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ここから新たに始める、ということ(3)

さて、では自分の例を語ってみよう。

私は自分で自分を壊すまで、「がんばらなくては私の価値がない」という思いにとらわれ続けてきた。

そういうふうに言葉で意識したわけではない。それが当たり前の感覚で生きていた。

そしてそれは、「親から渡された価値観」の強化版、だった。

うちの母のことを話す。

母は、とにかく家族が大事な人だった。自分よりも家族が大事。

家族が健康に、仲良く暮らせることが生き甲斐。

それは見方を変えれば「家族という存在があることによって、自分の存在意義を見出す」やり方だ。

他者が、自分の「幸せの源」であり、「自分の存在意義のよりどころ」だったのだ。

また、他者が「なりたかった自分」の理想に近づいてくれることが、ひとつの「幸せの目安」だった。

このことに子どもの頃は当然、気づいていなかった。違和感を感じたのは、大学を出て就職しようと思ったとき。

私は実家を離れて就職することを選んだ。実家の周辺には、やりたい分野の仕事の就職先がなかったから。

このとき母は反対した。かなり強く、反対した。

そのため、私は遠く離れた地域での就職活動の費用を全額自費でまかなうことになり

(説得して自分の金でやるんだったら、という許可が出たので)、そのためにバイトした。

なぜ、子どもがやりたいことに挑戦するのを、妨げるのだろう?

勉強もがんばって、その仕事に就ける可能性のある大学にも入った。その頃から、

編集者になって本や雑誌を作りたいんだ、と話していた。なのになぜ? と。

そのときはそう思っただけだったが、あとから思えば「家族という形態がなくなること」、

「子どもが自分の目の届かないところへ独立してしまうこと」が、つらかったんだと思うようになった。

家族がいなければ、自分の存在の意味、自分の価値がない、という人だから。

書き方として厳しいと思うが、確かに母には、そういう部分があったように思う。

さて、それとは別に、うちの両親は「がんばってコツコツと積み上げて達成することが、

人の道である」と子どもに教えてきた。がんばらずに手を抜けば、必ず怒られた。

それは「がんばる余地や可能性があるのに、なぜムダにするんだ」という意味合いも含んでいた。

ここにもまた、親の価値観が表れる。私の両親は戦争末期、また戦後の時代に幼少期を過ごした。

どんなに願っても、そもそも「自分のためにがんばること」が許されなかった時代の人だ。

家族のため、みんなのため。本当はそれぞれ、もっと勉強したかったらしい。やりたいこともあったらしい。

でも、そんな「自分の夢」は犠牲にするしかなかった。

みんなで生きていくため、という視点から、暮らしていくしかなかった

(母の「存在意義の感覚」は、こういう点からも養われていったと、今の私は推測している)。

つまり、がんばるのが当たり前の私が、母が嫌がったのに、その母を泣かせてまで、独立したわけである。

しかも、私の独立時期に他の出来事もいろいろ重なり、母は疲労と心労から持病を悪化させ、緊急入院した。

母をそこまで傷つけながら、私は「自分勝手に自分の夢を叶えるべく」スタートした、と、

私は最初から、捉えていたのだ。

そりゃ、がんばりますわな。

がんばって「故郷に錦を飾」らない限り、親に顔向けできませんわな。

こうした気持ちから、がんばる私に「拍車」がかかり、限界なんてものも、がんばって突破しようとして、

壊れたのである。だってそのときの私は、人生における幸せや成功を得るために、

ひたすらがんばる、努力する以外のやり方を、思いつかなかったわけだから。

親は、子どもの幸せを祈ってしつけをした。

そのなかには、自分自身の夢を、子どもに託す部分もあった。

そうして、がんばりすぎる私が生まれた。

親は、私を鬱にするために、そんなしつけを施したわけではないのである。

私に幸せになってもらいたかったはずである。

でもそこに私自身が「親を不幸にしてまで」というプレッシャーを、加えたのだ。

母が泣いたから。母が倒れたから。父もそのために、看病その他、大変になったから。

親の価値観に対するこの解釈が、事実かどうかはわからない。母に確かめたこともない。

なぜならこんな話をした途端、『家族大事』の母が「私のせいで見春が鬱になった」と考えることは、

“120%”間違いないからである。

そして本当に、そういう事実がもしあったにせよ、親が自分を大人になるまで育ててくれたことは間違いなく、

それが偏っていたからといって、親だけが悪いわけではない。

私が、「親の期待を裏切ること」を怖れるあまりに、極端に解釈した面もあったのだ。

そう思ったとき初めて、プレッシャーから逃れられるような気がした。

母を泣かせたこと、緊急入院させてしまったことは申し訳ない。

でも、私は母や父を満足させるために、母や父の夢の代わりを生きるのではない。

自分のために、生きていいのだ。そもそも、そのために、独立したんじゃないか、と。

「立派にやっていかなければならない」という呪縛も、壊れてキャリアを失った段階で、

どうしたって、母や父が望むレベルの「立派さ」にはもう届かない。

そこは、あきらめていいんだ、と。

……自分をののしり続けるのでなく、親を恨むのでもない捉え方。

そういう視点に変わっていったことが、おわかりいただけるだろうか。

私は「なぜ自分が今、こうなっているのか」を、自分で見つめ直し、新たに解釈したのだ。

そして、視点を切り替えていったのだ。

それが正しいかどうか、ではない。そんなことはどうでもいい。

そう思うことで、自分が楽になれたから、そうすることにした。

自分にとって優しいと思える方向へ、考え方を変えると決めたのだ。

つづく

ここから新たに始める、ということ(2)

じゃあ、どうやって、視点を変えたらいいのよ、と思う人もいるだろう。

私はそこに縛られて、縛られ続けていて、苦しいのよ、と。

やり方は、まあ、世間一般的には、いろいろあると思う。

酒に逃げたりするのも、一種のやり方であることは間違いない。

でも「逃避」は、実は「縛り」である。

受け止め方を変えないまま「見ないようにすること」は、結局は「自分を縛っている」のと同じ。

かえって、常に心のなかでうつうつと根付いて、密かに存在感を増し、余計に自分を動けなくさせるだろう。

逃げていては、ダメなのだ。その傷に向かえるようになったときに、

傷そのものを、捉え直してみなければ。

それができない間は、誰かのせいにしたり、自分のせいにしたり、黒い気持ちを抱えたままになる。

傷が深いうちは難しいが、黒い気持ちを手放すために、少しずつでも、見つめ直してみるのだ。

これもまた、1つの例。

震災が起こった。福島が汚染された。政府はひどい。電力会社もひどい。

さあ、これをずっと「そのまま」抱え続けたら、どうなるだろう。

日本に住みたくなくなるかもしれない。

それならそれでいいのだが、では北欧に行けば幸せかというと、そうとも限らない。

文化や言葉の違い、気候の違い。食べものも社会も、全部変わる。

では「ひどい」と言い続けたら、国は変わるだろうか。

おまえらはひどい、ひどい、と言い続けたら、相手は反省するだろうか。

ひどいと承知でやっているのだ、国の発展のためとか、大義名分をつけて。

ある程度までは対応するだろう。でも肝心な部分では、さらに巧妙に言い訳するだけである。

であれば「こうするべき」という代案を、冷静に出していくほうが、よほど効果があるのではないか。

あるいはその代案を、冷静に、支持し続けるほうが。

国や電力会社は知っててやっている。

もともとが、「あなたはなんてひどいんだ!」と言われて反省するタマではない。

怒れば怒るほど「巧妙」になる、あるいは強行するだけだ。

であれば、こちらが利口になろう。

怒りを、憎しみを、静かな「代案支持」に変えていくほうがいいのではないか。

日本人が「デモ」をすることは、1000万人だって、効果が薄い。

なぜなら「デモしない人たちが支持」すれば、政治家や電力会社はそれで安泰なのだから。

日本の人口のうち、20歳以上は1億人ちょっとだそうなので、デモの規模が5000万人を越えたら

さすがに政治家も考えるかもしれないが、それは残念ながら、今の日本では実現しないだろう……。

インドのガンジーが非暴力運動を続けたとき、人々が静かに軍に立ち向かい続けたがゆえに、

軍の人たちは、自分の行いを振り返らざるを得なかった。

憎しみは、相手にも反発を生み、憎しみの連鎖を引き起こすことが多いが、

静かで真摯な気持ちは、相手を変えることができるのである。

であれば、真摯に静かに対応したい、と、私は思う。

これが、憎しみや悲しみを「別のものに変えていく」ひとつの例である。

少し、わかっていただけるだろうか。

次はもっと身近に、自分の例を挙げてみたいと思う。憎しみ、ではないのだが、「縛り」という観点で。

ここから新たに始める、ということ(1)

これは、長い話になると思う。分割して書くことになると思うので、了解してほしい。

自分の経験も例に挙げながら……書いてみたいので。

1つ前のブログで、書きながら思っていた。

何かのせい(それが親でも、家族でも、友達でも、恋人でも、会社の上司や同僚でも)で、

自分が傷つけられることは、社会の中で生きている以上、絶対にある。

戦争や天災にだって、人は傷つく。

それは確かに、周囲のせいである。

じゃあ周囲のせいで傷ついた、そのことをずっと「そう思ったまま」生きていて、楽しいだろうか?

さらには、過去の自分の過ち、失敗した自分、それによっても人は傷つく。

そのダメな自分、という部分を反省することは大切である。

でも反省は、「次に生かす」ためにするものである。

ダメなことをした自分を「こんな自分なんて、どうしようもないダメ人間だ」と

抱え続けたまま過ごしたら、それは単なる「後悔」である。

後悔をずっと抱えて生きていくのは、いいことだろうか? 楽しいだろうか? 幸せだろうか?

本来、人は、すべからく「幸せ」であっていい存在だ。人生を楽しんで、幸せに生きていいのだ。

苦しいこと、悲しいことはあれ、うれしいこと、喜ぶことを、存分に味わっていいのだ。

なのに、その「暗い気持ち」のまま生きていって、本当に楽しめるだろうか?

とくに深く傷ついたときは、そのことを思い出すだけで、心の中に血が流れるだろう。

だから傷ついた当初は、まずその「ショック」を和らげることのほうが大事な場合も多い。

でもそのショックが少し薄れてきたとき、その傷を「そのままの形」で抱えていたら、

ただただ、延々と苦しみ続けるだけである。

傷が深ければ深いほど、和らぐには時間がかかるかもしれない。

でも、少し立ち直ってきたと思えるなら、その傷を「治していく」方向へ、視点を変えていいのだ。

一例として、私が話を友人から聞いたことのある、子供を事故などで失った親同士の自助会を挙げる。

最初は、自分の傷を同じ思いで受け止めてくれる仲間がいることに、心から安堵する。

加害者がいた場合は、その加害者に対する憎しみを吐き出しても、誰もその罵倒の黒さをとがめない。

誰かに自分の気持ちを受け止めてもらうことは、傷を癒すことに、とても効果があるのだ。

が、しかし、しばらく時が経つと、そのグループに参加し続けることが、別の意味で苦しくなる場合がある。

そうした自助会は、つらさを吐き出すためのものだから、自分がつらさを吐き出して落ち着いてきたときに、

ある種の「傷のなめ合い」になっている、というふうにも、見えてくるからだ。

もちろん、全員がそう思うとは限らない。でも長い間そこにいることで、

逆に「そこから脱する」ことが難しくなる場合も、確かにある。

本来なら、傷が癒えてきたら徐々にその傷のことを忘れ、

新たに、その子がいない人生を生きていかなくては、と思う一方で、その自助会にいる限り、

ずっと「大きな傷を、大きな傷として抱えたうえで参加し続けなければいけない」からだ。

自分が助けてもらったのだから、と恩を感じれば感じるほど、お返しをしなくちゃ、という気持ちになって

気持ちのズレを抱えたまま、無理を続ける人も多いという。

あるいは「加害者のことをもゆるしてしまうことにつながるのではないか、

それでは亡くなった子に申し訳ない」と。

これでは「傷を癒す」ために参加したはずが、いつの間にか「傷を抱え続けなくてはいけない」ことになる。

だから本当は、「感謝の気持ちを持ったまま、やがては卒業していっていいのだ」ということを

自分に許可する必要がある。

黒い気持ちを感じ続けること自体、本当は、人の気持ちをむしばみ、傷つけていくのだから。

先日書いた本村さんも、裁判に関わっていく間に「死というものを、人が人に、本当に宣告していいのか」

という点で、途中から悩まれていく。それは「憎しみ」とは、別の視点だ。

他人から受けた傷にせよ、自分でつけた傷にせよ、このような考え方、視点の変わり方を、

「自分に許す」ことが、やがては大切になってくるのだ。

……つづく