自分が嫌いなとき

今の自分がイヤでイヤで仕方がない。

これはたいてい、昨日書いたように「状況が思い描いたとおりになっていない」ときにそうなる。

自分自身のこと、人との関係、仕事の出来具合など、その原因はさまざまだけれど、

本当は、それは「全否定」するようなことではないのだ。冷静に考えればね。

人は年齢を重ねるにつれ、さまざまな経験をしていくことになる。

それは社会的な立場が変化していく以上、当たり前のことだ。

自分の活動範囲が広まり、親の庇護から離れ、自分なりの生活を組み立てていく。

徐々に、自分自身の世界ができていって、人間関係も変わっていく。

そのなかで、つらい目にも、いい目にも遭う。

どちらも、自分に影響を与えて、新しい変化のきっかけになっていくが、

つらいことの場合は「その後、どうすればいいのか」を多かれ少なかれ、悩むことになる。

この回数が増えれば、自分がダメなんじゃないか、とか、何か間違ってるんじゃないかと、思いたくもなる。

そして、鬱になるような出来事が重なると、「つらい目」のほうが自分の中でグンとクローズアップされて、

しかも「変えられない」ものに感じる。そう、自分自身で固定化してしまうのだ。

そういう病なのだ。それって本当に、症状でしかないのだけれど、

「いやな感情」をわざわざ頭で捉えなおし、いろいろ考えるから、混乱して暗くなる。

しかもすぐには状況を変えられないことも多いし、何より行動できないから、さらに自分の否定を上塗りしていく。

最終的には「真っ黒な自分」の出来上がり、だ。

世の中のすべてが自分より優れていて、自分はダメで、自分だけがうまくいかない。

それは、実はものすごく視野が狭くなっている状態で、自分のすべてではないのに。

でも、自分では、「どうしたらいいかわからない」と“思い込んで”いるから、変えられない。

「私はどうしたらいいかわからない馬鹿ものなんだ」と、目線を固定しちゃうのである。

自分の、どこがそんなに嫌いなの?

どういう経験から、自分の「性格」をそうだと決めつけたの?

対人関係なら、前から言っているように「相手の機嫌・状態」もあるから、

全部が全部、あなたの責任じゃないことだってあるよね?

ただ「嫌い」っていう感情だけを固定していても、状況は絶対に良くならない。

自分を否定し続けても、何も変わらないのだ。嫌なことだけをクローズアップし続ければ、

毎日の出来事のなかで、自分にとって嫌なことが増えていくだけだ。

自分自身がわざわざそこしか、見ないのだから。

あなたの「ふるまい」が良くなかった?

あなたの「考え方」が良くなかった?

それとも「タイミング」が良くなかった?

相手の「機嫌」が良くなかった?

身体を壊したのなら、何か、そういうものをもたらすきっかけとなる「行動」をし続けた?

肝臓が悪いのに、お酒を飲み続けた、とかさ。

もし、そのように何か、思いあたるフシがあったとしても。

じゃあなぜ、あなたはそういう「ふるまい」や「考え方」をしたのだろう。

なぜ、相手の状況を見図れなかったのだろう。

見計らったところで、あなたが「折れ続ける」、自分の意志を曲げ続けることは正しかったのだろうか。

なぜ、悪いとわかっている「行動」を自分で止められなかったのだろう。

そこから見えてくるのは、自分の弱さ、かな?

あるいは自分の情けなさ、かな?

意志が強い人なら、そんなことは絶対にしなかった、とか?

みんながみんな、そんな完璧で素晴らしい判断と対処を、あらゆる場合にできるのかな?

ただ漠然と「ダメ」と思って、自分の全部を真っ黒な否定に持ち込むくらいなら、

少し、そういう「第三者的な視点」で、自分の経験を見つめなおしてみたらどうだろう。

もし、いつもいつも「言えない」自分が悪いとしたら。

「言えない自分」の原因は、どこにあるのだろう。

自信がないから?

じゃあ、自信がなくなったのは、いつから?

何を経験したから、自信がなくなったの?

今、あらためて考えてみたときに、その「自信のなさ」は、固定であって、絶対に変えられないものなの?

漠然とした「嫌い」のなかには、そういうふうに、いろいろな要素が含まれている。

たいていは過去に起こった出来事、それによってあなたが「受け止めた何か」が関わっている。

たとえば、子どもの頃の、友達からの意地悪は、今の自分でも対処できないのかな?

今でも何も、言い返せないのかな? まったく同じ状況に追い込まれるのかな?

そうやって解きほぐしていったとき、それが確かに、あなたの「理想とする」自分でないこともある。

じゃあ、もっと考えてみよう。理想の自分って何?

何と比較して、今の自分を卑下してる?

自分の「受け止め方」の偏り、あるいは「クセ」などのパターン、傾向、方向性。

そういったものが見つかる場合もあるし、ある種の出来事を「根強く」傷として抱えている場合もある。

思い出すのさえ嫌なことは、そうやって自力で解きほぐすのが難しいことだってある。

でも、少なくとも、こうしたことを紙に書くなどして、きちんと自分のなかで整理していった場合に、

ひとつだけ、気づけることがある。

その経験で得た感情や感覚は、あなたの「全部」ではない、ってこと。

漠然とした自己否定は、自分のある一面でしかなくて、

その他にも、親切な自分や明るい自分は必ず、「別に」存在しているってこと。

少なくとも、楽しかった経験もあったということは、思い出せるだろう。

たとえば恋愛をして、結果としてその人とは離れることになったから、ひどい?

楽しかった経験は、その人と一緒にいたからできたこと。

その経験ができたこと自体は、何ら「ひどい」ことではない。良かったね、いい経験したね、ってことだ。

その経験に「その先の結果」は、別に関わっていない。全否定することではない。

スポーツをして、それで怪我をした。じゃあ、そのスポーツをしたこと自体全部が、間違いでひどかったのか?

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