昨日の話から、ふと思ったこと。
恋愛であれ、友情であれ、人と向かい合って何か関係性を作っていくときに、
私はどういう視点を持っているのだろう、と考えてみたら、
あなたは何を大切にしてますか、教えてください。
私が何を一番大切にしているか、知ってください。
そういう、相互の「価値観」なんだと思った。
相手にどう思われるか、というところよりも、その人の考え方を知りたい、
私の考え方も知ってほしい、というところなんだと。
嫌われるかどうかについては、私は小学校6年生のときに、それまで仲良しだと思っていた
女の子2人に「親友じゃない」とある日突然(と、私には思えた)ガツンと言われて、
それがすごくショックで、人とどう接していいのかわからなくなった時期があった。
まあ、それまでの私は確かに、「気を遣う」って部分が欠けていたのだと思う。
結局、何が悪かったのかは、彼女たちに明確に教えてもらえなくて、ただΣ(゚д゚;)ガーンとなったんだけど。
知らない間に人を傷つけていたというのは、当時の自分にはすごく「怖い」ことで、
そのときに「人を傷つけるより自分が傷つけられるほうがマシだ……」なんてことも思った。
母親には「本当はその子達も言いたくなかったことを、言ってもらえたんだから、気づけたことに感謝しなさい」
と言われ、12歳のアタマでは難しすぎて、う~ん、となった。
たまたま、心優しい別の女の子2人組が仲間に入れてくれ、卒業まで孤立はせずに済んだことはありがたかった。
で、中学1年生のとき。その中学校ではいくつかの小学校から人が集まってきたから
環境がガラッと変わったが、「どう接すればいいのか」がまだわからず、内心、ビクビクしていた想い出がある。
幸い、中学2年生のクラスがあり得ないほどステキな人たちの集まりとなり、
変な気の遣い方をしなくても仲良しになれて、それがもう、本当に心底楽しかったので、
「怖がっていた自分」は一気に払拭されて、元気になれた。
あのときの仲間たちは、優しくて温かかった。自然に、「人を見守る」ってことを教えてくれたように思う。
自分もそうあるべきだわ、というふうになっていけたし、成績とか、見てくれなんて関係ないや、
優しさや思いやり、心のやりとりのほうが大事なんだわ、とか、いろいろなことを実地で教わった気がするのだ。
たとえば学年の最後のほう、バレンタインデーのときに、片想いの女の子がクラスの男の子に
休み時間、堂々とみんなの前でチョコレートを渡して、自然に拍手が起こってたんだよ。
で、受け取った男の子も、自分の意中の女の子じゃないのに、笑顔で「ありがとう」って言えるの。
その「温かい」空気感。すごくすごく、人っていう存在を好きになれた“時間”だった。
そういう、自分にとって大きい、2つの経験を経たからだと思う。人を肩書きや成績では見ないですむようになった。
相手が何を考え、どんなふうに受けとめるのかも、気をつけて見るようになったと思う。
同時に、それを受けとめて感じる「自分」についても、注意深くなった。
相手の思惑ばかり気にするのではなく、自分も相手も、どちらも大事にしていいや、っていう感じ。
そこからたぶん、私は昨日書いたような「折り合い」という接地点を、探すようになれたのだと思える。
相手に対して、一方的に折れる必要もないし、こっちの主張を、絶対に通す必要もない。
相手が話したことに対し、賛成ならば同意し、違うな、と思ったら
「私はこう考えるのだけど、どう思う?」って、静かに誠意を持って、きちんと話すこと。
そういうことを心がけたら、「嫌われる」とか「嫌い」とか云々を、気にしないでよくなった。
もちろん、前にも書いたように、まだまだ、苦手だな……と思う人はいる。
私が言っている「話し合い」の余地がなさそうに感じる人。
自分のことだけを見つめ、「私はこうなの」「こうなの」「こうなの」っていう部分だけを言い、
こちらに対し「だから私のことをこう考えろ」って、強要してくるように感じられる人。
正直、「ん~、その一方的な感じは、面倒くさいな」と思える。
でもそれもまた、ある意味、私の受け止め方の問題で、私がたまたまそのとき、
相手に対してそう感じた、って話ではある。もしかして相手は、他の面も持ってるかもしれない。
だからもし機会があれば、相手の「そうじゃない面」も知りたいな、とは思う。
何回かそうやって「知って」みて、それでもやっぱり「面倒」だと思えたら、
「それは違うと思う」って言うか、言っても無理そうなら、近づかないようにすればいい。
これも実際、職場のお局の先輩に対して「近づかない」策を取ったことがある。
当然、「生意気」と言われた(笑)が、「うん、だって、面倒だし」と思えて、
意地悪されても放置できた。そもそも職場でそういうことするほうが変だし、って。
そうしたら、あまりに私が平然としていて、他の人とは普通に仲良く接していたので、
お局様のほうが、意地悪しにくくなったらしい。だんだん、勝手に減っていった。
こっちが自分のなかで「やましく」なければいいのだ、自分勝手な視点でなくそう思えるなら、
ちゃんと自信を持っていていいのだ、と、そんなふうにも思えた経験だった。
自分の過去を思い切り例に出して、接し方についての考えを語ってみたけど、どうだろうか。
今になってみれば、小学校6年生のときの経験も、母の言うとおり「感謝すべきこと」だったと思えるし、
痛い経験も、痛いなりにのちのち、役に立つのだと、私には、思えるのだけれど。
だから人との関係を怖がる必要も、無理する必要もないのだと、私には、思えるのだけれど。