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信じる力

今日の話は、具体性がないかもしれないがお許しを。

信じる、ということの効力について、私が感じていることだ。

さまざまな本を読みあさっていたとき、私は『思考は現実化する』という本を読んだ。

これは別に「気の持ちよう」というだけではなく、

すべては「思考から始まる」ことを説明した本だ。

当たり前と言えば当たり前だが、私たちはまず、何かをするときに、

それを「しよう」と思う意志を持つ。

わかりやすい例として、発明家の話をしよう。

発明家は「あったらいいな」というものを形にする。

すでにあるものへアイデアを加えて改良するだけではなく、

なんとかして、今までにないものを、作り出そうとする人もいる。

発明家のくくりに入れたら怒られるかもしれないが、ベルが電話を作り、

エジソンが電球を生み出し、ライト兄弟が飛行機を作ったのは、すべてそういう経緯だ。

このとき、最初に頭のなかにあるのは「できるかもしれない」という気持ち。

「なんとかして、やってみよう」という意志である。

これなしで、何かを変えたり、生み出したりすることは不可能なのだ。

じゃあ、その気持ちや意志に実体があるのか、というと、そうではない。

単なる「思い」、心の中のことだ。

でも、最初に思いが、意志があって、そこから「アイデア」や「考え」「思考」が生まれ、

それを「作業」という具体的な行動に移すことで、何かが生まれ、変わるのだ。

そのルールというか流れについては、なんら異存はないかと思う。

では。

私たちの思いや意志には、そういう「行動に至り、何かを変える力」がある。

同じ話をこういうふうに表現し直したら、あなたはどう思うだろうか。

とたんに「意志を持続できる強さが必要だ」とか、「忍耐力がいる」とか、

なんらかの「条件づけ」が始まるかもしれない。

場合によっては「運も必要」なんていう意見も、出るかもしれない。

意志にそういう力がある、その事実は理解しながら、いざ、実行するとなると、

尻込みするのである。

なぜかというと、たとえば「失敗」したくないから。他にも恥ずかしい思いをしたくない、

大変そうなことはやりたくない、あるいは「自分にそんな力はない」とか?

そういう声が、聞こえてくるような気がする。

が、しかし。

まさに、意志に力があるのであれば、「私にはできない」と思うこともまた、力を持つ。

そう、実際に、できなくなるのだ。

すでに、あなたは「自分の気持ちの力」により、自分を「鬱」へと追い込んだ。

それもまた、マイナス方向ではあるけれど、あなたを変える「力」だったのだ。

では、その事実を身にしみて感じていながら、なぜ、そのままでいるのだろう?

怖いから? また繰り返したくないから? これ以上、恥をさらすのがイヤだから?

少なくとも、あなたの頭の中にあるのは「過去に起こった出来事」である。

その出来事が「未来永劫、繰り返される」なんて決定は、本当はどこにも存在しない。

たとえ「似たような状況」に再び出会ったとしても、それは「同じ」ではないのだ。

唯一、あなたが「同じ」だと結論づけること、そう決めつけることをのぞけば。

状況は、まったく同じではない。あのときのあの瞬間は、もう二度と実際には訪れないのだから。

そして何より、あなた自身がすでに「違う」人である。

あなたの思うところの「失敗」は、1回目ではなく、2回目である。

そこには「前と同じ」(本当は似ているだけ)と「類推する」能力が、すでに新たに加わっているのだ。

言いたいことが、わかるだろうか。

失敗は成功の元、という言葉があるが、失敗が「新たな能力を得る学び」だということは、

つまり失敗は失敗ではなく、単なる体験的知識の増加、学び、に変えられるのだ。

そのための唯一の条件は「あなたがそう捉えるならば」ということだけ。

そして人生はすべてが学びであり、そこには「失敗」なんて存在しなくなる。

すべてが一回で全部うまくいく人なんてあり得ないから、

あなたが「なりたいあなた」に近づくためには「練習」が必要なのであり、

今はたまたま、「マイナスに感じられるやり方で、学んでいるのだ。

信じること、がどんな力であるかを、

こういう見方からも、知ってもらえれば、と願う。

すべては、あなたの気持ち次第。

ならば上手に使える練習を、してみてほしい。

そのためのサポートは、あなたが求めれば、得られるのだから。

優しく接する

誰かに対し たとえば座席を譲るなどの小さな親切をしてみたり 優しく接することができると

少しの気恥ずかしさとともに 自分にも 柔らかくてすがすがしい気持が生まれる

それはたとえ 見返りがなかったとしても 自分のなかに 現れるものだ

本当は 自分に対しても それができれば 同じような気持ちを持つことができる

叱咤ではなく 否定でもなく 甘えでもない 優しい気持ちで

がんばっている自分を いたわってあげる時間

お湯につかって脱力したり 脚をマッサージしたりする

女性ならとくにわかるだろうと思うが ボディケアをしたり ネイルを整えたり パックしたり

そういう手入れや 疲れをとるようなもの

あとは 洗濯したての服に着替えたり 気持ちのいい場所で大きく深呼吸したり 

そういう時間を 自分に許すこと

自分の身体や 気持ちを みずから「意識して」いたわることは

同じように 優しい気持ちを 自分にもたらす

卑下することや 叱咤激励することが多い 鬱という病のなかにいる今だからこそ

ときには意識的に 自分を清潔にしてみたり いたわってみたり してみてほしい

あなたは 自分を大切にしてあげて いいのだから

あなたこそが 本当は 自分を一番大切にしてあげて いいのだから

どんな状況であったとしても それは 甘えでも何でもないのだ

死ぬときに得るもの

なんだかぶっそうなタイトルでごめんなさい。

自分が死を望んでいたときのことを思い出したので、書きたくなった。

私が求めていたのは「これ以上の苦しみが続かないこと」だった。

それは、今、冷静に考えれば、「死」という選択肢を選ばなくても得られるものだったが、

そのときの私は「鬱」という病のなかで思考回路が極端にせばまって、そういう方向しか

思いつかなかったのだ。

鬱という病がいかに、自分の思考を制限するか、その最中にいるときにはわからなかった。

ダメ、以外の言葉が、思いつかなかったのに、それを「異常」とは思わなかったのだから。

逃げたかった。「今の自分」を見ているのもイヤだった。

そう、ダメな部分しか見つからない自分をイヤだと思っていた。情けなくて、ある意味、憎んでた。

自分が自分を、世界で一番、嫌ってた。

そうやって自分で自分を追い詰め始めると、本当にキリがない。

24時間、待ったなし。目が覚めてから寝るまで、いつでもふと、始めてしまう。

しかも始めると、止まらないのだ。これから先の自分についていろいろなパターンを考え、

そのすべてが「無理」という結論になり、そんな情けない自分を責める。

……そして、逃れたい、と思って選ぶ自死という手段で、私は、こんな人生からの逃避を願い、

「平穏」と「安楽」を手に入れたいと思った。

でも、その後、未遂した方の本を何冊か読んで感じたのだが、

最後の瞬間、ほとんどの人が感じていたのは「絶望」だった。

社会や他人への絶望、ではない。

それを実行する自分を究極に「情けない」と感じ、ある意味、罵倒して否定する思いだ。

最後の最後に、自分が感じるものがそんな自己否定であることを、

私は悲しい、と思った。

結果として私自身は、実行する前に自死を思いとどまらざるを得なかったわけだが、

最後の最後が自分への絶望である、というその事実は、

私をさらに、思いとどまらせることになった。

そのころには、「自己否定が止まらない」理由は、病の症状だと、わかり始めていたからだ。

それならば、この病を、治すしかない、と。

一番下に落ちたからこそ、これ以上、落ちることも失うものもないからこそ、

立ち直るしかない、と思った。

……死を望む人には、救われない話になってしまてごめんなさい。

でも、それが事実であることは、伝えたかった。

平穏、は、自死を選んで死ぬときには、こない。

自然に死を迎えることになった人たちだけが得る可能性のある、境地であると。