木元見春 のすべての投稿

真摯なつながりはどこからでも

私がAmeba内でやっているゲーム。

そこから、ブログを読みに来てくれて、

いろいろ話せる友達ができた。

はい、ふざけた画面でごめんなさいよ(^o^;)

今は携帯の農園やらペットやら、バーやらを楽しんでいて、

例えばペットはこんな着ぐるみがもらえたりもするゲームで、

飼ってるブタのキャラクターに着させて遊んでいるのだ。

こんなゲームでさえ(笑)、遊び、関わりあいながら、お互いを知っていける。

他にブログを通じて実際に友達になった人もいるし、

こうしたつながりは、今の時代ならではだな、と思う。

もちろん、すべてがいい人とは限らないが、

なぜだか、ご縁があるなあ、と深く思える人も現われたりする。

距離や性別や年齢なんて、関係ない場合があるのだ。

顔すら知らなくても、やり取りの中で感じられるもの。

騙そうとする相手は、いずれ、自分にも、それがわかる。

ボロが出るか、相手が耐えられなくなるか。

だから、こちらはただ真摯に、対応すればいい。

そう、自分が、心をこめて応じていきたいと思える相手であるのなら、

ただ、その感覚に素直に従えばいいのだ。

ネット上の出会いに限らず、人との関係において、

利用しようとか、すがろうとか、なんとかしてもらおうとか、

そういう損得勘定を持って近づくと、後から必ず、何かが起こる。

そんな気がする。

愛情でさえ、返してもらうことを前提にし始めると、関係が狂うことがあるのだ。

自分がただ、寄り添いたいと思えるから、相手に、何らかの愛……、

友愛でも、隣人愛でも、人間愛でも、恋愛でも、

何か、そういう思いを表したいと思って、伝える。

家族という、つながる前提のある関係性は、またちょっと、

別の要因(責任とかね)を含む可能性があるけれど、それ以外なら、

本当は、ただ、何らかの愛。それだけを思えれば、いいんじゃないかなあ。

自分がそうしたい、表したいから、ただ、相手に表現する。

そう思えれば、見返りとか、裏切りとか、騙す、騙される、

なんてことに、わずらわされないで、済むような気がするのだ。

そんなふうに自分が誰かに対し、何らかの愛を表現できる。

それは本当は、とてもステキで、尊いことなのだと、私には思える。

まあ、甘い考え、ただの理想論だと、

蹴散らかす人もいるだろうな、残念ながら。

人間関係の悩みは当然、悩みとしてあってもよくて、

人とのつながり、愛というものの尊さは、本人が感じられる限り、

損なわれたりしなくて、ちゃんとそこにあるんだよ、と、

言いたいのだけれど……。

たとえ相手が騙す気満々であってさえ、ね。

自分が感じられるものがあれば、それは別に嘘や偽物ではないのだ、と。

あなたが感じるものは、あなたが大事にしても、いいのだと。

そしてその真摯さは、何らかの形で、

やがては相手に届くのだ、と……私は密かに、信じている。

真摯な思い、そんな愛の力を、私は、信じているのだ。

仕事のミスと自己批判

世の中には、自分で自分の言葉や思いに煽られて、

怒りはじめたらどんどん勝手に怒っていってしまう人がいます。

私はいつからか、そういう人にぶつかると、

その場でミスを振り返り、反省しながらも、

それとは別に、すごく冷めた気分で状況を見るようになりました。

問題は解決しなければいけない、対応しなければいけないことなので、

その部分に対しては、真摯に考え、謝り、対応します。

ただ、度を越えて激怒されるような方に対しては、

その人のことを少し、冷静に見るのです。

この人が、本当に心の底で怒ってるのは、何に対してだろうって。

自尊心、八つ当たり、日頃のイライラのまとめ発散、

私より上位に立ちたい、人に認めてほしい、

人にかまってほしい、人が(あるいは私が?(笑))ホントは怖い、等々。

言葉の裏にあるもの、この言葉を自分が発するとしたら

それはどんな気持ちのときだろう、って。

そうやって、出来事そのもの以外に、

隠れているものを推し量ることにより、

相手の立場や状況を見つめながら、自分が取った行動についても

より冷静に見て、対応できるのだと思えます。

こちらは少なくとも、余分な怒りを感じる割合が低くなり、

余計なショックを浴びる量が減り、

怒鳴られる、という、人間が単純に怖いと感じやすい状況下で、

その怖さも薄らぎます。

自分と相手の両方を、離れたところから見るような感じなのです。

他人の人間性にまで言及し、激高する人は、多かれ少なかれ、

何か別の不満や、その方自身の人間性の問題点も、

残念ながらもともと抱えておられることも多いように思えます。

急に切れてヒステリックになる人も同様で、

実は自分にとって痛いことだからこそ、なおさら怒ってしまうこともあるのだと。

たとえば仕事で、命に関わるかもしれないミスがあって、

それが誰かのせいであったとしても、

安定している人は、その場でいったんビシッと怒って止め、

大変な事態を打開してから、相手がどうしたらこのミスをなくせるか、

相手の性格まで踏まえて解決策をはかっていきます。

なぜなら、それは仕事であり、同じ職場でお互いに働き続ける以上、

今後も繰り返されることのほうが危険だからです。

仕事は役割分担をし、協力して労働力を提供して、

対価としてのお金を得る作業ですから、

起こったミスそのものをギリギリ責め続けることより、この先、どうしたら円滑に

ミスなく日常的に進行できるかのほうが、よっぽど重要です。

もちろん、自分自身についてもそれは同様です。

後悔し、落ち込み続けても、そのままでは次につながりません。

真摯な対応策に、頭を切り替えたほうがいいのです。

そういう視点で対処するには慣れも、練習も必要なのかもしれませんが、

幸い、私は昔、よい上司や先輩にめぐりあったことで、

そうするものなんだ、ということを

実地で学んでいったように思います。

切り替えは、いつでも始められます。

早いほうがいい、とは限りませんし(状況が長く変化していくこともあるので)、

今からでも、遅くはないのです。少なくとも自分のためにはなります。

今、失敗のつらさを引きずり、苦しんでおられる方は、

どうか、萎縮したまま、その苦しい状態を保ち続けないでください。

少しでもそのときの状況を見直し、見つめ直す機会を

持つことができますよう、心からお祈りし、応援します。

それが仕事である以上、何らかの改善は、していけるのですから。

仕事のトラブル、自分のトラブル

鬱という病にかかると、自己否定が強くなるため、

トラブルを複雑に考えやすく、引きずりやすい。

たとえば誰かに文句を言われたとする。

言われた内容が、勘違いや間違いだ、と思えても、

うまくそれを説明できなかったりするために

自分が仕事でミスしたことになってしまう場合がある。

あるいは、仕事上の役割としてのことを責められているのに、

自分自身の性格や人間性を非難されているように感じてしまい、

激しく落ち込んだり、あとあとまで引きずり続けたりする。

相手の八つ当たりだったりする可能性だってあるのに、

自己卑下につなげてしまうのだ。

こうした苦しみを避けるためには、まず、

自分がまともな脳ミソの状態ではないことを、しっかり自覚しよう。

病のときは、ミスは起こるものなのだ。

開き直れ、と言っているわけではなく、

自分が滑りやすい氷の上を歩いているような状態だと自覚することで、

焦っても仕方ないと、慌てる可能性が低くなるのだ。

あなたの能力が根本からダメになったのではない。

病で一時的に、落ちてしまうことがあるだけの話だ。

そこをきちんと、割り切ると、焦らなくなり、実際にミスは減る。

丁寧に対処するしかなくなってくるからだ。

表面上を取りつくろおうとして、焦って失敗を重ねるより、

ペースが落ちても丁寧にできるほうが、

仕事上での評価は下がりにくい。

あとは、仕事の役割と自分自身を、しっかり分ける。

あなたの責任は、あくまでもその仕事の範囲内にあり、

あなたのすべての人格、全意識を投入して、やるものではない。

鬱のときは完全に仕事用のあなた、でいいのだ。

これもまた、そう 決めて割り切るしかない。

でもそうすれば、仕事の役割の面でのトラブルにより、

自分を追い詰める危険性が減るのだ。

私の経験では、上司に相談し、対処しきれない類いの、ワケのわからない

相手の主張を、上の対応任せにしてもらったこともあった。

それでも、いいのだ。

自分は病なのだから。

どうか、必要のない落ち込みを抱えこまないようにしてほしい。

仕事に感情を持ち込むのは、もともと、

自分にとってよくないやり方であるのだから、

そうなりやすい今は、原点に返るつもりで、しっかり、切り離そう。

感情で、仕事をしない。

理性と知性で対応するのが、仕事である。

それが、原点なのだ。