その枠は、誰が決めたのか

落ち込んでいるときに、自分を叱咤激励することがある。

こんなのじゃ、ダメじゃない、私! と。

その叱咤激励の程度が「並み以下」であれば、日常で起こる出来事として対応できるが

鬱の症状などによって「激しくなった」場合は

「ダメじゃないか」「絶対にダメだ」「こんなのはイヤだ」「許せない」と、

自分で自分にムチ打つことになる。

そんな「弱い自分」という存在そのものが、許せなくなるのである。

それがまだ、単なる「プライド」的な話ですむのならましだ。

鬱の症状がなくなれば、自分をムチ打つことも減る。

が、しかし、往々にしてそういう人は、ふだんから、鬱じゃないときからすでに、

「こんな自分であってはダメ」という枠を持っていることも多いのである。

こんなのはダメ、人として、生き方として間違っている

→でも病ゆえに抜けられない

→なので、そんな弱い、あるいはもろい自分が許せない

→そこから抜け出せない自分がとにかくキライ、イヤ

という自己否定への道、になるのである。

鬱の真っ最中に、こうしたことを深く掘り下げるのは難しいだろうから、

今はひとつだけ、頭の片隅に置いてもらえればと思う。

「こんな自分は、人として間違っている」という観点は、

誰が、いつ、決めたのだろう? ということである。

いつか冷静になって、少し掘り下げることができるようになったら、そうしたきっかけも見つめられると思う。

それはまさに「生き方の価値観」なのである。だが、

親からの受け売りだったり、

あるいはその受け売りを自分がさらに「勝手に発展させた解釈」だったり

(私が、「がんばらないと人として間違ってる」と思い込んだのもこれである)、

友達との間で起こった経験から、自然に持った感覚であったりする。

こうした価値観が、よい方向へ作用している間はともかく、自己否定につながる方向へ使い始めると、

その「原点」に気づかない限り、「それ以外の別のよい価値観」をも、納得できなかったりするのだ。

今は苦しみの真っ最中だから、自力で原点を探すような無理もしなくてもいい。

でも、もしかして「他のよい価値観」も世の中にはあって、

今、自分は、あるひとつの価値観のみに“縛り付けられているのではないか”という可能性があることだけを、

知っておいたもらえたら、と思う。

本当は、あなたの生き方に「正しい」も「間違っている」もない。

いろいろな生き方の可能性が、人にはある。

もし万が一「間違っている」のだとしても、

これから先、訂正も挽回も、「自分で」できるのである。

だってあなたはまぎれもなく、ひとりの人間だから。

人は、そういう力を、もともと自分の中に、備えているのだから。

だから本当は、すべてを悲観しなくても、いいのだ。

「症状」とうまくつきあいながら、少しずつ変わっていくことはできる。

自分にとって生きやすい方向を、ゆっくり、探していこう。

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