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コマドリとスズメの中身

ここ数日、読者さんのコメントやブログに触発されたので、前回の続き話のようなことを書こうと思う。

私たちは普段、自分がなぜその行動をするのか、を、あまり深くは追究しない。

ひとつ、責任があるから。

ひとつ、お金を稼ぎたいから。

ひとつ、面白そうだから。

そんな感じの理由で、こうしよう、ああしよう、

あるいはこれはやめておこう、と決めているように思う。

それがときに、前回書いた「一本足で泥沼の中に立って、あれこれ抱え込む」事態をも生む。

やってもやっても終わらない、とか、

何をしても達成感がない、とか。

で、何やってるんだろう、というむなしさにもつながる。

それを私は、コマドリとスズメを例えにして書いた。

行動の元になる、さらにもう一段、奥にある気持ち、考え方、受け止め方。

それが底にあって、そのうえで夢や希望や願望や責任なども感じたりして、行動しているのだと。

では、そのコマドリやスズメにあたるものって、何だろう。

ここでまた、宮部みゆきさんの小説を例に出させていただく。

宮部好きだね、と言われそうであるが(笑)そう、好きなのだ。

この方は、「ひとの気持ちの、その奥のほうの感情」を見つめるから。

登場人物のなにげないセリフに、ドキッとさせられることが多いのである。

ある、とても勘のいい、頭のよい子どもが、

ある女性に、生き物を飼うといずれ死んでしまうから、

私は飼うのがイヤなのです、という話をする。

そして自分の叔父に聞いた話として、子どもは続けてこう言うのだ。

 「人は欲深いものだと、叔父上はよく言います」と弓之助は言った。「わたくしが、生き物と

 別れるのが嫌だ、だから飼わないというのも欲だと」

 「欲……?」

 「はい。一度自分が親しく思ったものが、どんな理由であれ、離れていく。

  それが我慢できないというのも、立派な欲だと。それでも、その欲がなければ人は立ちゆかない。

  そういう欲はあっていいのだ。だから、別れるのが嫌だから生き物と親しまないというのは、

  賢いことではない---」

   弓之助は頭を動かし、空を仰いだ。

 「そして、いつか別れるのではないかと、別れる前から怖れ怯えて暮らすのも、

  愚かなことだと教わりました。それは別れが怖いのではなく、自分の手にしたものを

  手放したくないという欲に、ただただ振り回されているだけなのことなのだから」

(講談社文庫 宮部みゆき 『日暮らし』 上巻p120~121より引用)

これはもちろん、生きものだけに限った話ではないと、おわかりいただけるだろう。

地位も、名誉も、お金も、仕事も、よいくらしも、楽しみも、信用も。

人からよいように思われたいという気持ちも、

この人から好意を得たいという気持ちも。

失うのが怖いから、やる。

失うのが怖いから、やらない。

そういう動機で何かを決めたり行動したりするとき、

それらはすべて「欲」に基づいている賢くないやり方だ、という話なのだ。

欲は、あってよい。それがあるから、人は行動しようとする。もっと言えば、

その欲を満たすために、よりよく行動しようとする。

でも、失う怖さを元にして、満たされることのみに眼点を置くと、とたんに振り回されるのである。

欲そのものはコマドリでもあり、スズメでもあるだろう。

でも、失う怖さ、は、スズメでしかない。

あなたを無茶な行動に駆り立てていったり、あるいは逆に、あれこれ理由をつけて動けなくする。

それは賢くない。

というか、いつまで経ってもゴールはない。

いつまで経っても……やっても、やらなくても、不満なままである。

だってもし、それを得たら、達成したら、次が欲しくなるから。

あるいは今度は、失うのが怖くなるから。

状況が変われば、失うこともある。やって、得られないこともある。

その代わりにまた、そのときそこで何かを学び、やがて別のことを得ていく。

だからその怖さを抱えている自分をまずは自覚して、

失うこと自体を怖れない……欲だけに集中してものごとを考えないようにする。

たぶん、そんな練習が必要で、私たちはずっと、それを練習していくのだろうと思う。

欲だけに集中したらどうなるか。もう一つの端的な例を、最後に1つ挙げておこう。

「どうして今、ここでこれを買ってくれないの!」と売り場でダダをこねる子ども。

ただ、それが欲しい、ということだけに囚われ、

頭はもう、かなわないことだけでいっぱいいっぱいで、

それを得たときどうなるか、得たあとどうなるか、

どう変化していくか、どういう気持ちになるかを、見通せない。

欲だけに囚われると、全体的な、長期的な視点を、持てなくなるのだ。

あるいはそこで失敗すると、さらに怖くなって次も、できなくなるのである。

子どもにならなくても、考え方や受け止め方、視点、やり方はいくらでもある。

満たされ方も、他にだってある。

それに気づけず、ただそのやり方に、願望に、欲に、囚われすぎている自分を、

まずは自覚してもらえたら、と思う。

……もちろんこれは思いっきり、自分への戒めも含めた話である。

私もまた、練習の最中なのだ。

誰がコマドリを

マザーグースのなかで、おそらくハンプティ・ダンプティの詩とともに有名であろう

クックロビン(コマドリ)の歌、その最初の節。

 Who killed Cock Robin?

 I, said the Sparrow,

 with my bow and arrow,

 I killed Cock Robin.

 誰が殺した クック・ロビン

 それは私 とスズメが言った

 私の弓と 私の矢羽で

 私が殺した クック・ロビンを

漫画家、萩尾望都さんの和訳が一番シンプルで好きなので

それを引用させていただく(『ポーの一族』より)。

あなたのなかに いたコマドリ

それを ころしたのは スズメ

あなたが後悔している 死んでしまった コマドリ とは何だろう?

あなたのコマドリを ころしてしまった スズメ とは何だろう?

あるいは コマドリ を得ようとして 夢を見ていたのだろうか

それがいればいいのに そうしたら私は 幸せなのに と

現実には コマドリは 今 いない

あなたの手元には 今 いない

あるいは 手に入れようとして 夢見ていただけだった

そのコマドリが いなくなったのは 今 いないのは なぜだろう

また同じようにがんばれば 手に入るのだろうか

いいや スズメが あなたのなかにいる限り

あなたのそばに いる限り 同じやり方をしても また 失うだろう

泥沼のなかに 1本脚で立って いろいろなものをたくさん抱え込んだら 倒れてしまう

それをしたから してきたから あなたは倒れてしまったのだ

ならば泥沼をまず 埋めなくてはいけない そこから自分を 移動させるか

抱え込む前に きちんと地ならしをするか

先に それを やらない限り またいつか 倒れてしまう

時間がないのだ 忙しいのだ とにかくもう 今 立たなければ意味がないのだ

意味がない? 何の? それはどんな おそれ なのだ?

失ったコマドリのことを嘆く時間も 確かに必要である 必要なときもある

でもそれは コマドリを失った自分を哀れみ続け 悲劇の主人公で い続けるためではない

そこから 抜け出すための過程として 今 必要なだけである

ねえ コマドリは もう いないのだ

それなのに あなたのなかに まだ スズメがいるのであれば

まずはそのスズメを 追い払わなくてはいけない

土台から 「新しく」 やり直すしかないのだ

引き続きがんばっていれば 泥沼は 1本脚は 変化するのか?

いいえ

あなたがやめない限り 次のコマドリがやってきても スズメがまた それをころすだろう

スズメそのものを追い払い 土をならし 二本脚でしっかり立って 腰を低くして安定させ

それから 次のコマドリを迎える

あるいは 夢のコマドリではなく 現実のコマドリを迎え入れる

それが決意できるのは それが実行できるのは あなた自身しか いないのだ

もしすでに あなたが スズメの存在に 気づいているのであれば

どうか 土台から見直してほしい

いないものは いない

今 そこから 「新しく始めていい」 のだと 知ってほしい

悲劇の主人公であり続けることを あるいは同じ過ちを繰り返すことを

どうか どうか 選択しないでほしいと願う

スズメを追い払う力はすでに あなたに内包されていることを 知ってほしいと願う

目指すもの

まず先に、一言、お詫びします。

昨日のブログで、ワザと説明を省いて

言葉を記したところが2ヵ所、あります。

ひとつは、

外側の光の服を脱いだとき普通の人に「成り下がる」

と書いた部分、

もうひとつは、思いやりや愛、についての説明でした。

なぜ、成り下がると(カギ括弧をつけてはいますが)

書きっぱなしにしたか。

それは、光の服が大好きな人ほど、この言葉を強く感じて

ドキッとされるだろうと思えたからです。

周りが、というよりご本人が一番、そう感じておられるのです。

恐れとして。

それを、意識して欲しかったのです。

なので、憤慨された方がいたら、どうぞお許しください。

思いやりのほうは、今日の話に回したかったので、

これまたあえて、あっさり書いてそのままにした次第です。

こちらも、言うのは簡単だよ! と思われた方がいたらすみません。

さて、本題。

成り下がる、ことと思いやり。

この2つは、結構リンクしているように、私には思える。

実例を挙げながら、話していこう。

私の知り合いに、ある程度都会的なところから、

田舎の里山にご家族で引っ越しされた方がいる。

まったくの無関係な土地ではなく、親族の旧家のようなところ。

だが、兄弟など直接的な知り合いがいるわけではない土地。

自然の豊かなその場所で、早めにセカンドライフを楽しもうと、

移住されたのである。

が、しかし。

その里山には、問題のあるお爺さんが住んでいた。

その土地の、昔の名士……まあ、権力者だったらしい人(地主か、

地方議員も少しやってたか、そんな話?)で、引退されてからも、

その土地を守ろうと「大義名分」上は考えていたらしい。

知人のご家族は、なぜか彼に敵意をもたれてしまった。

たぶん、彼を敬うような行動を、最初の頃に

知人たちが取らなかったからだとは推測されるが、

そんなの引っ越し後、いきなりわかるはずがない。

しかもそうなるまでの期間はあっという間であり、

彼を知り、話し合う余地も時間もなかったそうなのだ。

まあそういう感じで、お爺さんからの敵視が始まった。

で、このお爺さんは何をしたか。

車の中から、毎日に近い頻度で知人宅を監視したり、

ときには嫌がらせとして、ガラス破片などを

知人の家の前にばらまいたりしたのだ。

やってることは、ほぼストーカー行為に近い。

でも、彼の表面上の意識は、この不審な新参者が

村に悪影響を及ぼさないよう、俺が見張って守らなければ、

という正義である。

そして心の奥底で求めているのは、

俺はこの村の、光輝く名士なのだ!

昔からの住民は皆、それを知っているから

俺を敬っている!(事実は単なる「触らぬ神に祟りナシ」の扱い)、

だからお前達も、俺の威光にひれ伏すべきなのだ!

という、ふんぞり返った傲慢さである。

彼にひれ伏さないから、相手に罰を与えていたのだ。

彼が若き頃、この町を守ろうと最初に決意したときは、

確かに、夢に燃えたかもしれない。

この村を、よくしていこうと。そしていろいろ頑張って、

感謝されることも、もしかしたらあったかもしれない。

彼は、その光輝く服を、たいそう気に入ったのだ。

その立場を退いてからも、村の長老的役目を

果たしたかったのかもしれないのだが。

残念なことにその対立は、彼が亡くなるまで解けなかった。

知人も、周囲の人の及び腰を残念に思いつつ、

自分たちに味方することで実際、その方々にも

迷惑がかかる可能性が高かったため、あきらめた。

あまりにひどい場合には苦情も伝えたりしたが、

基本的には、相手にしないという方法を選んだ。

そこで暮らして生きたかったから。

とても好ましい自然がある土地だったから。

そのお爺さんが亡くなった年、初めて、知人は、その里山の秋の美しさに

心から見とれたそうだ。こんなに美しいとは知らなかった、と。

それほど、緊張の日々だったのだ。

私は知人の気持ちのほうがよりわかるため、

個人的には、こう書きたくはないのだが、

ここから先は、あえて冷静に書いていく。

訳のわからないうちに敵視され、ストーカー的な行為をされたら、

その相手と冷静に話し合い、和解を目指そうと

努力し続けることは難しい。

知人たちも何度か、落ち着いた話し合いにチャレンジして

あきらめたらしいのだが、それはもう、そうなっても

仕方のない話だ。

だからその部分では悲しい、と思う。

ただそれでも、お爺さん、腹を割って話し合いしませんか、

という方向へ、何かをきっかけとして持っていくことは、

本当にまったく、できなかっただろうのだろうか、と。

相手に立ち向かうのではない、苦情を言うだけではない視点。

憐れみ、と書くと語弊があるかもしれないが、

お爺さんの悲しさをひも解く方向。

ホンモノのストーカーにもしそれをやったら、愛情が絡むから

さらに誤解を生む危険もあり、絶対に止めてほしいのだが、

この場合は、そのような視点から働きかけられる可能性は

0パーセントだったのだろうか、とも思うのだ。

現実的には、とても厳しい話だとわかっている。

わかっているから、視点の話として書いている。

実際に直接、お爺さんにやらなくてもいい。

時が経ってから、そのように考えてみることで心が落ち着くのであれば、

いかがでしょう、という提案レベルの話。

たぶん、慈悲、という言葉を使うのが、イメージとしては

一番伝わりやすいかと思う。

そしてお爺さんのほうには。

外側の服を保ちたければ、内面から光を放つことで、

自然に人は、信頼と感謝を寄せてくれるのだということを、

知る機会はなかったのだろうかと。

見張っている時間があるのなら、道で困っている人を探して

淡々と普通に手助けすることだって、できたと思う。

過去の、外側の光の服の思い出に、そんな思いやりがプラスされれば、

あんなに立派で思いやりのある人だからこそ、

やはり名士にふさわしいと、人々は受け止めてくれただろう。

ある意味、最強である。

それはまた、周囲の人も感化していく状況を生み出し、

まさに住民の暮らしやすさ、村の暮らしの向上にもつながっただろう。

そんなチャンスがあったのに、彼は見向きもしなかった。

もちろん、名誉目的の計算された思いやりは、

すぐバケの皮がはがれるから(それをやると名誉どころか、

信用が地に堕ちるだろう)、やめたほうがいい。

でも単純に、発すれば気持ちよく、返ってくればうれしいことを、

お爺さんがみすみす見逃したのはとてもとても、残念である。

今日はこの実例だけで話を終える。

何を受け止められるかは、人によってさまざまだと思うが、

この実例を知ったうえで、自分と、自分の周囲を一度、

見つめ直してみてほしいと願う。