今日は、脱線的に時事ネタ(?)を。
私は石田衣良氏の小説「池袋ウエストゲートパーク」のシリーズを、文庫でずっと読んでいる。
小説なのでもちろん、誇張されたりしている面はあると思うけれど、
中国の「今」の話が、ある章で載ってて、考えさせられた。
日本へ集団で「研修」で来る人たちは、「仕事がない」と言っている日本の若者でさえ、
働きたくないと思うような地味でキツイ工場での仕事を、「研修」の名目でやっている。
その多くは農村部から選ばれた幸運な(もちろん、試験もパスした優秀な)農村部の若者たち。
でも、賃金の半分を中国側と日本側のブローカーが中抜きしている(この辺は誇張かな、
まあ半分じゃなくても、まとめ役・監視役の何らかの団体が、そういうことをしておかしくない気はする)、
それでもその半分の額、月に7~8万円×3年分でさえ、中国農村部での労働賃金の数十年分に値する。
そして。
これは事実だと思う、中国では戸籍制度によって「生まれた場所で居住地域が国に勝手に決められる」らしい。
今の中国の好景気は沿岸部のみの話であり、中国内陸部の農村部の人たちは、出稼ぎにすら来られない。
沿岸部では、住む場所も仕事も、与えられないのである。
しかも、教育・医療が無料であるという「共産主義」の理想は開放政策によって崩れ、
今は高い医療費を払わないと、病院に行けないらしい。
つまり、かの国の農村部の人たちは、みずからの国の策によって、
病院にすらなかなか行けない生き方を、生まれたときから定められてしまうのだ。
今、内陸部の都市にも外国資本は進出していて、日本も工場やスーパーなどを展開している。
これは「中国政府」との契約であるから、そこで起きる賃金格差のスト、暴動などの不満は、
実は外国資本に対してだけではなく、中国政府本体に向けての不満……でもあるのだろうと思う。
国内での移動居住を認めないのは、それこそ少数民族やモンゴル民族を土地に縛り付けるための
ルールとして決まったのだと思うけれど、あれほど沿岸部が好景気に沸き、中国政府が
国際社会で大きな顔をしているのは、いったい、何なのだろう……と思ってしまう。
生まれた瞬間から、そんな人生を定められる人に比べれば、日本国中、どこに住んでもよくて、
一応、義務教育も医療も最低限は保証されているっていうのは
確かに、ラッキーなんだよな、と。
そして、そういう自由があるのだから、確かにいろいろ、国としての失敗もあるけれど、
日本で生きていく限りは、犯罪レベルの話において銃もなく、命がそうそう、日常的には脅かされない。
まあ、仕事はバイトでも一応、見つけられる……というのは、実は気楽だな、と。
……それでね、ふと、思ったの。
「○○せねば」と焦る気持ち、なのにどうしようもできない、自分を責める気持ち。
そういうのって、少なくとも痛んでいる今は、
あんまりいっぱい、ぎゅうぎゅうには、要らないんじゃないだろうか。
恵まれていることに感謝し、自分自身を脱力させてみる……肩の力をぬいて、気楽になってみる。
それが許されているのだから、それを、楽しんでも、いいんじゃないだろうか。
そうしながら徐々に、立ち直っていく道を探す、そういうやり方だって、していいんじゃないだろうか。
……甘い、と言われればそれまでだけれど、自分をギリギリと追い詰めるのではなく、
生存条件レベルの話として、肩の力を抜いていい理由は、確かに、この国にはあるように思えるのだ。
どうだろうか。そういう視野の広げ方、頭の切り替え方、この国に生まれたゆるさを利用しながら、
自分をゆっくり、焦らず立て直していくってい言うやり方は、やっぱり甘い、のかな。