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見たいもの

人は、己の見たいように、ものごとを見る。

そこには、幻も、思い込みも、含まれている。

ひとつ、例を挙げよう。

私は、梅の花を見ると、切なく、同時に優しい気持ちになる。

それは梅の花が、私の14歳のときの記憶に結びついているからだ。

本当に楽しかったクラス、その仲間達と、

クラス替えになる前の春休み、

テーマパークつきの広場に遊びに行ってお別れ会をやった。

全部で20人以上、いたと思う。

そのとき、広場の片隅に梅園があって、

そこでみんなと写真を撮ったりした。

それ以来、私は梅の花を見る度に、

あのときの思い出と、あのときの気持ち、

こんなに楽しい関係をありがとう、でももう、

クラス替えなんだよね、みんな、バラバラになるんだよね、

という、切なさの感情を、思い起こしてきたのだ。

何年も繰り返すうちに、私は梅の香をかぐだけで、

感覚的に甘酸っぱい感じで微笑むようになった。

それは今でも、同じである。

そのような「染みついた感情」を、人はきっと、いくつも抱えている。

私もまた、楽しい思い出ばかりではない。

街中でたまたま、亡くなった知人に似た人を見ればドキッとするし、

ドキッとしたことに、苦笑する。

ああ、抱えているんだなぁ、まだ、と思うのだ。

でも私は、そうした思いを抱えた自分でいることを「良し」としている。

つらかったんだもの、当たり前だ、と。

そういう弱い自分を、悪い意味でなく、愛しいと思える。

あのとき病気になった弱い自分を、バカなかわいいヤツ、と

思えるようになったのだ。

だから誰かのせいにしたり、何かのせいにしたり、

自分を嫌いだ、といじめ続ける人にも、わかってほしいと思う。

人って、そんなものだよ、たぶん、と。

傍目にはどんなに成功しているように見える人も、

弱さを持ち、悩み、苦しみ、

私が微笑んだり、苦笑したりするように、

思い出は、抱えている。

抱えていることを、いい、とも悪い、とも思わない。

そんなものなのだ、自分は、と、捉えるだけである。

ただ、ありのままに。

そこにそのようにあるもの、として、済ませてしまうのだ。

なぜ、それができるか。

だって、日々、思い出は増えていくから。

それに一々、これはいいこと、これは悪いこと、

これはいけないこと、これは許されること、

なんてレッテルを貼っても、意味がないのだ。

だって、過去のこと、だもの。

殺人を犯した者が、その後、改心したとしても、

犯した罪は消えない。その人が泣こうがわめこうが、

事実は、変わらないのだ。

大切なのは、それを「なかった」ことにもせず、

自分をこじつけ的にかばうこともせず、

自分が何をしたかを、考えるきっかけにしていける可能性がある、ということだ。

以前に書いた、本村さんの気持ちも、そのようなものであったと思う。

もちろん、彼にはもっと複雑な思いがあられるとは思うが、

自分は、経験したことを「そのように捉えると決めたのだ」と、

彼は、言いたかったのだと思う。

憎しみだけでは、つらいから。

彼のように劇的な経験をした人でも、意識的に、そう見る、捉えると決め、

そのように見方、捉え方、考え方を変えることはできるのだ。

ただ、それは、自分自身で、そう決めなければならない。

他の誰も、魔法の杖を振ってはくれないのだ。

妻と子どものために、犯人を恨み続けなくてはならない、という考え方を放棄するとき、

彼はもしかして、後ろめたささえ、感じたかもしれない。

でも、これから先も、自分は生きていく。

だから、そこにとどまっては、いられなかった、と。

とどまっていては、苦しみの日々だけになるからだ。死にたくなるからだ。

わかるだろうか。

もうこの苦しみをやめる、と決められるのは自分だけなのだということを。

そして、やめるためにわざわざ、自分を一番、自己卑下の極地に陥れる、

死、という方法を、とらなくても、いいことを。

あなたは、自分をありのまま、いい面も悪い面も持った、ひとりの弱い、

でもかわいい、かけがえのない人であると、

自分自身で「捉えてあげていい」のである。

それは、皆、同じ。

あなただけが「特別に○○な人間」ではないのだ。

完璧に立派である必要も、まったくない。

そうありたい、と「努力すること」と

そうなれない自分を「責め、痛めつける」ことは、意味がまったく、違う。

それこそがまさに考え違い、である。

過剰なプライドも責任感も

過激な目標も自己卑下も

生きていくうえでは、捨てていい。

そんな自分になろうとすること自体、やめてしまっていいのだ。

それができるのは、他でもない、あなた自身だけ。

あなたが、見たいように見て、捉えて苦しんできたことを、

あなた自身の意識で、ただ、もうやめよう、と思うだけである。

何もないからこそ、今、ここから、始めてみればいい。

努力を。自分のための、自分を楽にするための、

「見方を変える」努力を。

恨みも嫉妬も憎しみも、自分の意見、捉え方、を変えずに

他人のほうを変えようとするところから始まる。

ただ自分のため、その捉え方自体を、やめればいいのだ。

やめていいのだ、単純に。

届く方に、きちんとよいタイミングで、この思いが届きますように。

だからあなたはまず何より、今のあなたでいいんだよ。

祈りをこめて。

いつまで そこに

血を分けた親が 昔からいない人は

親との間で育まれる愛情というものを 知らないかもしれないけれど

そのかわり 肉親という存在から受ける 理不尽な仕打ちの苦しみを 味わわないですむ

他人の間で生きていかなければならない 肩身の狭さを感じても

なぜここで殴られるのか なぜこうして無視されるのか なぜこれが非難されるのか

血のつながった 特別な存在の大人からの 理由のわからない虐待に

それは全部 自分のせいだと 刷り込まれずに生きていけるだろう

いじめる親と いない親 ねえ どちらがひどいかな

どちらのほうがより 淋しくて つらくて 苦しいかな

それを比較して 一生 自分が

親がいないから

親がいるから

こんなに苦しいんだと 思い続けるってことかな

たまたま親がいて その関係が上手くいっている人は

ひどい親がいる人からも 親がいない人からも

うらやましがられて あんたはいいねと 思われ続けなくちゃいけないかな

それだって その人は 何も努力してない 棚ボタ かな

親が ただ ただ ひたすらに すばらしいだけかな

生まれた環境を 恨み続けるのは

お金持ちじゃないからとか 親に学がないからとか

そういうのまで含み始めたら 本当にキリがない

でも そのせいで 自分は 最初からゆがんでいるのかな

そのせいで 絶対に 必ずダメで ゆがんでしまうのかな

本当に そうかな

結局すべては あの親がいるから 親がいないから ダメになるのかな

そこには まったく 自由になるすべは 存在しないかな

こうした気持ちは 親の話に限らないこと

読んでくださっている方には おわかりいただけると思う

ねえ そこに自分は 縛り付けられているんだよね?

ではいったい 誰が そうしているのだろう?

それを 選んでいるのは そう感じることを 選び続けているのは

いったい 誰なんだろう?

もちろん すぐには抜け出せないかもしれない 少しずつ変えていくしかない場合もある

でも あえて今日は ここで私は尋ねる あなたへ もちろん自分に対しても

ねえ 教えて あなたは いつまで そこにいるつもり?

聖人君子じゃ あるまいに(自戒のことば)

聖人君子じゃ あるまいに

さもありなんと そんなこと

なぜに おまえは 思うのだ

なぜに おまえは 決めるのだ

自分のなかの いつわりの

勝手な 理想を 持ち上げて

そうならないのは 人のせい

そうならないのは 親のせい

そうならないのは 友のせい

そうならないのは 上のせい

そうならないのは 下のせい

どこまで走る その理由

そうかと思えば その次は

自分のせいだと 決めたらば

あらゆることは 自己のせい

自分をひたすら 下げまくる

おびえたいなら おびえなさい

ふるえたいなら ふるえなさい

泣きたいときは 泣きなさい

苦しみたいなら ご自由に

周囲の理屈を どう捉え

周りの評価を どう感じ

世間を気にして 生きるのも

できないダメだと 決めるのも

すべては 自分の決断だ

正しいことは 何なのか

よいこと よいもの よいくらし

そこに囚われ もがくなら

私は一生 苦悩する

私は一生 苦労する

知っておくのは 自己のこと

そういう自分が 馬鹿なこと

正しいことは 普遍にあらず

時代によって 変わるのだ

変わらぬものは ないのだと

今がどんなに つらくても

そこから 学びを得る者は

やがては 脱皮 していける

やがては 変化 していける

……そこから 変われるのは

自分自身を 許し 認め

もうこんな捉え方は やめようと決めて

自分に 周囲に 優しくなれたときである

立派に すばらしく成功して

評価や地位を得る必要など どこにもないのだ

100年経てば 私がいた痕跡など どこにも残らないだろう

人生は ときどきのうれしさと楽しさと

ときに静かな満足を得られれば

それで十分である

自分の小ささを 祝え 私