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幸せって何だっけ?

かのポン酢しょうゆの有名な宣伝文句は、

とてもすごい質問を投げかけている。

あなたにとって、「幸せって何だっけ?」と。

健康?

では完治の難しい病を得たら、そこから先、

あなたの幸せは一生、なくなるのだろうか。

家族? 子ども?

では子どもがある日、髪を緑と赤に染め分け、ピエロの服装をして

「ニューヨークの街頭で絵を描きながら、パントマイムをする大道芸人になる」

と家を出て行ったら、あなたはそれを我がことのように喜び、幸せなままでいられるだろうか。

お金?

預けていた銀行が破産したら、あなたは不幸のどん底に落ちてしまわないだろうか。

家に置いていたら、どんなにセキュリティを高めても、

泥棒や火事や地震という恐怖を感じ続けはしないだろうか。

仕事?

失ったら、次が見つかるまで、幸せはお預けにならないだろうか。

じゃあ恋愛? 友情? 彼・彼女?

失ったらを仮定するまでもないだろう。

ここに挙げた例はすべて、あなたの「外側」にある。

健康ですら、100%コントロールできないのだから、

「外側」に当てはまる。

つまり「外側」に幸せを置いた瞬間、それを守り続けるために

あなたは必ず「~しなければいけない」ことになるのだ。

健康は、予防を。

他人は、自分の予測範囲内の行動で収まってくれるよう

叱ったり励ましたり、言うことを聞かなくちゃいけない。

お金は、銀行の情報収拾をしたり運用を管理したり。

仕事は、クビにならないよう、あるいはクライアントから縁を切られないよう

我慢したり、無理を聞いたり、なだめたり、交渉したり。

すべて、「ねばならない」のだ。

趣味であっても、時間や道具や場所の確保は必要だろう。

さて、ここで、視点を変えてみよう。

うれしい

楽しい

幸せ

これは、あなたのどこにあるのだろう。

感情なのだから、内側だよね。

つまり、それを感じるために、何らかの刺激が必要なわけだ。

その刺激は、常に一定である必要はない。

あなたがそれを感じられれば、ただ単純に、幸せでいられる。

そしてその感情自体はすべて、「~ねばならない」とは別に関係がない。

わかってもらえるだろうか。

つまり、あなたが幸せと思ってきたものは、

刺激を得るための「環境」であり、

それをキープしようとするためには「~ねばならない」のだ。

あなたは、幸せという感情を得るために刺激をくれる環境、

つまり刺激のもとを守る。

そのために、頑張るのだ。

ここまでは、特に異論もないだろうと思う。

ところがやっかいなことに、どうやら私たちは、

その環境の変化には、とても弱い。

先ほど書いた、もし失ったら、が起こったとき、

あるいはコントロールしきれない変化が起こったときには、

幸せそのものを失ったと感じ、どう立ち直ればいいか、わからなくなるのだ。

でも、刺激のもと、の種類は、本当に一種類しかないのだろうか?

必ず、同じパターンで、常にあなたの想定範囲内でないと、

刺激は起こらないのだろうか?

失ってから始まること、変化した先には、

あなたの刺激は、まったく何もないままで終わるのだろうか?

幸せと感じられる刺激をくれるものは、

不変でなくてはならず、

一定であらねばならず、

それゆえ失う可能性が出た瞬間から、

不幸のどん底に転がり落ちていかなければならないのだろうか?

少なくとも、上に挙げた一般的な例は、すべて、外にあるというのに。

幸せの刺激のもとは、決して、イコール、幸せそのもの、ではないのだ。

それを守る努力にはすばらしいものが含まれるが、だからといって

「~ねばならない」にとらわれすぎたら、逆に幸せの刺激自体は減る。

感覚的に、それはわかってもらえると思う。

さらに、朝、目覚めたら、天気がよくて、鳥がかわいい声で鳴いてて、

なんていう、オマケのようなうれしい刺激も、日々のなかには存在してくれている。

ないものを、失ったものを、幸せが消えた、のではなく、

刺激のもとの「変化」として、捉え直してみてほしい。

そのうえで、もう一度、自分に尋ねてみてほしいのだ。

「幸せって何だっけ?」と。

変化の先で生まれたもの、あるいは今、すでにある「刺激のもと」は、

きっと誰でも、ひとつやふたつ見つけられると、私には、思えるのだけれど。

そしてそれを見つけることは、手のなかに今、ない「刺激のもと」を嘆く気持ちより

ずっとずっと大切なことなんだと、私には、思えるのだ。

想定内、希望の環境がバッチリ、刺激がバッチリ、今、手元に揃わない限り、

あなたは一生「幸せ」じゃないのかな?

もっと言えば、刺激のもとは、外側にしか存在しないわけでもない。

細かく言っても、落ち込んでいる人には難しいかもしれないから省くけれど、

たとえば私はたまに、過去の恋愛や友情や仕事などの

楽しかった気持ちをふと、思い出す。そのとき「それを感じられたこと」も

サプライズ的に、刺激のもとになったりする。

あれが経験できたのはよかったな、

あれを経験できたから、今の自分がいるんだ……と思うことは

果たして「幸せ」からはほど遠いのかな?

一生、「不幸のまま」の人かな?

大人だから

自転車に 乗れるようになりたいな

乗れるようになったら あの銀ピカのヤツを買って

あの橋の向こうの町まで 行ってみるんだ

○○ができるようになりたいな

なったらうれしいな

なったらそれで どんなことしようかな

いろいろなこと できるようになりたかったこと できたこと 昔はいっぱいあったな

いつから それは 当たり前になったのかな

できる やった うれしい ではなく

できなくちゃ やらなくちゃ そうじゃないとダメだから って

できたら 自分に ホッとして

自転車に 乗れる うれしさ だって?

そんなもの 大人になったら 必要ないだろう 

そんなこと 大人が言ってたら 恥ずかしい

つまりは それって

大人には やらなくちゃいけないことも 果たさなくちゃいけない責任も いっぱい あるんだから

大人には そんな わくわくしてる余裕なんて ないんだから

ってことかな?

大人だから できて当たり前で

大人だから わくわくなんて ばかげたことは しちゃいけなくて

大人だから 立派に 社会の模範となるように あらゆることを できなくちゃいけないのかな

あらゆることが ホントは全部 立派に できなくちゃいけない のかな?

大人だからもう わくわくなんて これで満足なんて 思っちゃいけないのかな……。

自分がすでにもっている「当たり前」

先日、一緒にチームで仕事をしている若いバイトの女の子が、

自分の容姿に対する不満を教えてくれた。

私から見れば、いや、一般的に見ても、和風美人のとても可愛らしい子で、

現に「ランチで道を歩いているだけでナンパ」される(笑)くらいのレベルだ。

でも、彼女はその和風なところがいやだという。

なぜかを話していたら、結局はどうも、彼氏が洋風好みだそう(^^;)

それを叶えようと思ったら整形しかない、ということは本人もわかっていて、

せめて化粧だけでも、と、メイクをがんばるそうだ。

うーん。洋風になるほどの濃い化粧をしなくても、ホント十分、かわいいのになあ。

容姿だけでなく、気持ちもすごく優しくて、明るくてかわいいキャラだし、仕事もできるし、

いろいろな面で、相当レベルが高いのに……と思うけれど、

本人は「○○の部分はここがダメ、それから△△はここをもっと頑張らないと」という感覚。

基本的に、向上心が強いのだ。

壊れる前の自分も、「できていること」は「当たり前」だと思っていたから、

自分が「できていない」、あるいはまだ「達成していない」点しか、目を向けていなかった。

で、鬱になると、できていたこともできなくなって、余計に落ち込んで。

今だからこれを冷静に振り返られるけど、そこに気づくまでは時間がかかった……。

鬱だから、その症状が出ているから、できなくなってるだけのことも、

結局は、全否定の材料にしてたなあ、と思う。

自分にとっての当たり前は、当たり前じゃないこともある。

単純な例を挙げると、社会人としての意識だって、持ってない人は、ホント持ってない。

普通に寝坊して遅刻しても、反省しない人、いるもの。

前の日が会社の飲み会で遅かったから、と言い放った人もいたけど、それは別に仕事じゃないし、

つきあいはつきあいとして参加して、それなりに早く帰った人もいますけど? ってツッコミを入れたくなる。

さすがにその言い訳はおかしい、と思うでしょう?

でも、本人にとってはおかしくないの。

2次会、3次会にちゃんとつきあった自分はエライと思ってるから。

何を優先させるか、何を大事に思うか、っていうのは、確かに人によって千差万別だし、

常識、っていう範疇も、生きている社会によって違うけれど、

少なくとも、自分はこういうのを「保てているなあ」とか

「ここは別に、苦もなくできているんだなあ」ということを、

本当は、もっと意識するべきなのかもしれない。

先の話の彼女のように、和風の良さを消して無理矢理、洋風にすることを

強制されるような状況だってあるかもしれない。

でも、自分の和風の良さは、別に「否定」することではないのだ。

常に常に、できてないこと、足りていないことだけに目を向けるのは、

テストで90点とって、母親から「なんでこの残りの10点を間違えたの!」と怒られる日々を送ってるようなもの。

鬱だから、本当に「そういう症状だからこそ、なおさら否定する」状態になっていることを、

もっと意識してほしい。

否定する、その「反対側」の部分には、「今の自分であっても、できていること」がちゃんとあるんだよ、と。

そしてその「できていること」は、実は、他の人から見れば「すごいなあ」ってことも、

たぶんいっぱいあるんだよ、と。

どうせなら、90点を取ったことをまず「ようし!」って喜んで、次に100点を目指してみて、

85点でも「あ、ちょっと失敗、でも85点はキープできた」って喜んで、

95点になったら「ようし! やった!」って喜んで、

ついに100点が取れた日には「やったあ~!!」って思えるほうが、

一粒でなんどもおいしいし(笑)、努力する過程そのものも、ずっと楽しめるんじゃないだろうか。

もし、動けなくなった今の自分が「20点」なら、5点ずつチャレンジしていくことで、何回楽しめることになるだろう。

可能であれば一度、友達など周囲の人に「今の自分ができている点」について、

尋ねてみるのもいいかもしれない。

そんなふうに見ていたのか、そう感じてくれていたのか、と、思える新発見が、

ひとつくらいは見つかると思う。

しかも「それって当たり前じゃないの?」と、思わず聞き返したくなるような点が。

そう、本当に、自分にとって意外な部分でも、当たり前は、当たり前じゃないのだ。

どうか、否定しか見えないその「罠」から、少しずつでも抜け出すことができますように。