自分で、自分のことを信じられないときは苦しい。
誰かに、「あなたはだいじょうぶだよ」って代わりに言ってもらいたい。
言ってもらえたら、そうかな、と思えるかもしれないのに。
でも、本当は、誰かの言葉で完全にそう思うことは無理。
自分が信頼できる人から、どんなに真摯に「だいじょうぶ」って言ってもらっても、
心のどこかに、どうしても「本当かな……」という思いが残る。
だって、自分はまだ、自分のことを、信じられていないのだもの。
この苦境の中から、私はきっといつか、抜け出すことができるって、
自分自身が、信じることができずにいるのだ。
周囲に、自分の苦しみをも、わかってほしい。
自分のことを、信じてほしい。
つらいときにそう思うのは当たり前の話で、それはあなたが弱いからではない。
人は誰だって、苦しいときに助けを求める。
そしてそれは、別に間違いでもないのだ。
ただ、どんなに言葉を尽くして、あなたの良さを語ってもらっても、
たとえ「そういうあなたを愛している」とさえ、言ってもらっても。
自分の今の苦しみは、減ることはあっても、消えないのだ。
シンデレラのように「幸せに暮らしましたとさ」とはいかない。
そもそもシンデレラだって、ガラスの靴が自分のものと知れ、
夢心地で城に迎えられた、その後では苦労はしたと思うよ。
教養もマナーも全部、一から学ばなくちゃいけないし、
相手は本物の王子様で、当たり前のようにそういう世界で育ってきた人で。
身分差、どころの話じゃないよね。
愛があれば「それでも幸せ」って思えるけれど、それって決して「夢心地」な生活ではない。
そう、たとえ願いが叶っても、それもまた経験であり、通過点でしかないのだ。
最後には、自分が自分を救う。そのことは、どうか、わかって欲しい。
周囲の助けも、いっぱいいっぱい、借りていいと思う。
優しくしてもらったり、心の解きほぐし方を教えてもらったり、実際に手助けしてもらったり、
いろいろな方法で、煮詰まっている今の状態を変えてもらう助けは、借りていいと思う。
でも、本当の意味で、自分を救うのは、自分自身。
自分で自分を、信じてあげることが、一番、心や身体には効く。
完全に100%信じられるまでには時間がかかるかもしれないけれど、
自分で「だいじょうぶだよ、私。がんばっていこうね」って思えることが、一番いいのだ。
理想の自分でなければ、自分ではない。
何かが欠けている今の自分はダメで、本当はこうあるべき。
そんなふうに自分のことを決めつけて捉えていたら、
いつまで経っても、自分を信じてあげることなんてできないだろう。
親は、子の成長を見守るものだ。
小さな子どもが今、上手にできなかったからといって、
この子は一生、もうダメだ、生きている価値がない、と、決めつけるだろうか?
あなたは、いったん痛んで「ダメになった」と思える自分を、育てていく親でもある。
時間がかかったとしても、自身の、この先の可能性を信じてあげて、温かく見守ってあげるのだ。
そうすることでやっと、これまでの生き方から学びを得て新しく生まれ変わろうとする自分が、
勇気を持って、新たに変わっていく方向へとチャレンジできるのだ。
すぐには上手くいかなかろうが、何だろうが、あなたは、変わりたいはずだ。
こんな自分のままで、一生いたくはないはずだ。
であれば、自分を卑下し続け、否定し続け、ダメだと決めつける今の気持ちのサイクルを、
どこかで止めなくちゃいけない。
今、弱いままの自分が、ここにいる、と。
これからこの、小さな小さな弱い自分が、新しい方向へ育っていこうとしている、と。
そのことを、自分の未来を、可能性を、自分自身が信じられなければ、
他の誰に信じてもらったとしても、あまり意味はない。
信じてくれた相手に向かっていつか、「だって私は」と、自己卑下することになってしまうだろう。
そこから、今の状況から、抜け出したいと思うからこそ。
小さな弱い自分を、「今までも頑張ってきたよね、うん。よし、これからも
一緒にやっていこうね」って、見守ってあげる必要があるのだ。
挫折しようが、失敗しようが、それこそ「いつでも 何度でも」、認めてあげるのだ。
自分が自分を信じてあげること。それは実は、誰にでもできる。
弱い自分が今、いるんだな、って本気で思えれば、その弱い存在を許してあげればいい。
変化の過程で弱くなってしまうことは、十分、あり得る話じゃないか。
どんな自分でも、自分で好きになってあげて、いいんだよ。
その弱い自分を信じてあげることは、本当は、誰にでもできるのだ。