じゃあ、どうやって、視点を変えたらいいのよ、と思う人もいるだろう。
私はそこに縛られて、縛られ続けていて、苦しいのよ、と。
やり方は、まあ、世間一般的には、いろいろあると思う。
酒に逃げたりするのも、一種のやり方であることは間違いない。
でも「逃避」は、実は「縛り」である。
受け止め方を変えないまま「見ないようにすること」は、結局は「自分を縛っている」のと同じ。
かえって、常に心のなかでうつうつと根付いて、密かに存在感を増し、余計に自分を動けなくさせるだろう。
逃げていては、ダメなのだ。その傷に向かえるようになったときに、
傷そのものを、捉え直してみなければ。
それができない間は、誰かのせいにしたり、自分のせいにしたり、黒い気持ちを抱えたままになる。
傷が深いうちは難しいが、黒い気持ちを手放すために、少しずつでも、見つめ直してみるのだ。
これもまた、1つの例。
震災が起こった。福島が汚染された。政府はひどい。電力会社もひどい。
さあ、これをずっと「そのまま」抱え続けたら、どうなるだろう。
日本に住みたくなくなるかもしれない。
それならそれでいいのだが、では北欧に行けば幸せかというと、そうとも限らない。
文化や言葉の違い、気候の違い。食べものも社会も、全部変わる。
では「ひどい」と言い続けたら、国は変わるだろうか。
おまえらはひどい、ひどい、と言い続けたら、相手は反省するだろうか。
ひどいと承知でやっているのだ、国の発展のためとか、大義名分をつけて。
ある程度までは対応するだろう。でも肝心な部分では、さらに巧妙に言い訳するだけである。
であれば「こうするべき」という代案を、冷静に出していくほうが、よほど効果があるのではないか。
あるいはその代案を、冷静に、支持し続けるほうが。
国や電力会社は知っててやっている。
もともとが、「あなたはなんてひどいんだ!」と言われて反省するタマではない。
怒れば怒るほど「巧妙」になる、あるいは強行するだけだ。
であれば、こちらが利口になろう。
怒りを、憎しみを、静かな「代案支持」に変えていくほうがいいのではないか。
日本人が「デモ」をすることは、1000万人だって、効果が薄い。
なぜなら「デモしない人たちが支持」すれば、政治家や電力会社はそれで安泰なのだから。
日本の人口のうち、20歳以上は1億人ちょっとだそうなので、デモの規模が5000万人を越えたら
さすがに政治家も考えるかもしれないが、それは残念ながら、今の日本では実現しないだろう……。
インドのガンジーが非暴力運動を続けたとき、人々が静かに軍に立ち向かい続けたがゆえに、
軍の人たちは、自分の行いを振り返らざるを得なかった。
憎しみは、相手にも反発を生み、憎しみの連鎖を引き起こすことが多いが、
静かで真摯な気持ちは、相手を変えることができるのである。
であれば、真摯に静かに対応したい、と、私は思う。
これが、憎しみや悲しみを「別のものに変えていく」ひとつの例である。
少し、わかっていただけるだろうか。
次はもっと身近に、自分の例を挙げてみたいと思う。憎しみ、ではないのだが、「縛り」という観点で。