命、そして生きていくということ

私たちは普段、自分の「命」を意識して暮らしてはいなかった。

鬱になって初めて、身近に「死」という選択肢が現れ、

生きていくのに必要なこと、たとえば食べること、眠ること、お金を稼ぐということなどが

「問題」として現れてくる。

それまでは何の気もなしに、ある意味「当たり前の習慣」としてこなしていたことが

できなくなって初めて、それらを「行っていたんだ」ということを知るのである。

何も気づかずにいた自分が「迂闊」だったわけではない。

世の中の大半の人は、今回の震災のような大きな悲劇が起こらない限り、

「日常生活を普通に営むこと」がある意味、幸せな状況であることに気づいていないのだ。

家族がいること、友達がいること、住む家があって暮らしていける街があること。

働ける場所があって、そこで自分が労働できること。

おなかが空いたらご飯を食べ、テレビや音楽や本、映画などの娯楽を楽しみ、

そうしているうちに「ああ、今日も1日が終わったな」と、お風呂に入って眠りにつけること。

健康であれば、別に思い悩むこともなく、日々を過ごしていけるだろう。

が、ほんの数ヵ月前に、それらは決して「当たり前」ではないことを、私たちは知った。

もっと前には阪神淡路大震災があり、そのときにも「非日常」が目の前に現れて、

私たちは普段の生活のありがたさを知ったはずだったが、

今回、また「喉もと過ぎれば」といった感じで、みんな忘れていたのだ。

しかも今回の震災はまだ余震が続き、悲しいことに放射能物質による汚染も

まだまだ続いている。普通に暮らしていても命が脅かされているような状況なのだ。

鬱になって、働けないこと、何もかも失ってしまったように感じること(実際、物理的に

何かを失った人も多いだろう。被災地の人もそうだし、被災地以外の人でも、

働けなくなったりすることで失うものはあるはずだ)、そこで気づくのは遅いのだろうか。

いや、そうではない。

確かに、何らかのものを、あなたは失っただろう。

そのなかには、取り返しのつかないものも含まれていることだろう。

それでもなお、あなたはまだ「生きて」いる。

他の人の命は救うことができなかったかもしれないけれど、

あなたは、人生の一番の大元である自分の「命」まではまだ、失ってはいないのだ。

やる気という「原動力」は、この病にかかった場合、すぐには取り戻せないかもしれない。

気づかなかった以前のころと同じように生きていくことも、難しいかもしれない。

それでも、あなたは「新しくやっていける」のだ。

そのために今、命を持っている……のかもしれない。

「死ぬ気になれば何でもできる」なんて大上段な話ではない。

その痛みの経験を、別のところで「活かせる」、その可能性がある、と言いたいのだ。

どんなにひどい目に遭っても。

どんなにつらい気持ちを経験しても。

それらはすべて、のちのあなたの「力」に変えることができる。

「経験」とは、そういう力を秘めているのである。

だから今、命を持っている人は、その命をあきらめないでほしい。

今すぐには大きく変われなくて、苦しいかもしれない。

思い出ばかりがよみがえって、後悔の念が湧いて、悲しみが大きいかもしれない。

毎日、生きていくのがつらい、と思えてしまうかもしれない。

でも、それを乗り越えた先に、必ず「得る」ものはある。

自分の生き方や考え方の変化、人への思いやり、人の心の痛みへの気遣い、

弱いままでも強く生きられること、弱いからこそ、持てる強みもあること。

そうしたことは、「つらい経験を経たから」得られる場合があるのだ。

そんなやり方を選びたくはなかっただろうが、今、すでにそうした状況になっているのであれば、

そこから受けとめていけるものもある、ということを、知ってほしいのだ。

失ったからこそ、得ていくものがある。

あなたの周囲の人も、むやみにあなたに死を選んでほしくはないはずだ。

そして「失った」と思っているものの大半は、新たな形でまた、得ていくことができるのだ。

しかもそのときには、「大切なもの」として、受け容れることができる。

命を保ち続ける道、新たに生きていく道、は、あなた自身がそれを見ることをやめない限り、

私たち一人ひとりに必ず、用意されているのである。

そして、その道もひとつではない。どの道を選んでいくか、あなたが決めていけばいいのだ。

今、苦しい人はたくさんいるだろうと思うけれど、

そのひどい経験は、決して、あなたを傷つけるだけではないことを、

どうか、知ってほしい。

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