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こんなはずじゃなかった?

昨日の話の続きのようなものになる。「BIG」というかなり抽象的な言葉を使ったが、

現状を「こんなはずじゃなかったのに」と

ひたすら嫌がっている人に向けて、話してみたかった。

鬱という病にかかれば、誰しもが「こんなはずじゃなかった」という気持ちに陥る。

そりゃそうである。望んで病にかかる人など、まずいないだろうと思う。

しかも、自分の気持ちから、脳の具合まで悪くして、暗いことしか考えられなくなる病気なのだ。

誰が「ラッキー」などと思うだろうか。

この病のキモは、「気持ち」である。

ということはあなたは、気持ちで、自分を追い込んでいるのである。

気持ち……もっと具体的に言えば、あなたのその「考え方」「価値観」「思考パターン」で。

こうなりたい、という目標があることは、悪いことではない。

それがお金持ちになりたいとか、有名になりたいという抽象的なものでも、

仕事で○○になりたいでも、恋人がほしいでも、結局はそれによって「幸せになりたい」のである。

自分がそう感じることによって満たされれば、幸せになれるから。

お金も名誉も、仕事で何かを成すのも、本当はそれが最終目標ではなく、

それによって満たされて、幸福感を得たいのである。

家族が円満に、とか健康に、というのもそうだろう。

でも、その幸福を得る手段を「その方法だけ」で得ようと思ったり、

人よりなんらかの形で優位に立つ(家族がうまくいくことだって、そういう視線で、他の家と比べて、

なんて考え方をする可能性はある)というところだけで得ようと思ったら、

表面的なことにこだわり始めてしまう。

体裁をつくろったり、とにかく達成すればいい、ってことになったり。

そうなると、人間関係が崩れてしまうかもしれないことは、容易に想像できるだろう。

その目標は「あなたが」幸福になりたいためのもので、そこにこだわり始めたら、

周囲の人は「協力してくれないと困る存在」になってしまうから。

仕事関係しかり、家族・友人・恋人関係しかり。

その目標のために協力してください、場合によっては利用します、ということになりうる。

で、協力を得られなければ「どうしてわかってくれないの」となってしまう。

あれ? 自分のことを自分で立派に成し遂げようとしているのに、なぜかうまくいかなくなってきて、

人間関係まで面倒くさくなってきたぞ? ってことになってしまうのだ。

自分の努力は確かに必要である。

でも、自分だけがなんとか努力すれば、あなたが幸せになれるわけではないのだ。

で、先の話に戻る。

「こんなはずじゃなかった」というあなたの視点は、今、どこを向いているだろう。

何かを成す、こうする、ああしたい、だけに、集中していなかっただろうか。

周囲も含め、よく見て全部幸せにしろとか、そういう話をしているのではない。

夢、目標の設定において、あなたは「幸せになる」ために、それを設定したはずなのに、

いつのまにか、夢や目標だけが、一人歩きしていなかっただろうか?

だから現実とのギャップや、自分の努力が足りない云々で、うまくいかない歯車のずればっかり気になってきて、

自分を追い詰める結果になってしまったのではないだろうか?

もちろんこれは思い切り、自戒をこめて語っている。私がまさにそれだった。

周囲を犠牲にしたわけではないけれど(笑)、幸せになるためには達成しなくちゃいけない、が

さらに「達成しさえすればいい」にすり替わってしまっていた。

イイ感じで幸せになる、というような最終目標が消えて、

単なる自己満足だけを求めていたのである。

そりゃ、いろいろなことが起こるんだから、歯車がかみ合わなくなって、理想通りに進まなくなって、

自分を追い詰めて、鬱にもなるわさ。

外側だけの、つじつまを合わせようとしてたんだから。それで自己満足しようとしてたんだから。

本当に「幸せだ」と思える人は、外側で少々、大変なことがあっても、動じないでいられる。

それはなぜかというと、自分が自分を信頼できているからである。

お金や名誉や、「○○したい、なりたい」という達成の欲は、

まあ、それも「幸せの味わい方の、楽しみのひとつ」であって、という感覚。

自分に対する信頼感が先なのだ。

社会的立場や、表面的な成功、お金が先ではなく、自分の中身が先、なのである。

だから、この鬱という病にかかった人にとって、今はチャンスなのだ、と、私はあえて言う。

病を治すためには、自分の考え方やこだわりや思考パターンを見つめ直さざるをえなくなる。

それをしないまま、なんとか目の前の出来事だけこなして、達成しようと思ったって、

またどこかで、自分で自分を嫌になる。うまく動けないのだから、当たり前である。

自分を見つめ直すことは、中身をつくることに、つながるのだ。

動じなくなること。優しくなれること。温かい気持ちで見守ること。

広い視野を持つこと。他者を、ただ非難するのではなく、

その人がなぜそうしたか、相手の奥の気持ちまで見つめながら受け止められること。

自分に対しても同様に、なぜ私は今、こう考えているのか、その奥まで、見つめられること。

視点の変え方はいくらでもあって、気づいていくたびに、あなたは、自分の価値観を変えていくことになる。

そういうふうに、できるチャンスなのだ。

そうしたいなら、まずは身体を養い、脳の働きを取り戻していくこと。

脳の作動がおかしくなったままでは、落ち着いた視点でものごとを見つめ直すことはできず、

また暗い思考の回路に、自分をはめてしまうだけだから。

鬱になった今だからこそ、自分を、周囲を、見つめ直せるかもしれないのだ。

あなたはたまたま、そういうやり方を選んだ。自分をとことん追い詰めるまで、気づけなかった。

そのことを無視して、今まで通り、表面的な達成とそれによる自己満足だけを見つめていたら、

鬱という病は治りにくくなる一方で、

幸せになりたいはずが、いつの間にか死にたくなるところへいってしま

今 小さいのも 通過点

ダメな自分 そう卑下する気持ちは 脳の狂いによるものだから 勝手にでてきちゃうのだけれど

そのなかに 何かBIGな自分になりたい! といった欲が隠れていると さらに自分を落ち込ませることになる

単なる出世にとどまらず あんな自分 こんな自分 そういった理想の自分を抱えていると

そのために 一切動くことができない今の事態が さらに情けなさを増していく

本当のBIGは 知名度などなくても気にしないし 何かを誇ったりもしない

別に闇の世界で生きているとか そういう怖い類の話ではなく

泰然自若(たいぜんじじゃく/落ち着いていて動じず 気持ちが常に安らかな状態)なのだ

名誉や欲 見栄に動じないだけでなく 自然に表れてくる気持ちに従って

自分は常に なすべきことをしようとしているだけ

こういう人は 周りから見ればすごい人に思える

そして そういう意味でのBIGな人なら 病さえ 静かに受け容れるのだと思う

そうなってしまった自分がいることを ただ認め あがいたりせず 今なすべきことは 治すことなんだと

静かに受け容れる気がするのだ

有名になりたい? 全国的ではなくても たとえばその業種で その世界で ひとかどの人物になりたい?

もっと小さい単位で言えば 家族や友人達から すごいと認められたい?

それって そこまで達成することも必要だけれど もっと大変なのは その維持 だよ

○○にさえなれば ○○さえできれば と この病では思いがちだけれど

その○○の先にも 人生は普通に続くのだ

であれば 今のこの状態さえ ただの通過点として 学びを得たほうが

よほどあなたのためになるのではないか?

やがてはまっとうな生活になりたいとか 温かい家庭を築きたいとか そうした夢が 悪いわけじゃないけれど

王子様とお姫様が「幸せにくらしましたとさ」というような伝聞は

幸せに暮らしきってからこそ 生まれるもので

その間 きっと 王子もお姫様も 幸せに暮らす努力は必要で

いろいろなことを お互い 乗り越えていく必要があるのだ

人生に いいことばかりじゃないことは確かで 嫌なことが起こる場合もある

でも どちらもやがて 時間とともに 変化していくのだ

この先 奴隷のように 永久的に ある仕事に従事しなくちゃいけないなんてことも ない代わりに

なんの努力もいらない幸せも ありえない

それを夢に描きすぎていたら 幸せになったあと 今度は現実とのギャップに苦しむだろう

「こんなはずじゃなかった」 というパターンである

万物は 変化する そのことだけが真実なのであれば

今の病も 小さいと思っている自分自身も ただの変化の最中であり 通過点である

だから 自信過剰にもなり過ぎず 卑下もし過ぎず 変化をよい方向へ導くために

今の自分を見つめて 学びのきっかけにして よりよい自分を新たに 構築していってほしい

鬱という病は 自分を見つめ直し 他人を見つめ直し 自分をひとまわり大きくするための

絶好のチャンスにさえ なりうるのだ

どうしていくかは ただ あなた自身の気持ち次第である

静かに 思いを探ってみてほしい

感情を 隠す必要はないけれど

感情を隠す必要はないけれど ぶつけ方と ぶつける相手を選ぶ

何かの本で読んだ要約のようなもの

あなたが感じている その悲しみや怒りや とまどいやさみしさは

「あなたの」感情である

あなたが あなたの内側で 感じているものである

それゆえ 周囲の人には 態度か 言葉で表さない限り 気づかれないものである

よく 以心伝心 という言葉があって 相手の考えていることが わかるようになることも確かにある

ただしそれは お互いの深い信頼感 つきあいの長さなど ある程度の条件が必要であって

以心伝心になってよ と言ってなれるものではない

こっちの気持ちを推し量ってよ と 強要しても できるものではないのだ

あなたの感情は あなたのものであるから

それが苦しいとき 誰かに聞いてもらいたいと思ったとしよう

言う相手は 誰? そして どんなふうに伝える?

たとえば職場で上司に八つ当たりされたとき

職場で その上司に向かって やんわり釘を刺すのか

それを見ていた同僚に あとで話すのか

帰ってから家族に あるいは彼氏に電話で話すのか

数日後の友人との集まりで話すのか

誰かに向かって そのつらさを解消する方法は ざっと書いただけでこれほどある

でもそれは あなたの感情であり

あなたが そう感じたことが「正しい」わけでもない

あなたは「たまたまそのときに そう受け止めた」から たとえば怒りや 腹立たしさを感じる

それはあなたのタイミングによる あなたの視点である

これを忘れてしまうと 相手に「強要」を求める

ひどいでしょ と強く言って 悪口的な同意を求めようとしたり

大変だったね かわいそうに と言ってほしくなったり

話を聞いた側の反応を 自分の都合で 勝手に自分好みに合わせてもらいたくなる

だって 私が感じているこの感情は 「正しい」んだもの 「当然」なんだもの

そう思っているから それを「正しい」と同意してほしくなったり それをふまえて さらに

「ね こんなにひどいことがあって 痛んでいるから 優しくしてよ なぐさめてよ」 と 暗に強要するのだ

あなたはたまたま そう受け止めたかもしれない

でも話を聞いた人は そうは受け止めないかもしれない

であれば こういうことがあって 「私は」こう考えて怒りを感じた と話したほうが

相手に対する強要を発生させないで済む

こんなにひどいの 腹が立っているの こんなに大変だったの ということを

怒りの感情そのままに まるでその ひどい上司が目の前にいるかのごとく ぶちまけるのと

自分の感情をも 自分でみつめながら話すのとでは

相手に対する「強要」度が変わるのだ

さらにはもし 話を聞いてくれた相手が そうは受け止めずに

「自分だったらこう感じる」「こうする」と思った場合

その新しい視点 アイデアを 聞くチャンスも生まれてくるだろう

それはきっと あなたにとっては新鮮な視点になるだろう

感情を 隠して一人で耐える必要はない

それができる人 「そうしたい」人も いるかもしれないけれど

隠して奥にしまい込んで 苦しいまま封印してしまうことは 実は必要ないのである

ただ あなたの感情に対する 100%の同意を求めるのは

違った感覚を持つ 自分とは「違う人間である」相手を ときに苦しませることになる

そのことを 頭の片隅に入れておいてほしい 相手の反応まで コントロールしないでほしい

とくにマイナスの感情は 重いので

こういうことがあった 私は苦しい 悲しい つらい 腹が立っている という話を聞いてもらうときは

自分だけの思いに浸りきってしまうと 自分がずっと苦しいし 聞いている相手も苦しいだろう

静かに泣くのはいいけれど ときに耐えきれず 号泣するのも仕方ないけれど

「私が号泣したり荒れたりするのは当たり前」

「こういうとき 受け止め 私が気に入る反応を返すのが当たり前でしょ」にならないことを 祈る

逆の立場になったら 「強要される同意やなぐさめの言葉」って 重たく感じられることは よくわかると思うから

感情表現は その感情にどっぷりひたったままで

表に出すのが「常に正しい」というわけではないことを覚えておいてほしい

それができるためには 互いの深い信頼感と そうできる場所 時間 タイミングも たぶん必要なのだ

もう一度繰り返す 無理して閉じ込めて なかったことにする必要は 本当にないのよ

ただ 表現方法を その出し方を 自分さえ 落ち着かせてみる感覚を 覚えていってもらえたら と思う