変えるかどうかは、あとにして

鬱という病は、環境や状況の変化によっていきなり起こることもあるし、

長い間に身につけた「自分のやり方」で、自分をじわじわと追い詰める場合もある。

それは結局、受け止め方、ということに、行き着くのだけれど。

そしてたいていの場合において自分を、明確に、何らかの理由で否定する。

なかには、まず、他人の言動を強く否定する人もいる。

あまりにも強く自分の価値や存在を否定され、相手の都合のみで

傷つけられ続けた場合などは、そうなっても仕方ない。

自分は相手と同じように、ひとりの独立した人間だからだ。

ただ、その場合でも、鬱になってしまっている自分をイヤだと思うだろう。

鬱になる原因は千差万別で、ある人にとっては大したことのない問題でも、

別の人にとっては、とても解決が困難な場合もある。

それは育ってきた環境などにも影響されるから、

決して鬱になった人が「悪い、ダメな人間」なのではない。

最近はよく、打たれ弱いとか、プチ鬱とか、仮面鬱などという言葉が

ネットや報道などで語られているけれど、それだってまあ、「軽度の鬱」ではあるのだ。

それならそれで、軽いうちに原因を探して、自分のなかで治していくに越したことはない。

鬱はたいてい、自分の気持ちや考え方のなかに、病気になった理由、原因がひそんでいる。

風邪のウイルスのような、自分ではイマイチ正体の分かりにくい、気づいていない

「受け止め方」というものが、その原因であることも多いのだ。

だから治すにあたっては、自分がなぜ、具合が悪くなっていったかを、

客観的に見つめていく作業が必要だ。そしてその作業は、自分一人でできないこともある。

受け止め方は自分のなかで「当たり前」になってしまっていることも多いし、

また、鬱には波があるため、とくに深いところに落ち込んでいるときには、

見つけても、すべてを自分の卑下につなげてしまって、客観視どころではなくなる場合もある。

だからこそ、カウンセラーなどの専門家や、自分の話を黙って聞いてくれる、

そういう話を打ち明けられる友人や家族などの力も借りるのだ。

人に話すときは、自分も冷静になっていく。つまり話すことで、自分が気づけるからだ。

そうやって、わかっていなかった、気づいていなかった自分の中の「原因」が

見え始めたとき、それだけで少し、霧が晴れたように感じられる。

これまではただひたすら、自分が悪い、とか思えなかったことが、

理由や原因が見えることで、少し「腑に落ちる」のだ。

少なくとも、このようにして自分のなかの、病の理由や原因を知ることで、

あなたが何かを失うことはまずない。

それを見つけることによってまず、自分が少し落ち着けるのであれば

(ほとんどの人は、気持ちを落ち着かせることができるだろうと思う)、

やってみて、何も損はしないと思えるのである。

今の自分がイヤで、消してしまいたい、と思っているのであれば、なおさら、

まず、その原因や理由を探してみることをおすすめしたい。

原因がわかれば、そこで初めて「的確な対処方法」もまた、考えることができるから。

そして、もし受け止め方を変えていくのなら、それをどのように進めていくかも、

それ以前に、あなたが自分を変えるかどうかも、また、あとから、考えればいいのだから。

すべてを順序よく美しく完璧にしていかなくちゃいけないわけでは、決してないのだから。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

code