木元見春 のすべての投稿

生きていれば……

生きていれば 必ずいいことがあるよなんて 嘘だ と否定する人がいる

その人にとってのいいことって 何なのだろう

いい天気になって ポカポカして 気持ちいいなあ ということは

いいことには 数えられないのだろうか

何に注目するのか 何をよしとするのか

その尺度やポイントは もちろん 人によって違うけれど

ずっと自分を 嫌ったまま

自分をなんとかしてくれる 誰かに 優しくしてもらって ほっとした ことしか

いいこと に 数えられないのであれば

それは確かに いいことの回数も グンと減ってしまうだろうと思う

鬱という病はある意味 自分で自分を嫌いになるからこそ 始まるとも言える

その思い込みを放置したまま その原因や考え癖を放置したまま

誰かになんとかしてもらおうと思っても 実はとても困難で

そこを 自分で 変えていこうと決意して そのための手助けを 必要な人から借りたりもして

自分で自分を 新しくしていくやり方を 覚えていこうとすることが

病のときには とてもとても大切なのだけれど

それさえ 拒否してしまう人もいる

そんなこと 自分には できるはずがないと

自分を自分で病に追い込む力があったから あなたはその病気になったのであって

そういう力 変える力を持っていることは はっきりと証明されているのに

自分を幸せなほうへ変えていくために 考え方を見つめなおしてみようということは

なぜか 拒否されているのだ

私には そんなふうに感じられて それはすごくもったいないことだなあと 思える

自分の思考の癖を 見つめなおすことは

過去のやり方や考え方を否定し 自分をさらに否定することとは違うのに

なぜかそれと同列に考えて こわいのだろうか とも思える

自分を すでに過去から未来にわたって否定しているのは まさに今 ではないのだろうか?

鬱の波が来ると否定してしまうことはある でもそれは波だとわかっていればいい

波が収まったら少しチャレンジしてみる そんな静かな 小さな動き方で いいのだ

そんなふうにして いいこと の種類をちょっとずつ 増やしていければ

自分が生きていい許可も やがて出せると思うのだけれど

そう 大それた やり方や考え方の変化を 起こさなくちゃいけないわけではない

人生は そこまで大層で 困難で 無理しなくちゃいけないわけじゃなくて

誰から見ても 幸せな状態にならなければ 失敗なわけじゃない

人生はそんな 劇的な ドラマティックな展開のものでなくて いいのだ

日々のなかで見つかる 小さな いいことを丁寧に 積み重ねていっていいのだと

それで実は かなり 幸せに過ごせるのだと

決して こわくてつらいことばかりではないのだと

いつか 気づいてもらえたらと 願う

幸せ

本日知った、言葉。

とある、とてつもないご自身の困難を乗り越えてこられた方の言葉だ。

それが誰であるか、という説明は後回しにする。

ただ、とてもとても大変な思いをされ、それでも自分の気持ちに嘘をつけず、貫こうとされた方だ。

その言葉。

自分で自分が幸せだと思っている限り、

誰もその人を不幸にすることができない

これは本当のことだと思える。

自分が自分を大切にできれば、自分をゆるし、自分らしく生きていいことを認められれば、

その人は、幸せでいられると思う。

そしてその幸せ、自分への信頼は、自分のなかで保たれるようになる。

逆を言えば。

自分で自分が不幸せだと思っている限り

誰もその人を幸せにすることができない

のかもしれない。

誰かにすがって、その人が幸せにしてくれても、今度はその人を失うことが恐れになる。

人が幸せに生きていく、ということは、

自分が自分であっていいということを、

誰からでなく、自分が認められる、ということなのかもしれない。

鬱で自分を追い詰めてしまう症状が出る、それを放置し続ければ、真逆をいくことになるのだろう。

そしてまた、悲劇の主人公として自分を認識し続ける限り、その病も治らない。

「なぜ」自分が自分をそうとらえるのか、「どうすれば」その思いグセをやめていけるのか。

それを、周囲の助けも借りながら探り、変えていくしか、ないのだと思える。

だって、自分で自分を不幸にする必要なんて、まったくどこにもないのだから。

「本人」がその気になれば、たいていの困難は、乗り越えられるのかもしれない。

「本人」が自分の考え方や過去からのやり方に固執せず、偏らず、あらゆる可能性を試すのであれば。

どんなに自分が不幸だと思えても、「ではどうすれば幸せになるのか」を検討することは可能なのだ。

どうすれば「少しでも」幸せになれるのか、を考えることは、あなたにもできるのだ。

あなたがそれを、自分にゆるせば。

そのためにまず「私は必ず○○なのだ」「私は決して○○できない」という気持ち。

その気持ちが「あなたの思い込み」であることを、認識しなければいけない。

確かに今、周囲の状況がひどいのかもしれない。

まさに怒濤の動きの中の、その渦中にあるのかもしれない。

でも、その周囲の状況は、一生、収まることはないのだろうか?

ひどい怒濤の渦中から、少しでも抜け出すことはできないのか?

「抜け出すのに必要なこと」のなかに、自分の捉え方を見つめてみる、ということは

含まれていないだろうか?

この病が、意志を奪う症状を持つことを知っていながら、こんな話をするなんて

どうかしている、と思われるかもしれない。

でも少なくとも、病になった原因の考え方を探り、自分の思いグセを治していく過程の中で、

気づけるはずなのだ。

自分の幸せは、少なくともある程度まで、自分で決められる、ということは。

今の時点では、病というものがあるため、確かに全部、そう思えることはないかもしれないけれど。

それでも、自分で、変えていける、ということに、少しずつ気づいてほしい。

あなたが、自分自身を、幸せにしていい。

そのゆるしを、どんな人であれ、自分に出していいことを、知ってほしいと思う。

上の言葉を話してくれたのは、日本で初めて、性転換手術を受け戸籍を女性から男性に書き換えて、

現在は性同一性障害の講演を全国で行っている方。

ジェンダーという壁を、日本で初めて乗り越えた、虎井まさ衛さんである。

そして、この言葉を虎井さんが語った、と教えてくれたのは、

自分にできることで他の人が楽になり、幸せになることをサポートしたいと願ってくれている、

私の大切な、ステキな友人である。

http://ameblo.jp/dryas/entry-11085225751.html

依存とサポート

「依存」とは、他者にさまざまな答えを求めたり、

自分の価値を認めてもらおうとすること。

恋愛に限らず、これは起こりうることである。

たとえば誰かの話が、今の自分の困っている部分に当てはまる、と思ったとき、

その人の話をもっと聞きたくなる。

それを自分なりに噛み砕いて解釈し、気持ちが晴れたり、

悩みを解決するヒントになれば、その話は、自分をサポートしてくれるものになる。

しかしそれにとどまらず、鵜呑みにしてしまう場合が、ときに依存へとつながっていくのだ。

たとえば、の話。

ずっと毎日、ある人に「つらいよ」と悩みを打ち明け、

「うん、つらいですね。大変ですね」という言葉のみ毎回、返されたら、

そのうち自分自身がだんだんと申し訳なくなったり、

行き詰まってしまうことは、簡単に想像できると思う。

かと言って、答えを知っていそう、と思う誰かにガンガン、

それはこう、あれはこう、と、答えを教えてもらったら。

そのうち、その人から離れるのが怖くなる。

だって自分には自信がないまま、なんとかしようとするからだ。

宗教の変な勧誘と、それにはまっていく過程は、まさにこれを利用している。

納得させながらも、相手には、それが「自分ですでにその答えを心のなかに

秘めていたからこそ、そうだ、と思える」、という部分を気づかせないようにする。

魚の獲り方を教えず、ひたすら魚を与え続けるのだ。

そのようにして行き着く先が、他者依存なのである。

しかも「素晴らしい! この教えに付いていけば、間違いない!」

という、相手からの賞賛つきでね(^o^;)

ひたすら優しく受け止め、求めらる答えをどんどん伝えるのは、

本当の愛、ではないとさえ思う。

それは魚の獲り方を一生、自分では気づけなくするようなもの。

獲る能力がちゃんとその人にあることを本人には気づかせないようにして、

獲る前に与えてしまうようなものなのだ。

そして気づかないあなたも、与え続けてもらいたいがために、

やがて何かを譲歩したり我慢するようになるだろう。

そう、あなたは、自分のなかに答えをすでに、秘めている。

それゆえ、よいカウンセラーは、本人が答えを見つけられるように、

会話などで導いてくれる。

やがてあなたが気づけることを、信じている、というより、知っているから。

何度でも言う。

あなたがもし、誰かの言葉に反応したなら、それはあなたの中にもう

答えの「氷山の一角」が見つかっている証拠だ。

それを捉え、元にして、自分で今できることへ、変えていこう。

こうした気づくためのヒント、という意味でのサポートは、

今、可能な範囲でどんどん活用してほしい。

でも、恋人や友人にひたすらわかってほしいという恭順さを求めたり、

自分に役立つ答えを求めたりしているなら、いったん立ち止まろう。

相手にわかってほしいなら、あなたもまた、相手の気持ちを

わかってあげなくてはいけない。それが関係のベースであることを、

この病の間はとくに、忘れがちになりやすいから。

さらには、私にはわかっているから聞きなさい、と豪語する人を

今はとくに頼ろうとしないほうがいい。話を聞くのはともかく、

聞けなくなったら、この人がいなくなったらどうしよう、という不安が

起こるようであれば、それは依存の始まりなのかもしれないから。

だいじょうぶ。

答えは必ず、あなたのなかに、ちゃんと備わっている。

無理せず、できる答え探しや行動を、まずは少しだけやってみよう。