木元見春 のすべての投稿

心や身体がいうことを聞かない

頭のなかで考えたことに対して、実際の行動が伴わない。

鬱のときには、本当によくあることだ。

それで、イライラして、あとになって落ち込んで。

そういう「動けない」こと、「思い通りにいかないこと」も、病気ゆえの症状で、

風邪を引いて熱があるときと同じようなものなのだけれど、

そこまで身体はつらくないから、自覚できなくて、やっかいなんだよね……。

そもそも私たちは、身体のことを「部品」だと考えるところがあって、

まあ、それは西洋医学の発達によるものなんだけれど、

ふだんは、身体と心の連動なんて、あまり気にしていない。

第一、頭でわざわざ「右手よ、あそこにあるモノを取れ」とか、

「両目よ、部屋の中を見渡せ」などと、言葉で命令しなくても、

勝手に、自然に連動して、思うままに使うことができる。

怪我をしたときに初めて、自由に動かせないことを感じるくらいだ。

が、しかし。

心が痛むと、身体にはしっかりと影響が出る。

やる気が出ない、だるい、疲れる、など。

これも、普通のときにはまあ「当たり前」で、「あ~もう、いいや」なんて思っておしまいなのだが、

その感覚が大きいのが、鬱という病の症状なのだと、私には思えている。

なにかにつけて「おっくう」だと感じると、実際にはっきり、動きも鈍る。

そういう症状なのだと。

でもそんなこと、今まで経験したことがないから、頭脳、思考では違和感を感じる。

も~、ダメじゃないか! とか、自分のことを叱咤激励したくなる。

それもまた、今度は「焦り」という別の感情を産んでしまい、嫌気がさす。

そう、感情……心と身体はかなり連動していて、「頭で考えたこと」とは違う仕組みで動いているのだ。

ビックリして心臓がどきどきするのも、自分が考えて命令したことではないように。

ふだんは頭、思考が優勢だから、気づかないだけのことだ。

そういう自分の「仕組み」を、もっと知ってあげてもいいんじゃないかと思う。

いつもいつも「思考」を優先していると、

きちんと立派につとめを果たさなきゃ、と無理したりとか、

ダメな自分を卑下してしまうとか、

そんなことを延々、繰り返してしまう。

そういうことばかり、毎日、ことあるごとに繰り返して考えると、気持ちは、萎えるよね。

つまり感情には、いい影響を与えない。心が、思うようには動かせない。

となると、結局、身体も言うことを聞かなくなっていくのだ。

難しいこと、言ってるかな?

自分を責め続ける人は、自分を「思考」で制御しようとしている。

でも、思考と感情が別ものであり、感情と身体が大きく連動しているなら、

思考でいくら自分をコントロールしようと思ったって、無理があるのだ。

「あ~、イヤだ」と思ったら、その感情は即、身体に影響するってこと。

不眠傾向になるのも、どこか、一部にはそういう影響があるんじゃないかと思う。

不安が「危機的な感じ」と身体に判断されるがために、眠りが浅くなるとか、ね。

……だからさ。いいことないでしょ、頭で自分を無理させて、何とかしようとしてみても。

鬱という病は自分を責めるという症状があるのだから、

そうした頭からの「命令」を少しでも休めていかない限り、

結局いつまでたっても、心は、明るくならないんだよ。

これって思い切り、自分の実感からの話なんだけど、そう思えるのだ。

だから、心地いいことをして、罪悪感を感じたら「だって病気だし」と割り切って

考えないようにしてほしい、と思えるのだ。

確かに、難しいけれど。難しくても、その病、治したいんだったら……さ。

そこに意味はある

今日は抽象的な書き方になると思いますが、お許しください。

今、自分の身のうえを通り過ぎている経験。

どうしてこんな目に、と思える経験。

死をもってでも、変えたい、この状況をなんとかしたい、と思える経験。

そこに、意味は、必ずあります。

病などで寝たきりの方が、周囲に、生きる努力と誇りと素晴らしさを、伝えることができるように。

まさに天使のように、命のことを、教えてくれるように。

あなたが自分で「考え」て、意図的に周囲の人へ、何か意味を「与える」のではなく、

周囲は、自分で何かを感じ、受けとめていきます。

だからといって、周囲の人のために、今、あなたが苦しんでいるわけでもありません。

あなたは、未来のあなた自身のために、今、そこを通過中なのです。

そんなつらい道をわざわざたどる必要はなかった、と、思う場合だってあるでしょう。

でも、そこで見た景色は、あなたに影響を与えます。

たとえば心を痛めた人は、この先、確かに、人の心の痛みに、敏感になれるのです。

人の心は、もろさを含んでいます。

同時に、そのもろさを越えて、何かをつかんでいく強さも、含んでいます。

どの道をたどるかは、別に、どの道だっていいのです。

学びのない道は、たぶん、ないのだと思えます。

周囲の人が幸福で、何も問題がなさそうに思えても、

それは問題の部分を、その人が「隠している」からかもしれません。

1人の人間の心の奥で感じられることはさまざまにあって、

他人が、すべてを推し量れるものではないのです。

であれば、どうやって正確な比較など、できるでしょう?

あなたと他の人の幸・不幸を、正しく比べることは、可能でしょうか?

どんなにあなたが史上最大の不幸に見舞われていたとしても、

世界中で、今、まさにこのタイミングで、もっと悲惨な目に遭っている人がいるかもしれません。

不幸自慢をしてもキリがない、というのは、そういうことなのだと思います。

ひとつだけ言えることは、どんな経験であっても、糧には、できうるということ。

最終的に「学んだ……」と思えるまでには、時間がかかったとしても、

あらゆる経験は、あなたという人間にとっての、糧にはなりうるのです。

どうやって糧にしていくのか、どうやってそれを越えていくのかも、人それぞれです。

誰かのやり方が自分にピッタリ当てはまる、というケースは、そうそうないでしょう。

だからこそ、人と人は、影響し合っているのだと。

誰かの経験を見て、知って、そこから勝手に、自分に役立つものを、拾っていけるのだと。

そういう関係の形に、なっているのだと、思えます。

自分にひどい仕打ちをする相手がいたら、その人を恨むかもしれません。

でもその相手は、実は、自分で自分にムチを打っています。

本人が気づかなくても、残念ながら、そうなっていくのです。

その傷は、いつかどこかで、現れていくでしょう。

人間関係で、あるいは、社会的な立場で、あるいは、金銭的な問題で。

何か、問題が起こっていきます。そのままでは、いられません。

同様に。

あなたもまた、決してこの先、今のままではないのです。

何かを見て、何かを知り、何かをつかんでいきます。勝手に、そうなっていきます。

幸せな人が次に不幸になるとか、そういう話をしているのではなく、

少なくとも幸せに「慣れる」段階で、別の変化が現れていくようになっている。

表面上、何も変わらないままであれば、きっと「退屈」という形の変化が、現れていきます。

日々、変わっていくこと。

仏教の教えとして心得るまでもなく、それは事実です。

であれば、求めていきましょう。

方法は遠回りになるかもしれないけれど、人によって学び方も違うけれど、

そこに意味は必ずあるのだから、その意味を、求めていきましょう。

あなたに、それを「糧」にできる力があるからこそ、

あなたはそれを経験しているのだと、私には本気でそう思えます。

自分で自分を、気持ちのうえでの病にしてしまうくらいの力がすでに、備わっているのだから。

ほんの少しずつであっても、求めていく、という気持ちがあれば、

人は、あらゆるつらさを越えていけるのだと。

そういう存在であるのだと、今の私には、思えます。

人に向かい合うときの自分

昨日の話から、ふと思ったこと。

恋愛であれ、友情であれ、人と向かい合って何か関係性を作っていくときに、

私はどういう視点を持っているのだろう、と考えてみたら、

あなたは何を大切にしてますか、教えてください。

私が何を一番大切にしているか、知ってください。

そういう、相互の「価値観」なんだと思った。

相手にどう思われるか、というところよりも、その人の考え方を知りたい、

私の考え方も知ってほしい、というところなんだと。

嫌われるかどうかについては、私は小学校6年生のときに、それまで仲良しだと思っていた

女の子2人に「親友じゃない」とある日突然(と、私には思えた)ガツンと言われて、

それがすごくショックで、人とどう接していいのかわからなくなった時期があった。

まあ、それまでの私は確かに、「気を遣う」って部分が欠けていたのだと思う。

結局、何が悪かったのかは、彼女たちに明確に教えてもらえなくて、ただΣ(゚д゚;)ガーンとなったんだけど。

知らない間に人を傷つけていたというのは、当時の自分にはすごく「怖い」ことで、

そのときに「人を傷つけるより自分が傷つけられるほうがマシだ……」なんてことも思った。

母親には「本当はその子達も言いたくなかったことを、言ってもらえたんだから、気づけたことに感謝しなさい」

と言われ、12歳のアタマでは難しすぎて、う~ん、となった。

たまたま、心優しい別の女の子2人組が仲間に入れてくれ、卒業まで孤立はせずに済んだことはありがたかった。

で、中学1年生のとき。その中学校ではいくつかの小学校から人が集まってきたから

環境がガラッと変わったが、「どう接すればいいのか」がまだわからず、内心、ビクビクしていた想い出がある。

幸い、中学2年生のクラスがあり得ないほどステキな人たちの集まりとなり、

変な気の遣い方をしなくても仲良しになれて、それがもう、本当に心底楽しかったので、

「怖がっていた自分」は一気に払拭されて、元気になれた。

あのときの仲間たちは、優しくて温かかった。自然に、「人を見守る」ってことを教えてくれたように思う。

自分もそうあるべきだわ、というふうになっていけたし、成績とか、見てくれなんて関係ないや、

優しさや思いやり、心のやりとりのほうが大事なんだわ、とか、いろいろなことを実地で教わった気がするのだ。

たとえば学年の最後のほう、バレンタインデーのときに、片想いの女の子がクラスの男の子に

休み時間、堂々とみんなの前でチョコレートを渡して、自然に拍手が起こってたんだよ。

で、受け取った男の子も、自分の意中の女の子じゃないのに、笑顔で「ありがとう」って言えるの。

その「温かい」空気感。すごくすごく、人っていう存在を好きになれた“時間”だった。

そういう、自分にとって大きい、2つの経験を経たからだと思う。人を肩書きや成績では見ないですむようになった。

相手が何を考え、どんなふうに受けとめるのかも、気をつけて見るようになったと思う。

同時に、それを受けとめて感じる「自分」についても、注意深くなった。

相手の思惑ばかり気にするのではなく、自分も相手も、どちらも大事にしていいや、っていう感じ。

そこからたぶん、私は昨日書いたような「折り合い」という接地点を、探すようになれたのだと思える。

相手に対して、一方的に折れる必要もないし、こっちの主張を、絶対に通す必要もない。

相手が話したことに対し、賛成ならば同意し、違うな、と思ったら

「私はこう考えるのだけど、どう思う?」って、静かに誠意を持って、きちんと話すこと。

そういうことを心がけたら、「嫌われる」とか「嫌い」とか云々を、気にしないでよくなった。

もちろん、前にも書いたように、まだまだ、苦手だな……と思う人はいる。

私が言っている「話し合い」の余地がなさそうに感じる人。

自分のことだけを見つめ、「私はこうなの」「こうなの」「こうなの」っていう部分だけを言い、

こちらに対し「だから私のことをこう考えろ」って、強要してくるように感じられる人。

正直、「ん~、その一方的な感じは、面倒くさいな」と思える。

でもそれもまた、ある意味、私の受け止め方の問題で、私がたまたまそのとき、

相手に対してそう感じた、って話ではある。もしかして相手は、他の面も持ってるかもしれない。

だからもし機会があれば、相手の「そうじゃない面」も知りたいな、とは思う。

何回かそうやって「知って」みて、それでもやっぱり「面倒」だと思えたら、

「それは違うと思う」って言うか、言っても無理そうなら、近づかないようにすればいい。

これも実際、職場のお局の先輩に対して「近づかない」策を取ったことがある。

当然、「生意気」と言われた(笑)が、「うん、だって、面倒だし」と思えて、

意地悪されても放置できた。そもそも職場でそういうことするほうが変だし、って。

そうしたら、あまりに私が平然としていて、他の人とは普通に仲良く接していたので、

お局様のほうが、意地悪しにくくなったらしい。だんだん、勝手に減っていった。

こっちが自分のなかで「やましく」なければいいのだ、自分勝手な視点でなくそう思えるなら、

ちゃんと自信を持っていていいのだ、と、そんなふうにも思えた経験だった。

自分の過去を思い切り例に出して、接し方についての考えを語ってみたけど、どうだろうか。

今になってみれば、小学校6年生のときの経験も、母の言うとおり「感謝すべきこと」だったと思えるし、

痛い経験も、痛いなりにのちのち、役に立つのだと、私には、思えるのだけれど。

だから人との関係を怖がる必要も、無理する必要もないのだと、私には、思えるのだけれど。