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否定を続けたら……

自分を否定し続けたら、苦しくなる。

それは当たり前のこと。でも、やめられない。

鬱のときには、頭が、そういうふうに働くから。

全部、過去の、今の、悪いことにつなげて、どんどん自分を追い詰めていく。

だから、考えること自体を、やめる。

否定を続けたら、「普通の頭」なら、最後にはたいてい、こういう感じになるのだ。

「ああ! ヤメヤメ! こんなことしたって、何も変わらない!」って。

そう、「普通の頭」の回路になってるあなたなら、そう気づいて、やめるのだ。

暗いことを考え続けること自体に、飽きる。自分を苦しめ続けること自体が、イヤになるから。

でも、今は「イヤなのにやめられない」頭になってしまっている。

なので強制的にでも、気持ちを切り替えるしかないのだ。

追い詰め続ける限り、その回路は、治らないから。

風邪を引いたとき、咳が出るからって、そういうノドになっているからって、

ずっと、意識的に、咳をし続けたりするだろうか?

ノドを、安静にしてあげようとアメをなめたり、マスクをしたり、しないだろうか?

なのにどうして、頭の回路は、どんどん、使い続けるのだろう。

悪い回路を使えば使うほど、病状は、悪化していくのに。

あなたが、その病を、治したいのであれば。

あなたが、自分を否定し続けること自体を、やめなくてはいけない。

自分を責めたり、上手くいってないことを悔やんだり、思い出したり。

自分をどんどん、悪者にしていくその「思考」自体を、やめなくてはいけない。

今は、どんなに、自分に甘い、ダメなヤツであっても、いい。

過食、拒食、OD、リスカ、アムカ、引きこもり、それは「一瞬しか」あなたを助けない。

それどころか一瞬、助けたフリをして、あとからあなたをさらに追い込む。

何よりそれは、あなたの「助けて」という、周囲への、また、自分自身への「訴え」なのだ。

その行為へ、はまること自体が、自分の、自分自身への、SOSである。

あなたは、自分に「助けて」って言ってるんだよ。

そんなふうに、自分を、否定しなくていいのだ。

自分を、ゆるめよう。

もう、馬鹿な自分を、ゆるしてあげよう。

馬鹿でもがんばって、苦しんでいる自分を、ゆるしてあげようよ。

今は病気なんだから、でも本当は病気じゃなくてもいつでも、優しくしてあげていいんだよ。

生きる価値がない人間なんて、この世にはまず、いない。

他人を傷つけ、殺して、それが一番自分にとってうれしい、

しかも「生まれ持った脳の回路」によってそのようになってしまっている人以外は、皆、

自分の生きる意味を、自分の価値を、持っていいのだから。

そう、持っていいんだよ。

どんな馬鹿な自分でも、大切にしていいっていう気持ち。

ただ、自分は自分をなんとなく好き、っていう気持ち。

持ったことがない人は、これから。

昔、持ったことがある気がする人なら、ふたたびもう一度。

否定を続けたら、何もかもずっと、否定のまま。

自分はずっと、つまらないイヤな人間で、

人生はずっと、楽しくない、つらいことばっかりになるんだよ。

それは自分を、否定するところから、すべて始まっている。

自分を嫌いなまま、そこからは抜け出せないことに、

どうか、気づいて……。

あるがままに

たとえば 悲しいという気持ちが起こったとき

その気持ちを なかったことにはできないし それを感じた「経験」も なかったことにはできない

でも 鬱のときには その「悲しい」という気持ちを さらに自分のなかで発展させてしまう

あのときも ああだったから あのとき ああしていれば こうしていれば

悲しみを感じた経験での 自分のふるまいを思い返し さらにもっと過去の 経験も混ぜて

私がいけなかっただの あのときこうしていればだのという 後悔や苦しみをつけ加えて

やっぱり自分は と 卑下につなげて 追い込んで苦しくする 材料に変えていく

悲しい というのは 心で感じた「感情」なのに

そこへさらに 「記憶」や「思考」をいっぱいくっつけて 苦しみへ変えるのだ

これは 悲しいだけに限らず 怒り とまどい そういったものでも 起こりうる

なぜそうするかといえば あなたのなかで なんとか そうした感情と折り合いをつけたいからで

だからこそ いろいろくっつけてしまうというのも わからなくはないんだけれど

鬱のときには 結局 自分を追い込む思考へつなげてしまうから タチが悪いのだ

悲しい という感情を 悲しい という感情のまま ただ ありのままに 味わってごらん?

怒りがわいてきたときには 怒りの感情 そのものを 感じてごらん?

余計な思考の発展を つけ加えずに

そうすると 悲しいときは テンションがきゅうっと上がったりすることなく

しみじみと「悲しいよ……」ってなるだろう

怒りは メラメラと湧いてくるけれど

自分がこういうふうに怒りを感じるのか と なんだか別の形で 見つめることになるだろう

そこに 自分を卑下する要素を 「わざわざ」加える必要はないのだ

感じたくなくて なんとかしようとあがくから かえって 気持ちを高ぶらせることになる

感情が湧いている自分がいることを 素直に認めても 別にかまわないのだ

あなたは この世でたった一人の 大切な 独立した人間であって 感情がない 人形ではないのだから

うれしさも 楽しさも 怒りも 悲しさも 感じていいのだ

そこに 理由をくっつけなくていいのだ

おもしろいことに そうしてしみじみ あるいはメラメラ 自分の感情を見つめていると

それがちょっと 自分から離れているもののように 思えてくる

そしてやがて 静かに 涙が終わったりするのだ

悔しさも 重さも 一緒に しんと 収まっていく

もちろん 鬱の波の状態によっては 何度も繰り返し 感情が湧いてくることはある

でも 思考を加えて 理由づけして 無理矢理押さえようとしなくてもいいのだ

そのたびごとに しみじみと メラメラと あるがままに 感じてみればいいのだ

あらゆることを 自分の「問題」につなげてしまう いまだからこそ

そうした「あるがまま」を 自分にゆるしてほしい

思考と感情は 常にセットでなくてもいいことを

何か起こるたびに 常に自分を苦しい方向へと導き(そういう脳みそになっているのだから)

自分がダメだと 結論づける必要がないことを 知ってもらえたらと 思う

変えるかどうかは、あとにして

鬱という病は、環境や状況の変化によっていきなり起こることもあるし、

長い間に身につけた「自分のやり方」で、自分をじわじわと追い詰める場合もある。

それは結局、受け止め方、ということに、行き着くのだけれど。

そしてたいていの場合において自分を、明確に、何らかの理由で否定する。

なかには、まず、他人の言動を強く否定する人もいる。

あまりにも強く自分の価値や存在を否定され、相手の都合のみで

傷つけられ続けた場合などは、そうなっても仕方ない。

自分は相手と同じように、ひとりの独立した人間だからだ。

ただ、その場合でも、鬱になってしまっている自分をイヤだと思うだろう。

鬱になる原因は千差万別で、ある人にとっては大したことのない問題でも、

別の人にとっては、とても解決が困難な場合もある。

それは育ってきた環境などにも影響されるから、

決して鬱になった人が「悪い、ダメな人間」なのではない。

最近はよく、打たれ弱いとか、プチ鬱とか、仮面鬱などという言葉が

ネットや報道などで語られているけれど、それだってまあ、「軽度の鬱」ではあるのだ。

それならそれで、軽いうちに原因を探して、自分のなかで治していくに越したことはない。

鬱はたいてい、自分の気持ちや考え方のなかに、病気になった理由、原因がひそんでいる。

風邪のウイルスのような、自分ではイマイチ正体の分かりにくい、気づいていない

「受け止め方」というものが、その原因であることも多いのだ。

だから治すにあたっては、自分がなぜ、具合が悪くなっていったかを、

客観的に見つめていく作業が必要だ。そしてその作業は、自分一人でできないこともある。

受け止め方は自分のなかで「当たり前」になってしまっていることも多いし、

また、鬱には波があるため、とくに深いところに落ち込んでいるときには、

見つけても、すべてを自分の卑下につなげてしまって、客観視どころではなくなる場合もある。

だからこそ、カウンセラーなどの専門家や、自分の話を黙って聞いてくれる、

そういう話を打ち明けられる友人や家族などの力も借りるのだ。

人に話すときは、自分も冷静になっていく。つまり話すことで、自分が気づけるからだ。

そうやって、わかっていなかった、気づいていなかった自分の中の「原因」が

見え始めたとき、それだけで少し、霧が晴れたように感じられる。

これまではただひたすら、自分が悪い、とか思えなかったことが、

理由や原因が見えることで、少し「腑に落ちる」のだ。

少なくとも、このようにして自分のなかの、病の理由や原因を知ることで、

あなたが何かを失うことはまずない。

それを見つけることによってまず、自分が少し落ち着けるのであれば

(ほとんどの人は、気持ちを落ち着かせることができるだろうと思う)、

やってみて、何も損はしないと思えるのである。

今の自分がイヤで、消してしまいたい、と思っているのであれば、なおさら、

まず、その原因や理由を探してみることをおすすめしたい。

原因がわかれば、そこで初めて「的確な対処方法」もまた、考えることができるから。

そして、もし受け止め方を変えていくのなら、それをどのように進めていくかも、

それ以前に、あなたが自分を変えるかどうかも、また、あとから、考えればいいのだから。

すべてを順序よく美しく完璧にしていかなくちゃいけないわけでは、決してないのだから。