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たとえどんなにあなたが否定しても

今日はイレギュラー的に朝の更新。書きたくなったので、書きます。

あなたは、自分がダメだという。

何かが起こったからかもしれない。

そんなものはなく、不安に包まれたからかもしれない。

でも、私は何度でも言う。

「あなたは、だいじょうぶですよ」と。

数回言われたくらいじゃ信じられない、と言うなら、100回でも、1000回でも言う。

100万回言われないと信じられない、と言うのであれば、1日100回ずつ、あなたに伝えていくだろう。

毎日それを続けて、ざっと27年半くらいかかると思うけれど、伝える覚悟はある。

なぜそこまで言い切れるか? 私は、意志の力を信じているからだ。

私が鬱の状態から脱していくためにいろいろな本を読み漁っていたとき、ある医師のエピソードがあった。

その医師がいる病院に、毎年、健康診断に来る年配の女性がいた。

彼女は消化器官の調子が悪く、ずっとガンを疑っていた。

検査をしてみても、調子が悪いだけであり、ガンの兆候は見られなかった。

そこで毎年、彼女にガンはみつからないと伝えていたが、彼女はその結果を信じなかった。

15年後。彼女の健診で、初めて、消化器官のガンの疑いが見つかった。

そのときに彼女はこう言ったそうだ。

「ほら、私の言ったとおりだったじゃない!」

さて、この場合。

15年間ずっと疑い続け、自分はガンに違いないと思い続けてきたことは、

彼女の身体に、影響を与えなかっただろうか?

本当に15年間、検査の仕方が悪かったのだろうか?

少なくとも言えるのは、彼女が単に、検査の結果を信じなかったのではない、ということ。

もっと積極的に「自分がガンであること」を、15年、もしくはそれ以上、信じたのだ。

私がこのエピソードを覚えているのは、彼女が長年、そうした“努力"を続けた結果、

ガンが生まれた可能性を否定できない、と思えるからだ。

何か、自分が上手く行動できなかったがために、つらい出来事があなたに起こったとき。

あなたは、自分のことを「ダメ」だと思うだろう。

それは別に、珍しいことではない。他人に責任を転嫁するタイプの人でない限り、誰でも思うことだ。

あなただけが特殊なわけではない。

にも関わらず、あなたはこの先の将来すべてを、否定する。

そこには、何の根拠もない。まだ何も起こっておらず、何も失敗していないのだ。

であれば。

あなたが、自分を否定する、これから先ももう私はダメなんだと思う、その感覚とまったく同じ意味合いで、

私は、あなたに「だいじょうぶ」と言うことができる。言い続けることができる。

あなたが過去の失敗にのみ根拠を置いて、あるいは根拠なく自分を否定できるのであれば、

私は未来の可能性に根拠を置いて、あるいは根拠なく、あなたを肯定できる。

過去は変えられないけれど、未来は変えられるから。

あなたが自分を意味なくダメだと思う状態と

私があなたを意味なくだいじょうぶだという状態に、

どんな違いがあるというの?

自分をそこまでずっと、否定し続けられるだけの「力」が、あなたにはすでにある。

であればまったく同様に、自分をずっと「だいじょうぶ」と思ってあげられるだけの「力」も、

すでにあなたには備わっているということだ。

あなたが、気づいていないだけで。あるいはそれを、見ようとしないだけで。

つまり、たとえどんなにあなたが自分を否定し続けても、

私はあなたが否定すればするほど、確信を持てるようになるのだ。

あなたには、そういう力がすでに備わっていることを。

それを実際にもう、今、発揮しているのだということを、目の前で確認できることになる。

ダメだと信じたからこそ、あなたは弱った。現状もそのように変化した。

であれば、だいじょうぶと信じていけば、変えられるのだ。鬱だけではなく、その現状をも。

だから言う。何があっても、何が起こっても、これから先も、あなたは、だいじょうぶ、なんだよ。

信じられなければ

自分で、自分のことを信じられないときは苦しい。

誰かに、「あなたはだいじょうぶだよ」って代わりに言ってもらいたい。

言ってもらえたら、そうかな、と思えるかもしれないのに。

でも、本当は、誰かの言葉で完全にそう思うことは無理。

自分が信頼できる人から、どんなに真摯に「だいじょうぶ」って言ってもらっても、

心のどこかに、どうしても「本当かな……」という思いが残る。

だって、自分はまだ、自分のことを、信じられていないのだもの。

この苦境の中から、私はきっといつか、抜け出すことができるって、

自分自身が、信じることができずにいるのだ。

周囲に、自分の苦しみをも、わかってほしい。

自分のことを、信じてほしい。

つらいときにそう思うのは当たり前の話で、それはあなたが弱いからではない。

人は誰だって、苦しいときに助けを求める。

そしてそれは、別に間違いでもないのだ。

ただ、どんなに言葉を尽くして、あなたの良さを語ってもらっても、

たとえ「そういうあなたを愛している」とさえ、言ってもらっても。

自分の今の苦しみは、減ることはあっても、消えないのだ。

シンデレラのように「幸せに暮らしましたとさ」とはいかない。

そもそもシンデレラだって、ガラスの靴が自分のものと知れ、

夢心地で城に迎えられた、その後では苦労はしたと思うよ。

教養もマナーも全部、一から学ばなくちゃいけないし、

相手は本物の王子様で、当たり前のようにそういう世界で育ってきた人で。

身分差、どころの話じゃないよね。

愛があれば「それでも幸せ」って思えるけれど、それって決して「夢心地」な生活ではない。

そう、たとえ願いが叶っても、それもまた経験であり、通過点でしかないのだ。

最後には、自分が自分を救う。そのことは、どうか、わかって欲しい。

周囲の助けも、いっぱいいっぱい、借りていいと思う。

優しくしてもらったり、心の解きほぐし方を教えてもらったり、実際に手助けしてもらったり、

いろいろな方法で、煮詰まっている今の状態を変えてもらう助けは、借りていいと思う。

でも、本当の意味で、自分を救うのは、自分自身。

自分で自分を、信じてあげることが、一番、心や身体には効く。

完全に100%信じられるまでには時間がかかるかもしれないけれど、

自分で「だいじょうぶだよ、私。がんばっていこうね」って思えることが、一番いいのだ。

理想の自分でなければ、自分ではない。

何かが欠けている今の自分はダメで、本当はこうあるべき。

そんなふうに自分のことを決めつけて捉えていたら、

いつまで経っても、自分を信じてあげることなんてできないだろう。

親は、子の成長を見守るものだ。

小さな子どもが今、上手にできなかったからといって、

この子は一生、もうダメだ、生きている価値がない、と、決めつけるだろうか?

あなたは、いったん痛んで「ダメになった」と思える自分を、育てていく親でもある。

時間がかかったとしても、自身の、この先の可能性を信じてあげて、温かく見守ってあげるのだ。

そうすることでやっと、これまでの生き方から学びを得て新しく生まれ変わろうとする自分が、

勇気を持って、新たに変わっていく方向へとチャレンジできるのだ。

すぐには上手くいかなかろうが、何だろうが、あなたは、変わりたいはずだ。

こんな自分のままで、一生いたくはないはずだ。

であれば、自分を卑下し続け、否定し続け、ダメだと決めつける今の気持ちのサイクルを、

どこかで止めなくちゃいけない。

今、弱いままの自分が、ここにいる、と。

これからこの、小さな小さな弱い自分が、新しい方向へ育っていこうとしている、と。

そのことを、自分の未来を、可能性を、自分自身が信じられなければ、

他の誰に信じてもらったとしても、あまり意味はない。

信じてくれた相手に向かっていつか、「だって私は」と、自己卑下することになってしまうだろう。

そこから、今の状況から、抜け出したいと思うからこそ。

小さな弱い自分を、「今までも頑張ってきたよね、うん。よし、これからも

一緒にやっていこうね」って、見守ってあげる必要があるのだ。

挫折しようが、失敗しようが、それこそ「いつでも 何度でも」、認めてあげるのだ。

自分が自分を信じてあげること。それは実は、誰にでもできる。

弱い自分が今、いるんだな、って本気で思えれば、その弱い存在を許してあげればいい。

変化の過程で弱くなってしまうことは、十分、あり得る話じゃないか。

どんな自分でも、自分で好きになってあげて、いいんだよ。

その弱い自分を信じてあげることは、本当は、誰にでもできるのだ。

自分が嫌いなとき

今の自分がイヤでイヤで仕方がない。

これはたいてい、昨日書いたように「状況が思い描いたとおりになっていない」ときにそうなる。

自分自身のこと、人との関係、仕事の出来具合など、その原因はさまざまだけれど、

本当は、それは「全否定」するようなことではないのだ。冷静に考えればね。

人は年齢を重ねるにつれ、さまざまな経験をしていくことになる。

それは社会的な立場が変化していく以上、当たり前のことだ。

自分の活動範囲が広まり、親の庇護から離れ、自分なりの生活を組み立てていく。

徐々に、自分自身の世界ができていって、人間関係も変わっていく。

そのなかで、つらい目にも、いい目にも遭う。

どちらも、自分に影響を与えて、新しい変化のきっかけになっていくが、

つらいことの場合は「その後、どうすればいいのか」を多かれ少なかれ、悩むことになる。

この回数が増えれば、自分がダメなんじゃないか、とか、何か間違ってるんじゃないかと、思いたくもなる。

そして、鬱になるような出来事が重なると、「つらい目」のほうが自分の中でグンとクローズアップされて、

しかも「変えられない」ものに感じる。そう、自分自身で固定化してしまうのだ。

そういう病なのだ。それって本当に、症状でしかないのだけれど、

「いやな感情」をわざわざ頭で捉えなおし、いろいろ考えるから、混乱して暗くなる。

しかもすぐには状況を変えられないことも多いし、何より行動できないから、さらに自分の否定を上塗りしていく。

最終的には「真っ黒な自分」の出来上がり、だ。

世の中のすべてが自分より優れていて、自分はダメで、自分だけがうまくいかない。

それは、実はものすごく視野が狭くなっている状態で、自分のすべてではないのに。

でも、自分では、「どうしたらいいかわからない」と“思い込んで”いるから、変えられない。

「私はどうしたらいいかわからない馬鹿ものなんだ」と、目線を固定しちゃうのである。

自分の、どこがそんなに嫌いなの?

どういう経験から、自分の「性格」をそうだと決めつけたの?

対人関係なら、前から言っているように「相手の機嫌・状態」もあるから、

全部が全部、あなたの責任じゃないことだってあるよね?

ただ「嫌い」っていう感情だけを固定していても、状況は絶対に良くならない。

自分を否定し続けても、何も変わらないのだ。嫌なことだけをクローズアップし続ければ、

毎日の出来事のなかで、自分にとって嫌なことが増えていくだけだ。

自分自身がわざわざそこしか、見ないのだから。

あなたの「ふるまい」が良くなかった?

あなたの「考え方」が良くなかった?

それとも「タイミング」が良くなかった?

相手の「機嫌」が良くなかった?

身体を壊したのなら、何か、そういうものをもたらすきっかけとなる「行動」をし続けた?

肝臓が悪いのに、お酒を飲み続けた、とかさ。

もし、そのように何か、思いあたるフシがあったとしても。

じゃあなぜ、あなたはそういう「ふるまい」や「考え方」をしたのだろう。

なぜ、相手の状況を見図れなかったのだろう。

見計らったところで、あなたが「折れ続ける」、自分の意志を曲げ続けることは正しかったのだろうか。

なぜ、悪いとわかっている「行動」を自分で止められなかったのだろう。

そこから見えてくるのは、自分の弱さ、かな?

あるいは自分の情けなさ、かな?

意志が強い人なら、そんなことは絶対にしなかった、とか?

みんながみんな、そんな完璧で素晴らしい判断と対処を、あらゆる場合にできるのかな?

ただ漠然と「ダメ」と思って、自分の全部を真っ黒な否定に持ち込むくらいなら、

少し、そういう「第三者的な視点」で、自分の経験を見つめなおしてみたらどうだろう。

もし、いつもいつも「言えない」自分が悪いとしたら。

「言えない自分」の原因は、どこにあるのだろう。

自信がないから?

じゃあ、自信がなくなったのは、いつから?

何を経験したから、自信がなくなったの?

今、あらためて考えてみたときに、その「自信のなさ」は、固定であって、絶対に変えられないものなの?

漠然とした「嫌い」のなかには、そういうふうに、いろいろな要素が含まれている。

たいていは過去に起こった出来事、それによってあなたが「受け止めた何か」が関わっている。

たとえば、子どもの頃の、友達からの意地悪は、今の自分でも対処できないのかな?

今でも何も、言い返せないのかな? まったく同じ状況に追い込まれるのかな?

そうやって解きほぐしていったとき、それが確かに、あなたの「理想とする」自分でないこともある。

じゃあ、もっと考えてみよう。理想の自分って何?

何と比較して、今の自分を卑下してる?

自分の「受け止め方」の偏り、あるいは「クセ」などのパターン、傾向、方向性。

そういったものが見つかる場合もあるし、ある種の出来事を「根強く」傷として抱えている場合もある。

思い出すのさえ嫌なことは、そうやって自力で解きほぐすのが難しいことだってある。

でも、少なくとも、こうしたことを紙に書くなどして、きちんと自分のなかで整理していった場合に、

ひとつだけ、気づけることがある。

その経験で得た感情や感覚は、あなたの「全部」ではない、ってこと。

漠然とした自己否定は、自分のある一面でしかなくて、

その他にも、親切な自分や明るい自分は必ず、「別に」存在しているってこと。

少なくとも、楽しかった経験もあったということは、思い出せるだろう。

たとえば恋愛をして、結果としてその人とは離れることになったから、ひどい?

楽しかった経験は、その人と一緒にいたからできたこと。

その経験ができたこと自体は、何ら「ひどい」ことではない。良かったね、いい経験したね、ってことだ。

その経験に「その先の結果」は、別に関わっていない。全否定することではない。

スポーツをして、それで怪我をした。じゃあ、そのスポーツをしたこと自体全部が、間違いでひどかったのか?