木元見春 のすべての投稿

小さいけれど

小さい小さい 存在の 小さい小さい 自分だけれど

自分にとっては意外に自分は大切で 意外に扱いが難しい

一人ひとりの人間なんて 地球から見たら ちょこまか動いている存在でしかない

表面で 土地やお金の争いをずっとしてきて

いまはまた 上に高く高く昇ろうとしたり 地下に潜ろうとしたり 海を探ろうとしたり

皮一枚の上で なんだかはいずり回っているようなものだ

その地球だって 太陽から見れば小さな惑星で

太陽だって 銀河系の端っこの小さな星系で

そんな視点で見れば 確かに私たちは ものすごく小さい存在なのだ

なぜ生きているのか なぜ寿命があるのか なぜこういう「存在」になったのかは

誰にもわからなくて

ある人は「進化」だと言い ある人は「神のはからいだ」と言う

物理学や宇宙学の研究者でさえ 生命の誕生する条件があまりにも「整いすぎている」ために

「何かが そう仕組んだとしか思えない」ほどの 神秘性を感じるのだという

こだわらなくてもいい とあなたは言う

そんな小さな存在の 生が 死が なんだというのだ と

その答えはきっと 誰にも推測するしかできない

この先もずっと 誰も正解は出せない

でも だからこそ なぜか知らないけれど 「生きる」ことになっているであれば

それこそ そのままで いいのではないか と

いつか お迎えは来る

自分の身体に どんなにお金をつぎ込もうが 努力しようが それは来る

はなから そういう設定になっているのだったら

どうしてわざわざ そうしたちっぽけな存在が 脳みそだけで考え 悩み 苦しみ続けたうえに

さらに生きものにとって 一番苦しい行為のひとつである 自分を死に追い込む選択をせねばならないのか

それは やはり頭のなかだけの 思考 なのではないだろうか

もし いまの苦しみから 徐々に脱することができるなら

わざわざ 死は 選ばなくてもいいはずだ

そして本当に そこから 自分で徐々に脱することも できるのに

絶対できない と決めつけているのは 自分自身だ

小さな存在である 私たちが どんなにあがこうとも

いつか自然にお迎えがくるのであれば

徐々に脱する道を 自らが決意して 選んで

お迎えの来るその日まで 静かに小さく 充足して生きれば

本当は それが 自分にとって ラクで 楽しくて

結果的には 自然で ありのままの 選択になるのではないだろうか

いまもう すでに 生きているからこそ そんな無理をする必要は ないのではないだろうか

小さい小さい 私たちは その小さき存在のまま いますでに 生きているのだから

なぜわざわざ無理して 苦しんで こだわって

もっとも大切な自分を もっともいじめ抜く行為となる 死を選ぶのだろう?

その必要性は いったい どこにあるのだろう?

「見つめる」と「吐く」

鬱になると、どうしても、気持ちが落ち込み、頭の中でいろいろなことを「思考」してしまう。

これまでの経緯とそこに至った理由、今後の自分、生活のこと、お金のこと、仕事のこと……。

心理的にも物理的にも動けなくなったのだから、不安が出るのは当たり前だし、

暗い気持ちしか浮かんでこないなかで、いくらいろいろ先のことを考えても、いい答えは浮かばない。

しまいには、小さかったときのイヤな思い出まで自分のなかでつなげて、

人のせいにしたり自分のせいにしたりする。

そういった「暗い思考」を重ねることで、どんどん気分は落ち込み、つらくなっていくのだ。

このとき、私たちは「理性的に考えたイヤなこと」と、それによって感じる「重い気分」の両方を味わっている。

そうして、言葉で思い浮かべる思考のほうは、どんどん展開させてしまう。

ある意味、キリがなくなってしまうのだ。

でも、それを繰り返したところでよい解決策は見つからない。

そりゃそうである。風邪を引いて熱があるときに、わざわざ、このまま熱が続いたらどうしよう、

すぐに下がらないなんて私はダメだ、と言っているのと、同じだからである。

残念ながら、熱や怪我などのように、ただ寝ていれば治る種類の病ではないので、自分で徐々に

いろいろ変えていかなくてはいけないのだが、どうしたら、そこから抜け出せるか、

特に最初はわからない人が多いだろう。私もそうだった。

自分の考えや受け止め方、などについては、これまでにもいろいろ話しているので、

今日は単純に、とにかくつらい気持ちをやりすごすための切り替え方について、話してみようと思う。

治っていく過程で、どうしても「ぶり返し」のような感情の落ち込みの波が来るので、

その波の、ひとつの乗り切り方についてだ。

先ほど「イヤなこと」という思考と、「重い気分」という2つを味わっている、と書いた。

イヤなことを考えているとき、胸の奥のほうでは本当に「どよ~ん」としたモヤのような、

黒くて重たい塊を「抱えている」ような気がすると思う。

あるいは、胸が「締め付けられたり」、「苦しくなったり」。

これって単なる比喩表現ではなく、本当に「身体感覚」に近い形で、それを感じると思う。

そして、そういう「もの」を胸の辺りに感じるからこそ、それを利用するのである。

まず、その「どよ~んとしたもの」や「苦しさ」「鈍い痛さ」だけに意識を集中してみる。

すると、ますますはっきり、「胸の奥のほうのどこか」に、黒いものがあるように感じられる。

これらは「つらい」「悲しい」「苦しい」という気持ちのサインだ。

それを「感じ」ながら、自分に「つらいものをここに抱えてるね」「私、今、つらいね」「きついなあ」って、

心の中で話しかけるのである。その「黒いもの」を、外側から見つめるような感じ。

そして胸の奥に「そういう何かがある」ということを、わざわざ言葉にして、認識するような感じだ。

この黒くて重いものを感じるがゆえに、私はつらいと自分でわかるんだよな、と。

じっくり、その重たさ、暗さ、どよ~んとした感覚を味わう。

このとき、すでに泣ける人もいるだろう。

そうしてしばらくたったら、今度はそれを、吐き出してみるのだ。

これは本当に、文字通り行為として「吐き出す」。息で、言葉で、歌声で。

頭の中で、次のようなものを映像としてイメージしよう。

息を吸うとき、そのどよ~んとした黒いもの、雲か液体か、そういった類のものを、

一緒に一部、肺の中へ吸い上げる。

で、肺いっぱいまで吸い込んだら、その黒いものが混ざった息を、ゆっくり、丁寧にふ~っと吐くのだ。

少しずつしか吐き出せないので、吸ってはゆっくり吐く、吸ってはゆっくり吐く、を繰り返す。

イメージを思い浮かべ続け、徐々に、奥のほうの黒いもやもやが減っていくことを確認する。

そういうイメージを浮かべていれば、勝手に、黒いものが減っていくのも感じられるはず。

呼吸のリズムと映像イメージだけに集中して、これを何度も、繰り返そう。

あるいは、言葉にする。黒いものを、息のときと同じように肺、さらに口の中へ移動させて、

「今、私はつらさを吐く」と言う。言うときには声に、黒いものを混ぜて吐く。

言葉で「吐き出す」(と声に出して言い、また黒いもの一緒に息を吸う)

→「吐き出す」(息を吸う)→「吐き出す」(息を吸う)というふうに、

動詞だけを繰り返してもいい。

単純すぎて飽きてきたら、今度は、歌に乗せて、空へ返してしまおう。

上へ昇らせてしまうイメージを思い浮かべるのだ。

なるべく高めの声で歌える、音階の美しい歌を選ぶ。

余計な記憶を思い出さないように、因縁の曲ではなく、昔から好きな、キレイな歌がいい。

CDがあれば一緒にかけて、曲に合わせて歌う。

美しいメロディーと歌詞で、吐く息を歌声に変え、同じく黒い気持ちを乗せるのだ。

これも、声に混ざって「黒さ」が出ていく映像イメージを思い浮かべながらやるといい。

寝ている状態であってもなるべく姿勢をよくして、腹に力が入るようにし、

鼻と頭蓋骨の中を声が通って、上方向へ響かせるような。

それが頭のてっぺんから出ていく感じだ。

慣れてくると徐々に、胸の黒いものがダイレクトに、

声とともに「頭の中を昇って」上へ抜けていく感じを、

イメージで思い浮かべることができると思う。

恥ずかしいなら小さめの声でいいけれど、きちんと歌ってほしい。

上に昇らせるのだから、高い声で歌う曲のほうが、向いているのだ。

こうやって、動作として吐き出すと、どうなるか。

本当に、気持ちが少し、落ち着いて和らぐのである。少し気分が変わり、スッキリする。

グルグルしていた思考も、息や声、イメージなどに意識を集中させることで、止めることができる。

そのためにも、「胸の中にある」ことをしっかり感じ、味わって確認してから、吐き出してみてほしい。

実際にやってみると、意外に「気持ちよく」なれることが、わかってもらえると思う。

息や声には、実は、あなどれない力があるのだ。

死と向き合うことで

他人と自分の 自死という選択肢に まともに向き合ったことで

私が知ったこと 私が受け止められたこと

その 単純な羅列

死は すぐそばにある

怖い意味ではなく ただ いつかお迎えが来る

ならばその日まで 私は静かに生きよう なるべく悔いが残らないように 静かに

生まれた人は そうやって お迎えが来るその日まで 生きていていいのだ

死をあきらめ 生きていこうと思い直すことは 生き恥をさらすのではなく 勇気のある行為だ

自分がいかに 自分しか見えておらず 周囲に 世間に甘えていたかを 自覚する行為なのだ

鬱という病の恐ろしさは 死を見つめてしまうことであるが

鬱という病は 自分がそこから抜け出そうと本気で思えば 他の 死に近づく大病に比べ

治していける確率がかなり高くなる

自分さえ覚悟すれば 死からも 薬からも やがて離れられることも知った

生きていくということは 自分で自分を 少しでも幸せに近づける練習の場だ

大きな成功や「端からでもはっきりわかる」幸せは あるに越したことはないけれど

それがないと 自分が幸せになれないわけではなく

自分で 自分を 小さな幸せで囲んであげていいのだと

50点の仕事ぶりなら 50点取れたことを喜び

80点取れたなら そこまでできた自分をほめてあげていいのだ

残りの20点を悔やみ 反省し 落ち込む必要もないし

次は90点というハードルを 無理に課す必要もないのだと

さまざまな人が 悩み 苦しみ 自分と戦い ときに和解もしながら

それでも 自分らしい楽しさを見つけつつ 生きている

甘ちゃんだった私に比べれば ずっと一所懸命 ずっとがんばって 生きている

その力のすごさ たくましさ 素晴らしさは

私が 死をまともに考えたからこそ 知ることができたもの

あのとき死にたいと思ったことは 私にとって 決してムダではなかったのだ

今は いつお迎えが来てもいいように 丁寧に生きていこうと思えている

そう思えるようになった自分を よかったと感じられるし

そう思わせてくれた ありとあらゆるご縁 出来事に 心から感謝する

私は そして 人は誰でも 生きていて いいのだ

生きて 小さく または大きく 充足して

日々 自らを 静かに幸せにしてあげても 構わないのだ