木元見春 のすべての投稿

外にまとう光と、内から放つ光

このところ、なんとなく、外側の価値と内側の価値、

というようなことが気になっていて、

このブログでもときどき触れたりしていた。

先日の視点2、の話とかね。

そうしたら、やはり、そういう書物に出会う。

何冊かあったけれど、具体的で物語として面白かった、

宮部みゆきさんの小説の表現を、少しお借りしながら話してみようと思う。

私か読んだのは、最近文庫本となった『英雄の書』上・下巻。

ストーリーはヒロイックファンタジーに分類されるが、

そこはさすがに宮部さん、普通のファンタジーではない。

人が、光輝く英雄になりたい、と思ったとき、

その裏側に必ず影はでき、この2つは離れることはない、

というような視点が含まれている。

外側の、立派なもの。

名誉、地位、財産、偉いと人から思われそうな職業、

いわゆる社会的立場、肩書きはもちろんのこと、

家族内での強い力、友人関係における強さなど。

それを、自分で意識したとき、その裏では必ず、「驕り」(おごり)という

危険性が含まれる。

簡単に言ってしまえば、他人に向かって

「私はエラいんだ!」と力を示したがる危険性である。

それは常に、「他人に示すこと」を目的とする類のもの。

他者と自分を比較し、優劣をつけようとしている印なのだ。

別に、社会的な話に限った話ではない。

正しくありたい、自分のほうが正しいことを世間に証明したい、とか、

私の強さを、素晴らしさを、才能を、周囲に知らしめたい、

人に認めさせたい、と思うことも、驕りに容易につながる。

それを、目の前の家族にやるか、会社でやるか、

もっと大きく社会的にやるか、の差はあっても、

自分のほうが……という思いは同じである。

誰かがそう思ったとき。

それを知った他の誰かが「ああ、そんなやり方をしていいんだ」と知り、

私は私でエラいんだから、それを示していいや、と思ったとき。

正しい、正しい、が、いろいろなところで現れ、

互いに自分のほうを認めさせようと争いが起こる。

その端的な例が秋葉原のあの事件であったり、

世界各地の紛争、人種差別であったりする。

自分の素晴らしさ、正しさを証明するめに、争って戦い、

理解しない人を傷つけていいのである。

だからその争いを収めるため、世の中に法律が存在しているが、

その法律でさえ、解釈はマチマチで、国によっても違うのだ。

他人に示す、英雄的な自分の光。

それは自分の外側の、もうひとつの「服」のようなものだ。

その立場が崩れた瞬間、服が脱げる。例えば地位を失ったりしたら、

その人はとたんに、自分では意図していなかった

服のない普通の人に「成り下がる」。

さらに、思いこみによって人道的倫理観をも超え行動した人は

裁判によって「犯罪者」になりうるのだ。

外側の光の服はそれほどもろく、危うい面をはらむ。

振りかざしてしまった瞬間、光の裏側の闇があっという間に現れ、

光を放っていたはずの服が暗闇の服に変わるのだ。

その一方で、先日も書いた「思いやり」や「親愛的愛情」は、

本来、自分が立派だと思われたいから発するものではない。

本来、と断りを入れなければいけないところが悲しいが、

計算高く自分を演出したい人以外は

普通、自然に現れるものだろう。

これもまた、光のようなものであるが、

人の心をほのかに照らし、あたたかしてくれる、

そういう優しい光だ。

光が強ければ、影も濃い。

輝く服は、輝かせれば輝かせるほど闇が強くなるし、

私たちが太陽本体を直接見られないように、

人にはちょっときつすぎるものとなるかもしれない。

そもそも影があるから、私たちはモノをモノとして認識できる。

真っ白なまばゆい光が部屋中に満ちると影さえ消え、

モノの形はわからなくなる。

それは結局、真っ暗闇と同じことなのだ。

だからね。

影、闇の部分が、自分の中にある、と思える人、

自分が暗いとか、嫌いな面がある人は、

同時に必ず、光も備えているはずなのだ。

あなたが今は、見ていない、見えていないだけで。

弱さが優しさに通じるようなものだ。

驕り高ぶる人が光しか見ていないのとちょうど正反対。

これまた、やっていることは同じなのだ。

でも、ほのかに温かい光なら、それを意図的に強くしない限り

(強くすると影、できちゃうよね…)、

影もまた、薄いままで済む。

しかもそれは、失う心配のあまりないものだ。

つい忘れてしまうことはあっても、上手に使えないときがあっても、

その光の温かさを思い出すこと自体は、大抵の人にできるだろう。

イヤな人に愛を放て、とか言ってるわけではない。

いきなり、そんな難しいことにチャレンジしなくてもいい。

でも周りの人、特に、先に自分がその光を届けてもらった人だったら、

自分もまたやがて、温かい光を返したくなる……。

このことは、わかるだろうと思う。

ということはつまり、あなたがそれを先に放てば、

直接ではなくてもだんだん、温かい光が返ってくるのだ。

それって、うれしいし、幸せな循環になるよね。

自分のなかの、闇だけを見つめないこと。

外側に示す光を求めているのなら、その闇の濃さも心に留めること。

内側から発する光は、本当はなくならず、

地位も名誉も財産も関係ないところで

あなたを幸せにしてくれるということ。

求めるのであれば、外側の光り輝きまくる服、ではなく、

内側の温かい光を放てる機会がより多くなるように、

意識して、求めてほしいと思える。

とくに、自分の暗い闇を見つめている最中の人には、

それを願う次第である。

練習

壊れてしまったものを

新たにしていくとき

同じやり方は しなくていい
 

壊れたときに 感じたことも

もっと 大切にしていい

壊れたことから学んだのだから

それを生かして いいのだ

ただし それは

自分だけが 今後は楽をして得する

そんな方向じゃないほうがいいと思う

それはまた 別の壊れ方を

やがて引き起こしていくだろう

失敗しないで

完璧にできるわけはないし

失敗したからこそ 学べるものがある

なのにもう 失敗したくない

そう思ってしまったら

あなたは 動き出せないだろう

世の中のことは

練習して 失敗して 

学んでいくことが

ほとんどなのだ

一度 壊れたことを恐れるあまり

土台のまま 放置したら

そこには 何も生まれない

望んでいるものがあるなら

それを 作ってみるしかない

そのために と

他人を当てにするのも違う

あなたが あなたのことを

なんとかしたいのと同じように

他の人もまた 自分をなんとかしたい

お互いに協力しあえる部分はあるが

あなたを 作りあげるのは

あくまでも あなた自身である

練習を恐れ 失敗を恐れていたら

あるいは 練習そのものが面倒だと

一足飛びに 望んだ自分に

なろうとするなら

それはもう心の中で 

夢見るしかないのだ

現実を 自分が自力で

変えていかない限り

新しい現実は 生まれないのだから

練習すれば 失敗もまた当たり前

たとえばみんなが

私をわかってくれないとき

あなたもまた

相手をわかろうとしていない

私だけ 私のことだけわかって では

相手を ないがしろにし過ぎている

あなたは 誰かより偉いわけではない

社会的な立場とか 地位とか

お金とか 名誉とか 環境とか

そんなもので

人という存在のそのものに

優劣がつくわけではない

そんな肩書き的なものが

まったくなくても

人から すばらしいと

受け止められる人は

この世の中にたくさんいるのだ

それに ある一つの形で

自分を表現できなくなっても

別の形で 自分を表現していいのだ

たとえばお金や 身体的能力の衰え

それによって 

実現できなくなったことが

あったとしても

ほかに あなたが心地よく

自分を表現していけるやり方は

必ず存在しているから

仕事だって そういう類のものなのだ

だから自分に

レッテルを張らないでほしい

向いてないとか

そんな器じゃないとか

それは単にまだ やってないから

練習を重ねていないから

だけかもしれないのだ

練習が面倒なら

望まなければいい

ただ それだけのことだ 本当はね

望むのをやめ 練習しないか

望んだ以上 練習してみるかは

あなたが選んでいい

でも 望むなら それをやれるように

変えていく練習が必要だということを

そしてその練習は

単なる苦労 という方向ではなく

できる範囲の

これならちょっとは 楽しそうかな?

と思えるところからでいいことを

どうか どうか

知っていただけますように

あなたは まだまだこの先

ダメでも 

終わりでも

ないのだから

視点 ~その2~

さて、先ほどの話を少し振り返りつつ。

価値観的な問題では、「正しい」ことはひとつではない。

倫理感だって、文化が違えば異なる。

たとえばアラブ民族の男尊女卑的、一夫多妻制の価値観は、

日本人にとって理解しづらいものもあるかもしれない。

インドの身分制度だってそうだろう。アジア文化圏内での価値観の相違も、よく騒ぎになっている。

でも、ありがたいことに「幸せ」の視点で考えてみるとき、

「思いやり」や「親切」、「親愛的愛情」は、万国共通である。

マザー・テレサを「あの人は間違っている!」と非難“しきれる”人は、

世界中でも、たくさんはいないだろう。

どれも全部、発する側、受け取る側の双方がうれしい。

もっと言ってしまえば、「発した相手に届いた」、

自分のなかから「自然に発露した、そうした思い」が相手に素直に受け止めてもらえ、

喜んでもらえたときが、一番うれしい、幸せなのだ。

そう考えると「相手にだけそれを求める」のは、

相手側の「自然な発露」を待つわけではないから、強要である。

「私がそうしてあげるから、あなたも返して当然よ」だと、これまた「自然」ではなく、

単なる取り引き、もっと言ってしまえば「私も受け取ることありき」の、やはり強要的発想である。

まあ、そうなってほしいと話し合う、双方の着地点を求めるという面においては、まだ余地があるけれどね。

届かない人には、素直に受け止められない人にはどうするか。

これもまた、マザーの話をたとえに出すと、

行動で示し続けることが、理解を得る、ひとつの方法だと思う。

彼女は、おびえて受け取れない人にも世話をして、やがて、心を開いていってもらった。

それは「その人が瀕死」の状況だったからだけれど。

救いが必要だと、誰もがわかる人に真っ先に自分が手を差し伸べたのだ。

ここまでできる人は、そうそういないだろう。

でも、相手側の理解、という面で考えたときも、彼女は争わず、戦わず、

ただ「そのことだけに集中して行動する」ことで理解を得たのだ。

彼女がスラム街に行き、文字通り身ひとつで、倒れている人を助ける活動を始めたとき、

ヒンズー教の人たちは「改宗を意図している」「キリスト教の宣伝行為だ」と彼女を非難し、

スラム街から追い出そうと集まってきた。

そのとき、そうとは受け止めなかった、あるまとめ役の人がいて、その方の発言もすばらしいのだが、

「では彼女の代わりに誰か、この人たちを世話してあげてください」と、援護したのだ。

非難しに集まった人たちは、黙々と世話を続ける彼女に誰も手を出せず、

また、誰も代わりになれず、ひとり、またひとり、立ち去るしかなかった。

受け止めない人に向かって、それでも思いやりを与え続けろというのではない。

あなたが誰かに思いやりを発したいと感じ、

そして「それを求める人」にも、きちんと届いていると感じるのであれば、

周囲の誤解や非難と「わざわざ戦う」必要がないのである。

ましてや、自分が向き合う相手に届かないのであれば、それもまた「戦う」必要がないのだ。

だって相手は、それを素直に受け取れないのだから。

それは相手の問題、相手の価値観である。

そこまで親切に、相手を変えてあげる必要は、本当はない。

相手をとても大切に思い、苦しんでいるのを助けてあげたい、と思えるときだけ、

チャレンジしてみればいいと思う。

ただし、そんな相手であっても、届かない場合もありうる。その点は理解しておいてほしいと願う。

まあ、最初はとくに、あなたの思いを受け止められる人に対して、

幸せになるための思いやりや親切、愛を発してあげれば、それでよいのである。

それを「し続ける」ことで、マザーのように「この人はそういう人だ」と理解できる人が増えて、

周囲にどんどん、その輪が広がっていけば、うれしいよね。

マザーはホント、決して「戦わない」のだ。

寄付を得るために説明、説得には行くけれど。

もちろん彼女も、理解のない人に怒ってはいたらしい。

でもあきらめず、理解してくれる人を求め続けた。欲する人には与え続けた。

彼女の中には「キリスト教」という核があったからできたのだろうけれど、

そこまでいかなくてもちょっとは、学べる部分があると思う。

実際、彼女は「平和を願う集会には出るけれど、戦争反対の集会には出ない」と、はっきり明言している。

人には人の価値観があるということを、それを自分が「相手を変える」ところまで活動しなくても、

もっと他に、やるべき大切なことがあったのだ、きっと。

救いを求める人は、とくに初期の頃、たくさんいたしね。

彼女が活動を始め、やがて、インドの街から「行き倒れ」の人がいなくなった、という事実は、

なんだか勇気を与えてくれるように思える。

幸せって、届くのだ、そして、広がるのだ、と。

こういうやり方も、幸せを求めるひとつの方法だと思える。

なんだか幸せの求め方、みたいな話にもなってしまったけれど、

仕事や対人関係その他、何か問題がある、幸せじゃないと感じたときに、

自分の視点をどこに置くかという面で、参考にしていただければ幸いである。