なんだかぶっそうなタイトルでごめんなさい。
自分が死を望んでいたときのことを思い出したので、書きたくなった。
私が求めていたのは「これ以上の苦しみが続かないこと」だった。
それは、今、冷静に考えれば、「死」という選択肢を選ばなくても得られるものだったが、
そのときの私は「鬱」という病のなかで思考回路が極端にせばまって、そういう方向しか
思いつかなかったのだ。
鬱という病がいかに、自分の思考を制限するか、その最中にいるときにはわからなかった。
ダメ、以外の言葉が、思いつかなかったのに、それを「異常」とは思わなかったのだから。
逃げたかった。「今の自分」を見ているのもイヤだった。
そう、ダメな部分しか見つからない自分をイヤだと思っていた。情けなくて、ある意味、憎んでた。
自分が自分を、世界で一番、嫌ってた。
そうやって自分で自分を追い詰め始めると、本当にキリがない。
24時間、待ったなし。目が覚めてから寝るまで、いつでもふと、始めてしまう。
しかも始めると、止まらないのだ。これから先の自分についていろいろなパターンを考え、
そのすべてが「無理」という結論になり、そんな情けない自分を責める。
……そして、逃れたい、と思って選ぶ自死という手段で、私は、こんな人生からの逃避を願い、
「平穏」と「安楽」を手に入れたいと思った。
でも、その後、未遂した方の本を何冊か読んで感じたのだが、
最後の瞬間、ほとんどの人が感じていたのは「絶望」だった。
社会や他人への絶望、ではない。
それを実行する自分を究極に「情けない」と感じ、ある意味、罵倒して否定する思いだ。
最後の最後に、自分が感じるものがそんな自己否定であることを、
私は悲しい、と思った。
結果として私自身は、実行する前に自死を思いとどまらざるを得なかったわけだが、
最後の最後が自分への絶望である、というその事実は、
私をさらに、思いとどまらせることになった。
そのころには、「自己否定が止まらない」理由は、病の症状だと、わかり始めていたからだ。
それならば、この病を、治すしかない、と。
一番下に落ちたからこそ、これ以上、落ちることも失うものもないからこそ、
立ち直るしかない、と思った。
……死を望む人には、救われない話になってしまてごめんなさい。
でも、それが事実であることは、伝えたかった。
平穏、は、自死を選んで死ぬときには、こない。
自然に死を迎えることになった人たちだけが得る可能性のある、境地であると。