これは、長い話になると思う。分割して書くことになると思うので、了解してほしい。
自分の経験も例に挙げながら……書いてみたいので。
1つ前のブログで、書きながら思っていた。
何かのせい(それが親でも、家族でも、友達でも、恋人でも、会社の上司や同僚でも)で、
自分が傷つけられることは、社会の中で生きている以上、絶対にある。
戦争や天災にだって、人は傷つく。
それは確かに、周囲のせいである。
じゃあ周囲のせいで傷ついた、そのことをずっと「そう思ったまま」生きていて、楽しいだろうか?
さらには、過去の自分の過ち、失敗した自分、それによっても人は傷つく。
そのダメな自分、という部分を反省することは大切である。
でも反省は、「次に生かす」ためにするものである。
ダメなことをした自分を「こんな自分なんて、どうしようもないダメ人間だ」と
抱え続けたまま過ごしたら、それは単なる「後悔」である。
後悔をずっと抱えて生きていくのは、いいことだろうか? 楽しいだろうか? 幸せだろうか?
本来、人は、すべからく「幸せ」であっていい存在だ。人生を楽しんで、幸せに生きていいのだ。
苦しいこと、悲しいことはあれ、うれしいこと、喜ぶことを、存分に味わっていいのだ。
なのに、その「暗い気持ち」のまま生きていって、本当に楽しめるだろうか?
とくに深く傷ついたときは、そのことを思い出すだけで、心の中に血が流れるだろう。
だから傷ついた当初は、まずその「ショック」を和らげることのほうが大事な場合も多い。
でもそのショックが少し薄れてきたとき、その傷を「そのままの形」で抱えていたら、
ただただ、延々と苦しみ続けるだけである。
傷が深ければ深いほど、和らぐには時間がかかるかもしれない。
でも、少し立ち直ってきたと思えるなら、その傷を「治していく」方向へ、視点を変えていいのだ。
一例として、私が話を友人から聞いたことのある、子供を事故などで失った親同士の自助会を挙げる。
最初は、自分の傷を同じ思いで受け止めてくれる仲間がいることに、心から安堵する。
加害者がいた場合は、その加害者に対する憎しみを吐き出しても、誰もその罵倒の黒さをとがめない。
誰かに自分の気持ちを受け止めてもらうことは、傷を癒すことに、とても効果があるのだ。
が、しかし、しばらく時が経つと、そのグループに参加し続けることが、別の意味で苦しくなる場合がある。
そうした自助会は、つらさを吐き出すためのものだから、自分がつらさを吐き出して落ち着いてきたときに、
ある種の「傷のなめ合い」になっている、というふうにも、見えてくるからだ。
もちろん、全員がそう思うとは限らない。でも長い間そこにいることで、
逆に「そこから脱する」ことが難しくなる場合も、確かにある。
本来なら、傷が癒えてきたら徐々にその傷のことを忘れ、
新たに、その子がいない人生を生きていかなくては、と思う一方で、その自助会にいる限り、
ずっと「大きな傷を、大きな傷として抱えたうえで参加し続けなければいけない」からだ。
自分が助けてもらったのだから、と恩を感じれば感じるほど、お返しをしなくちゃ、という気持ちになって
気持ちのズレを抱えたまま、無理を続ける人も多いという。
あるいは「加害者のことをもゆるしてしまうことにつながるのではないか、
それでは亡くなった子に申し訳ない」と。
これでは「傷を癒す」ために参加したはずが、いつの間にか「傷を抱え続けなくてはいけない」ことになる。
だから本当は、「感謝の気持ちを持ったまま、やがては卒業していっていいのだ」ということを
自分に許可する必要がある。
黒い気持ちを感じ続けること自体、本当は、人の気持ちをむしばみ、傷つけていくのだから。
先日書いた本村さんも、裁判に関わっていく間に「死というものを、人が人に、本当に宣告していいのか」
という点で、途中から悩まれていく。それは「憎しみ」とは、別の視点だ。
他人から受けた傷にせよ、自分でつけた傷にせよ、このような考え方、視点の変わり方を、
「自分に許す」ことが、やがては大切になってくるのだ。
……つづく