木元見春 のすべての投稿

海に波があるように 人生にも波があり 感情にも波がある

波のない平坦な人生は 平穏かもしれないけれど 

なんの変化ももたらさず 何の進歩も起こらない

毎日が100% ほぼ完全に繰り返しで 

季節もきっちり毎年同じで 暑さも寒さも毎年 はかったように同じなら

蝉が鳴き始める日も あの花が咲く日も 咲く場所も 毎年いつも同じなら

心は動かず 意外なところに意外な花を見つける楽しみも なくなるだろう

毎年 違う 毎日 違う 毎時間 違う

そういう変化があるから ときに驚き ときに喜ぶことができる

であれば 悲しさも 苦しさも また 同じなのだ

海で起こる波が そのひとつ前の波とまったく同じようには現れず 一期一会なのと同様に

自分の人生の波も 感情の波も 本当は そのとき その年齢 その瞬間という 一期一会

でも私たちはどうしても 関連づけるのだ 「ああ 前にもあったな これ」と

関連づけるからこそ 発見があり 進歩も起こるが

関連づけるからこそ 「繰り返し」だと決め 自分の卑下にも また つなげていくのだ

一期一会の 出来事や感情は それが終われば 過ぎ去っていく

本当は 過ぎ去っていく

それを心のなかでとどめ つなげ

「連続」と認識することによって 何かを 勝手に想像し始めるのは 私たちなのだ

つらいときは つらいだろう

悲しいときは 悲しいだろう

鬱になれば そういう苦しさは 何度も やってくるだろう

だってそういう症状が出る 病なのだから

でも その波は 波であるからこそ やがて引いていく

本当は 時間が経てば 引いていく

それをとどめ 解釈し 苦しさを長引かせるのは あくまで自分の「頭の中」であることを

どうか 知ってほしいと思う

今は 苦しい自分がいるなあ 悲しい自分がいるなあ つらい自分がいるなあ

そうやって つなげもせず 理由付けもせず ただ 眺めることで

その波は また自然にひいていくものであることを

わかってもらえたら 私は うれしい

すべては自然の 摂理のひとつ なのだ

だから どうか あるがままに

その枠は、誰が決めたのか

落ち込んでいるときに、自分を叱咤激励することがある。

こんなのじゃ、ダメじゃない、私! と。

その叱咤激励の程度が「並み以下」であれば、日常で起こる出来事として対応できるが

鬱の症状などによって「激しくなった」場合は

「ダメじゃないか」「絶対にダメだ」「こんなのはイヤだ」「許せない」と、

自分で自分にムチ打つことになる。

そんな「弱い自分」という存在そのものが、許せなくなるのである。

それがまだ、単なる「プライド」的な話ですむのならましだ。

鬱の症状がなくなれば、自分をムチ打つことも減る。

が、しかし、往々にしてそういう人は、ふだんから、鬱じゃないときからすでに、

「こんな自分であってはダメ」という枠を持っていることも多いのである。

こんなのはダメ、人として、生き方として間違っている

→でも病ゆえに抜けられない

→なので、そんな弱い、あるいはもろい自分が許せない

→そこから抜け出せない自分がとにかくキライ、イヤ

という自己否定への道、になるのである。

鬱の真っ最中に、こうしたことを深く掘り下げるのは難しいだろうから、

今はひとつだけ、頭の片隅に置いてもらえればと思う。

「こんな自分は、人として間違っている」という観点は、

誰が、いつ、決めたのだろう? ということである。

いつか冷静になって、少し掘り下げることができるようになったら、そうしたきっかけも見つめられると思う。

それはまさに「生き方の価値観」なのである。だが、

親からの受け売りだったり、

あるいはその受け売りを自分がさらに「勝手に発展させた解釈」だったり

(私が、「がんばらないと人として間違ってる」と思い込んだのもこれである)、

友達との間で起こった経験から、自然に持った感覚であったりする。

こうした価値観が、よい方向へ作用している間はともかく、自己否定につながる方向へ使い始めると、

その「原点」に気づかない限り、「それ以外の別のよい価値観」をも、納得できなかったりするのだ。

今は苦しみの真っ最中だから、自力で原点を探すような無理もしなくてもいい。

でも、もしかして「他のよい価値観」も世の中にはあって、

今、自分は、あるひとつの価値観のみに“縛り付けられているのではないか”という可能性があることだけを、

知っておいたもらえたら、と思う。

本当は、あなたの生き方に「正しい」も「間違っている」もない。

いろいろな生き方の可能性が、人にはある。

もし万が一「間違っている」のだとしても、

これから先、訂正も挽回も、「自分で」できるのである。

だってあなたはまぎれもなく、ひとりの人間だから。

人は、そういう力を、もともと自分の中に、備えているのだから。

だから本当は、すべてを悲観しなくても、いいのだ。

「症状」とうまくつきあいながら、少しずつ変わっていくことはできる。

自分にとって生きやすい方向を、ゆっくり、探していこう。

こんなこと、くらい?

なにかにつけ、自分を非難する傾向にある人は

自分の悩みについて「こんなことくらいで悩むなんて、私は」と思うことがある。

それは、悩んでいる今の自分そのものを、卑下しているのと同じである。

悩みの種類や内容、その深さは、人によって受け止める感覚が違うし、

ある人にとってはすぐにクリアできる悩みでも

他の誰かにとっては、とても難しい問題だったりする。

それは、その人の個性や、何を得意とし、何を不得手とするかによって、当然、違うのだ。

ただ、どんな悩みであったにせよ

それを「こんなことくらいで悩むなんて」→「負けないぞ!」という闘志につなげていければいいのだけれど、

「こんなことくらいで」→「だから私はだめ、自分が嫌い」につなげてしまうと

その悩みが解決しない限り、無限に自分を嫌ってしまうことになる。

それがひどくなればなるほど、苦しさも増すのは、わかると思う。

自分の嫌な部分を「こんなことくらいで」「だから嫌い」と思い続けることは

何の解決ももたらさないし、実際、苦しさが深まっていくだけなのである。

そこをクリアするために、実際に何か行動する、という方法もあるけれど

たとえばこじれた人間関係など、なかなか行動に移せない場合もある。

であれば、まずはその「受け止め方」を変えてみるのはどうだろうか。

たとえば、人に嫌われることをひどく恐れている自分がいたとしたら、

「どうして私はここまで、人に嫌われるのが怖いのだろう」と考えてみる。

過去に、友達から嫌われたことなどが思い浮かんだりするだろう。

でも、その「過去」の経験がもし今、起こったら? あなたはもう少しうまく対処できたりしないだろうか?

今も、そんな場合には、昔ほどこじれたりするだろうか?

そうやって「すでに少しずつ、変化しつつある、あるいは直りつつある」自分に気づかず

ずっと、昔からの自己否定を持ち続けている可能性はないだろうか?

他人をどう捉えるか、は、年月を経ることによって変えられたりもするのだけれど

自己評価については、ずっと昔のままの「卑下」を引きずっていることも、意外に多いように思える。

あなたは、本当に今でも、「自分のここが嫌い」と思っている部分について、

まったく完璧に100%ダメ、だろうか?

相手や場面、状況が変わっても? 本当に全部、一切だめ?

そしてまた、「こんなことくらいで悩む自分」という、

その「こんなこと」という感覚は、誰が「程度基準」を決めたのか?

実は自分にとっては、結構、大切なテーマである可能性はないだろうか?

そんなふうに、客観的に、あるいは角度を変えて、自分の「卑下」の中身や程度、変化について

見直してみることは、「無限ループ」を抜け出すための、小さな第一歩になるかも、と思える。

少なくとも、誰に何を言われようと、自分にとって大切なテーマかもしれないのだから

とくに、長年悩んでいるのであれば、「こんなことくらい」という程度の設定は、しなくてもいいのだと。

もし可能であれば、ちょっとでも見つめなおしてもらえれば、幸いである。