木元見春 のすべての投稿

自分のために吐き出す

さて、昨日のつづき、になるだろう。

中国農村部の今の人たちの暮らしを述べ、私は「切り替えるチャンス」が、この国にはある、と書いた。

立ち直る機会は、かの国の人たちよりも、明らかに多いのだ。

あなたが、そうしようと、思うのであれば。

そう、あなたが、そうしようと思うこと。それが最初の、条件かもしれない。

逆の言い方をすれば、それは、このまま苦しみ続けていい、ということも指す。

どうせ私なんて、どうせ私なんて、と、この先もずっと繰り返し、苦しみ続ける「自由」もまた、あるのだ。

そして、切り替えたいなら、その機会を見つけるきっかけは「人に話す」ことになると思う。

誰かに話すことで、気づくのだ。

何が自分を苦しめていたかを。

あるいは、自分が何を、大切にしてきたかを。

何を、楽しいと思うかを。

話すことで生まれてくるのは、起こった出来事に対する「捉え方」の変化、自分の視点の変化である。

そのことでもう一つ、時事的な例を挙げよう。

ご覧になった方もあると思う。先日逝去された、スティーブ・ジョブズ氏の、

2005年のハーバード大学での講演だ。

ジョブズ氏がガンを再発したことは、以前、iPadの発表会での姿を見たときに気づいたのだが、

まさかこんなに早くお亡くなりになるとは思わなかった……。ご冥福を祈りたい。

そのジョブズ氏は、未婚の母から生まれ、養子になり、大学を中退し、倉庫でマッキントッシュを開発し、

Windowsに負け、会社を首になり、友人とアニメ映画制作会社のピクサーをつくり、

またアップルに復帰し、iPodやiPhone、iPadを生んだ。

そして、膵臓ガンになって、手術が成功して、再発して、亡くなった。

あえてこういう言い方をする。彼の人生のなかで、彼には何回、「鬱になるチャンス」があっただろう?

とくに会社を首になったときなどは、それまで身を捧げていた仕事も職場も、すべてを失っている。

が、しかし、彼はとにかく「立ち止まらなかった」。

彼はめげなかった、のではない。すべてのことを「よいほうに捉えることにした」のだ。

静かに語られているこのスピーチは、そうした、単に精神力云々の問題ではない、

「捉え方」という大切な視点が語られている。

出来事や経験という、ひとつひとつの人生の「点」。その点と点は、やがていつか、線になる。

そのことは、あとからわかるのだ。そして、悪いことも、自分にとっては結局よいことだったのだ、と。

Stay hungry, stay foolish.

あきらめてもいけないが、深刻になってもいけない、と。

そして、こう語るジョブズ氏もまた、アメリカ、という国にいたからこそ、こう言えるのだ……。

吐き出すこと。それはあなたが一歩、動くこと。

そこでは、他人や社会、周囲への恨みを述べ続ける必要もないのだ。

どうせ吐き出すなら他者への非難ではなく、

「あなたがなぜ、どんなふうに、そのときつらかったか」を述べよう。

他人への悪口は、あなた自身をむしばんでしまうからだ。

ふつう、人は、他人または自分のなかの「悪意」に触れるとき、

とても重苦しい気持ちを感じてしまう。嫌気がさして、そのこと自体で傷ついてしまうのだ。

だからもし、誰かのせいでそうなったとしても、その人の話ではなく“あなたの話”をしよう。

あなたがどうであったか。それを打ち明けることが、あなたを助ける。

あなたを傷つけた過去の他人のことなど、もう、これからの人生では放り出してしまっていいのだ。

少なくとも「過去の、他人のひどい言動という“経験”」とは、縁を切っていっていいのだから。

ジョブズ氏がまさに、そうした姿勢を保っていることも、気づいてもらえたらと思う。

スティーブ・ジョブズ氏 2005年 ハーバード大学卒業式での演説

あなたは、どんなことが起こっても、あなたの気持ちを、大事にしてあげていい。

そのことにどうか、気づいていただけますように。

切り替えるための……

今日は、脱線的に時事ネタ(?)を。

私は石田衣良氏の小説「池袋ウエストゲートパーク」のシリーズを、文庫でずっと読んでいる。

小説なのでもちろん、誇張されたりしている面はあると思うけれど、

中国の「今」の話が、ある章で載ってて、考えさせられた。

日本へ集団で「研修」で来る人たちは、「仕事がない」と言っている日本の若者でさえ、

働きたくないと思うような地味でキツイ工場での仕事を、「研修」の名目でやっている。

その多くは農村部から選ばれた幸運な(もちろん、試験もパスした優秀な)農村部の若者たち。

でも、賃金の半分を中国側と日本側のブローカーが中抜きしている(この辺は誇張かな、

まあ半分じゃなくても、まとめ役・監視役の何らかの団体が、そういうことをしておかしくない気はする)、

それでもその半分の額、月に7~8万円×3年分でさえ、中国農村部での労働賃金の数十年分に値する。

そして。

これは事実だと思う、中国では戸籍制度によって「生まれた場所で居住地域が国に勝手に決められる」らしい。

今の中国の好景気は沿岸部のみの話であり、中国内陸部の農村部の人たちは、出稼ぎにすら来られない。

沿岸部では、住む場所も仕事も、与えられないのである。

しかも、教育・医療が無料であるという「共産主義」の理想は開放政策によって崩れ、

今は高い医療費を払わないと、病院に行けないらしい。

つまり、かの国の農村部の人たちは、みずからの国の策によって、

病院にすらなかなか行けない生き方を、生まれたときから定められてしまうのだ。

今、内陸部の都市にも外国資本は進出していて、日本も工場やスーパーなどを展開している。

これは「中国政府」との契約であるから、そこで起きる賃金格差のスト、暴動などの不満は、

実は外国資本に対してだけではなく、中国政府本体に向けての不満……でもあるのだろうと思う。

国内での移動居住を認めないのは、それこそ少数民族やモンゴル民族を土地に縛り付けるための

ルールとして決まったのだと思うけれど、あれほど沿岸部が好景気に沸き、中国政府が

国際社会で大きな顔をしているのは、いったい、何なのだろう……と思ってしまう。

生まれた瞬間から、そんな人生を定められる人に比べれば、日本国中、どこに住んでもよくて、

一応、義務教育も医療も最低限は保証されているっていうのは

確かに、ラッキーなんだよな、と。

そして、そういう自由があるのだから、確かにいろいろ、国としての失敗もあるけれど、

日本で生きていく限りは、犯罪レベルの話において銃もなく、命がそうそう、日常的には脅かされない。

まあ、仕事はバイトでも一応、見つけられる……というのは、実は気楽だな、と。

……それでね、ふと、思ったの。

「○○せねば」と焦る気持ち、なのにどうしようもできない、自分を責める気持ち。

そういうのって、少なくとも痛んでいる今は、

あんまりいっぱい、ぎゅうぎゅうには、要らないんじゃないだろうか。

恵まれていることに感謝し、自分自身を脱力させてみる……肩の力をぬいて、気楽になってみる。

それが許されているのだから、それを、楽しんでも、いいんじゃないだろうか。

そうしながら徐々に、立ち直っていく道を探す、そういうやり方だって、していいんじゃないだろうか。

……甘い、と言われればそれまでだけれど、自分をギリギリと追い詰めるのではなく、

生存条件レベルの話として、肩の力を抜いていい理由は、確かに、この国にはあるように思えるのだ。

どうだろうか。そういう視野の広げ方、頭の切り替え方、この国に生まれたゆるさを利用しながら、

自分をゆっくり、焦らず立て直していくってい言うやり方は、やっぱり甘い、のかな。

思い込み

「自分は○○な人間である」という決定を、いろいろな人が、いろいろな形でしている。

それは「自己像」なのだけれど、とくに否定的なものの場合、私には、

その自己像が「思い込み」であるように思えることも多い。

「~できない」という言葉を本人から聞いていても、実際には、とくに大きな問題やトラブルがなく、

「普通のレベル」の範囲内で、できているように思える。

それが「たまたま失敗したとき」に、その失敗したときだけのことを覚えていて、

記憶の中で積み重ねていて、「できない」と思い込んでいることはないだろうか。

100%、絶対に毎回! 上手くできないのと、しょっちゅう失敗するのとは、違う。

なかなか上手くいかないのも、そんなに上手にいかないのも、100%とは違う。

わりと失敗する、なんか下手、というのは、もっと違う。

でも、自分を卑下する人は「絶対ダメ」と言う。

……気持ちはわかるけれど、その否定が、本当にそこまでのものなのか、は、

一度、冷静に考えてみてもいいように思う。

これから先についても、悪い想像しかできないのは「症状」ゆえなのだから。

私には「生きている価値のない人間」なんて、本当に、世界中探したって、

そうそうめったにいるものではないと思えるし(器質的に殺人が好き、とかそういう人ね)、

そもそも「生きている価値」なんていう評価が、自分や他人に当てはめられるものなのかどうか、疑問だから。

ねえ、あなたの持っているその「自己像」は、どこまでが本当、なのだろうか?

そこまで思い込む必要が、本当に、あるのだろうか?

……決して責めているわけではなく、私は、自分に甘いときがあっても、別に、いいように思えるのだけれど。