木元見春 のすべての投稿

ごめんなさい、と思うなら

鬱になると、とにかく自分の責任だと思える「悲しいこと」がたくさん増える。

現実の生活でちゃんと動けなかったり、ケアレスミスをしたり、うっかり忘れたりするし、

過去の思い出に至ってはそれこそいっぱい、「自分がダメだったときのこと」を思い出し、

本当は自分のせいではなかったことまで自分が悪かったように思えて、

心の中でたくさんの「ごめんなさい」を繰り返すことになる。

そう、本当に「ごめんなさい」を延々、連発し続ける日々になるのだ。

これはもう病の症状だから、ある意味、仕方ないことではある。

風邪のときに咳や鼻水が止まらないのと同じことだけれど、

実際、そのとき気持ちは本当につらくなるよね……。

なのでこのようなサイクルに陥ったら、ちょっとだけ試してほしいことがある。

傷つけた相手にせよ、自分が反省すべき失敗にせよ、起こった出来事にせよ、

それらすべてに“一応”でいいから、感謝の気持ちをくっつけてみてほしいのだ。

やり方としては「ありがとう」を、「ごめんなさい」のあとに続けるだけでいい。

そもそも、そこであなたが体験したこと、あなたが感じたことは、

すべて何か「理由があって」「相手があって」行ったことの結果だ。

その、人や出来事、仕事などは、あなたが望んで、あるいは流れのなかで

たまたま巡り合った、ご縁のあるものである。

そのなかで、あなたは、確かに「いやな思い」「悲しい思い」をしたのだが、

それって実は「うまくいかないやり方」「うまくいかない感じ方・考え方」をひとつ、発見したということ。

あなたにとって喜ばしい方向ではなかったが、「これは良くないな」という学びをひとつ、得たということである。

であれば、そういう機会を得たことには、ちょっと、感謝できるのである。

だって次はそうならないよう気をつけられるし、

もし同じように失敗したとしても、あ、あのときと同じだ……というように感じ取ることはできて、

だんだん「あなたにとってミスだと思えること」は減らしていけるのだ(わざわざカギカッコつきでこう書くのは、

それが本当にあなたのミスかどうか、わからないからだ。逆に、他人に気を遣いすぎている、とか、

仕事を一生懸命やりすぎている、などという別の部分の間違いには、

もしかしてまだ、気づいていないかもしれない。でも今は、そんなことまで気にしなくていい)。

なので、その人自身が憎いかどうかとか、出来事そのもののつらさとは別に、

学びを得たことに対し、ちょっとだけでもいいから感謝して「ありがとう」をくっつけるのだ。

「○○さん、あのときのことはごめんなさい。ありがとう」

「△△だったこと、ごめんなさい。ありがとう」

そうやって「ごめんなさい」が思い浮かぶごとに、「ありがとう」をくっつけてみてほしい。

自分がいかに多くの人と関わり、多くの出来事を通じて、いろいろなことを学んできたのか。

痛い経験ではあったけど、そういうご縁が自分にあったんだな、ということだけは、

つらいながらも実感できると思う。

多かれ少なかれ、人は何かを経験し、感じ、学びながら生きている。

その数、その経験の重さ、その大切さ(そう思えることに関しては、ね)を、

「ありがとう」をくっつけることで、感じてみてほしい。

そうやって自分自身が、日々、いろいろなご縁で生きているのだ、ということを

この機会にぜひ、知ってみてほしいと思う。

仏教とかそういう教え的な話ではなく、本当に、ただ、目の前の現実のこととして、ね。

自分のなかのいろいろな自分

鬱になって動けないときは、いろいろな気持ちが表れてくる。

この状態で、何をどうしていけというのか。

こんな自分のまま過ごして、ときを待つのもイヤだ。

でも実は、どんな変化が来るのかわからなくて怖い。

つらい状況のときには、そういう相反する気持ちが交互に、

または同時に表れてきて、自分で本当に、どうしていいかわからないだろう。

気持ちがグラグラ揺れ動き、定まらないこと自体は、

病の症状として 捉えていい。

そもそも、自分が何か「しまった」と思うようなことをしたら、

普通、一瞬でも動揺する。

その揺れ幅が大きくて長いのだ。

そういうことが、起こっているだけのことだ。

でも、経験したことのない幅と長さだから、つらい。

その深いつらさもまた、初めて体験するものかもしれない。

起こっている出来事、あなたの状況を、

外から見れば、そういう感じなのだ。

たまたま、深い経験をする時期が来た、ということだ。

これまで知らなかったつらさ、知らなかった重さだから、

不安感が起こるのもまた、当たり前なのである。

あなただけがそうなっているわけではない。

その病にかかった人は皆、大きく揺れ動き、自分を責める。

ただ、そういう自分が、いるんだと。

初めての重さに打ちひしがれ、揺れ動く自分がいることを、

まずは素直に認めてほしい。

病の症状を何もかもすべて自分のせいにするのは、

不自然であることはわかるだろう。

自分を責めたところで、症状が軽くなるわけではないのである。

今まで知らなかった自分を知った。

そこからどうはい上がっていくのか、

その過程もまた、未知の新しい経験になるだろう。

すべては、自分の側面の一部分であり、

ダメなあなたが100%、この先延々続くわけではないのだ。

病になるほど自分で自分を追い詰めるチカラが

すでにあなたにはあったのだから、

そこから変わっていくチカラもまた、すでに備わっている。

いろいろな自分をひとつずつ、見つける経験なのだ。

だから自分を責め続ける必要も、本当はないのである。

命、そして生きていくということ

私たちは普段、自分の「命」を意識して暮らしてはいなかった。

鬱になって初めて、身近に「死」という選択肢が現れ、

生きていくのに必要なこと、たとえば食べること、眠ること、お金を稼ぐということなどが

「問題」として現れてくる。

それまでは何の気もなしに、ある意味「当たり前の習慣」としてこなしていたことが

できなくなって初めて、それらを「行っていたんだ」ということを知るのである。

何も気づかずにいた自分が「迂闊」だったわけではない。

世の中の大半の人は、今回の震災のような大きな悲劇が起こらない限り、

「日常生活を普通に営むこと」がある意味、幸せな状況であることに気づいていないのだ。

家族がいること、友達がいること、住む家があって暮らしていける街があること。

働ける場所があって、そこで自分が労働できること。

おなかが空いたらご飯を食べ、テレビや音楽や本、映画などの娯楽を楽しみ、

そうしているうちに「ああ、今日も1日が終わったな」と、お風呂に入って眠りにつけること。

健康であれば、別に思い悩むこともなく、日々を過ごしていけるだろう。

が、ほんの数ヵ月前に、それらは決して「当たり前」ではないことを、私たちは知った。

もっと前には阪神淡路大震災があり、そのときにも「非日常」が目の前に現れて、

私たちは普段の生活のありがたさを知ったはずだったが、

今回、また「喉もと過ぎれば」といった感じで、みんな忘れていたのだ。

しかも今回の震災はまだ余震が続き、悲しいことに放射能物質による汚染も

まだまだ続いている。普通に暮らしていても命が脅かされているような状況なのだ。

鬱になって、働けないこと、何もかも失ってしまったように感じること(実際、物理的に

何かを失った人も多いだろう。被災地の人もそうだし、被災地以外の人でも、

働けなくなったりすることで失うものはあるはずだ)、そこで気づくのは遅いのだろうか。

いや、そうではない。

確かに、何らかのものを、あなたは失っただろう。

そのなかには、取り返しのつかないものも含まれていることだろう。

それでもなお、あなたはまだ「生きて」いる。

他の人の命は救うことができなかったかもしれないけれど、

あなたは、人生の一番の大元である自分の「命」まではまだ、失ってはいないのだ。

やる気という「原動力」は、この病にかかった場合、すぐには取り戻せないかもしれない。

気づかなかった以前のころと同じように生きていくことも、難しいかもしれない。

それでも、あなたは「新しくやっていける」のだ。

そのために今、命を持っている……のかもしれない。

「死ぬ気になれば何でもできる」なんて大上段な話ではない。

その痛みの経験を、別のところで「活かせる」、その可能性がある、と言いたいのだ。

どんなにひどい目に遭っても。

どんなにつらい気持ちを経験しても。

それらはすべて、のちのあなたの「力」に変えることができる。

「経験」とは、そういう力を秘めているのである。

だから今、命を持っている人は、その命をあきらめないでほしい。

今すぐには大きく変われなくて、苦しいかもしれない。

思い出ばかりがよみがえって、後悔の念が湧いて、悲しみが大きいかもしれない。

毎日、生きていくのがつらい、と思えてしまうかもしれない。

でも、それを乗り越えた先に、必ず「得る」ものはある。

自分の生き方や考え方の変化、人への思いやり、人の心の痛みへの気遣い、

弱いままでも強く生きられること、弱いからこそ、持てる強みもあること。

そうしたことは、「つらい経験を経たから」得られる場合があるのだ。

そんなやり方を選びたくはなかっただろうが、今、すでにそうした状況になっているのであれば、

そこから受けとめていけるものもある、ということを、知ってほしいのだ。

失ったからこそ、得ていくものがある。

あなたの周囲の人も、むやみにあなたに死を選んでほしくはないはずだ。

そして「失った」と思っているものの大半は、新たな形でまた、得ていくことができるのだ。

しかもそのときには、「大切なもの」として、受け容れることができる。

命を保ち続ける道、新たに生きていく道、は、あなた自身がそれを見ることをやめない限り、

私たち一人ひとりに必ず、用意されているのである。

そして、その道もひとつではない。どの道を選んでいくか、あなたが決めていけばいいのだ。

今、苦しい人はたくさんいるだろうと思うけれど、

そのひどい経験は、決して、あなたを傷つけるだけではないことを、

どうか、知ってほしい。