に行っている方の中には、

お金儲けや自分の名誉のために、そういう人たちを操作したり、

あるいは自分を癒やすためにさえ利用する人がいる。

話として、聞いたことが何度かある。

とても大変な仕事であるから、それを選択されたことには

敬意をはらいたいけれど、

いつのまにか、操作する側に回られてしまったのであれば、

それを自覚し、いったんその仕事を止め、ご自身の傷を

まず先に癒されますようにと心から願う。

さらなる悲劇を産まないためにも。

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