そこに意味はある

今日は抽象的な書き方になると思いますが、お許しください。

今、自分の身のうえを通り過ぎている経験。

どうしてこんな目に、と思える経験。

死をもってでも、変えたい、この状況をなんとかしたい、と思える経験。

そこに、意味は、必ずあります。

病などで寝たきりの方が、周囲に、生きる努力と誇りと素晴らしさを、伝えることができるように。

まさに天使のように、命のことを、教えてくれるように。

あなたが自分で「考え」て、意図的に周囲の人へ、何か意味を「与える」のではなく、

周囲は、自分で何かを感じ、受けとめていきます。

だからといって、周囲の人のために、今、あなたが苦しんでいるわけでもありません。

あなたは、未来のあなた自身のために、今、そこを通過中なのです。

そんなつらい道をわざわざたどる必要はなかった、と、思う場合だってあるでしょう。

でも、そこで見た景色は、あなたに影響を与えます。

たとえば心を痛めた人は、この先、確かに、人の心の痛みに、敏感になれるのです。

人の心は、もろさを含んでいます。

同時に、そのもろさを越えて、何かをつかんでいく強さも、含んでいます。

どの道をたどるかは、別に、どの道だっていいのです。

学びのない道は、たぶん、ないのだと思えます。

周囲の人が幸福で、何も問題がなさそうに思えても、

それは問題の部分を、その人が「隠している」からかもしれません。

1人の人間の心の奥で感じられることはさまざまにあって、

他人が、すべてを推し量れるものではないのです。

であれば、どうやって正確な比較など、できるでしょう?

あなたと他の人の幸・不幸を、正しく比べることは、可能でしょうか?

どんなにあなたが史上最大の不幸に見舞われていたとしても、

世界中で、今、まさにこのタイミングで、もっと悲惨な目に遭っている人がいるかもしれません。

不幸自慢をしてもキリがない、というのは、そういうことなのだと思います。

ひとつだけ言えることは、どんな経験であっても、糧には、できうるということ。

最終的に「学んだ……」と思えるまでには、時間がかかったとしても、

あらゆる経験は、あなたという人間にとっての、糧にはなりうるのです。

どうやって糧にしていくのか、どうやってそれを越えていくのかも、人それぞれです。

誰かのやり方が自分にピッタリ当てはまる、というケースは、そうそうないでしょう。

だからこそ、人と人は、影響し合っているのだと。

誰かの経験を見て、知って、そこから勝手に、自分に役立つものを、拾っていけるのだと。

そういう関係の形に、なっているのだと、思えます。

自分にひどい仕打ちをする相手がいたら、その人を恨むかもしれません。

でもその相手は、実は、自分で自分にムチを打っています。

本人が気づかなくても、残念ながら、そうなっていくのです。

その傷は、いつかどこかで、現れていくでしょう。

人間関係で、あるいは、社会的な立場で、あるいは、金銭的な問題で。

何か、問題が起こっていきます。そのままでは、いられません。

同様に。

あなたもまた、決してこの先、今のままではないのです。

何かを見て、何かを知り、何かをつかんでいきます。勝手に、そうなっていきます。

幸せな人が次に不幸になるとか、そういう話をしているのではなく、

少なくとも幸せに「慣れる」段階で、別の変化が現れていくようになっている。

表面上、何も変わらないままであれば、きっと「退屈」という形の変化が、現れていきます。

日々、変わっていくこと。

仏教の教えとして心得るまでもなく、それは事実です。

であれば、求めていきましょう。

方法は遠回りになるかもしれないけれど、人によって学び方も違うけれど、

そこに意味は必ずあるのだから、その意味を、求めていきましょう。

あなたに、それを「糧」にできる力があるからこそ、

あなたはそれを経験しているのだと、私には本気でそう思えます。

自分で自分を、気持ちのうえでの病にしてしまうくらいの力がすでに、備わっているのだから。

ほんの少しずつであっても、求めていく、という気持ちがあれば、

人は、あらゆるつらさを越えていけるのだと。

そういう存在であるのだと、今の私には、思えます。

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