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気になる、ということ

心理学などの本を読んでいると、潜在意識や深層心理など、

なかなか「実証は難しい」類のものも、説明されている。

あなたの感じるその気持ちの、さらにその奥にある「感情のもと」は何か、というものである。

たとえば教育心理学では、子どもの年齢に応じて、そのときに味わった過不足感が、

大人になって心理的にどのような影響を与えるか、という話がある。

これは、実験結果の「統計」として研究されてきたことだろうから、ある程度、説としての信憑性は

高いけれど、100人いたら100人ともが、それに絶対当てはまるとは限らない。

あくまで「傾向」としての話なのだ。

で、そういう傾向としての話で聞いてほしいのだが、

私が本などを読んでいて、なるほど、あり得るかも、と思ったのが

「良きにつけ、悪しきにつけ、あなたが“気になる”人は、あなたの足りない点、

あるいは自分の生きる要素として大切に思っている点を、反映している人である」という説。

例として「妬み」を挙げてみると、想像しやすいと思う。

この場合は心の中のどこかで自分が「そうなりたい」と思っているから、その人がうらやましいのだ。

自分に足りていない部分を、その人はすでに持っているから、気になる。

だから、「この人の、こういうところが嫌いだ」と思ったときには、

それは「自分にとって大切なことを相手が踏みにじっている」からイヤなのか、

「自分にとって足りない、ほしいと思っている部分を持っているから」イヤなのか、などということを

考えてみると、ちょっと、自分の価値観みたいなものも見えてくる。

相手をきっかけにして、自分を知ることができるのである。

正義感から「許せない!」と思った場合でも、その「正義感」の元はどこから来るのか。

たとえば私は、もう原発はやめていく方向にしてほしい、と思っていて、

ときおり、大義名分を掲げる促進派の人たちに腹が立ったりする。

それは「ある程度のリスクは科学の発展にはつきものだ」などという考え方が、

結局は「自分さえよければいい」に聞こえるからだ。

私の場合、「自分さえよければいい」という人はある意味、“敵”になるわけだ(^^;)

じゃあ、「自分さえよければ」を、私は本当に憎み、望んでいないのか?

あらゆる場面で、望んでいないのか? となると、

いや、電車の席にはやっぱり基本的に座りたいしなあ、とか、微妙な部分も現れてくる。

どの程度の「自分さえ……」なら許せるのかな、とか、

そういうふうに、自分が持っている「考え方のバランス」なども見てみると、

「私って、こういう人間だったのか」という面が、自分で見つけられたりする。

そもそもこうした価値観って、普段はあまり掘り下げない。

でも、心が苦しい今は、何かにつけ、自分を卑下しやすい。

であれば、表面的な部分で自分をそうやって判断するだけでなく、もともと持っている、

「自分の、基本的なものの考え方」をこの機会に知ってみることは、意味があると思う。

カウンセリングなどでは現在の心理状態チェックだけでなく、

そのように自分を知るためのツールがいろいろある。

そういうのを独学でまずは調べてみてもいいし、信頼できる先生がいるなら相談してみてもいい。

どうして自分は、自分自身をここまでさげすみ、おとしめるのか。

立ち直りをわざわざ遅くし続けるとわかっていながら、やってしまうのか。

そこには、それなりの「あなたの“ものの見方”のポイント」が隠れているのである。

相手が何を言おうと、それを自分のための学びにはできる、というのも、こうした理由ゆえだ。

その人がどんな人で、自分に何を言ったか、ではなく、自分がそれをどう受けとめ、感じたか。

気になるほどの人でなくても、あらゆるかかわりが、自分を見つける手段になりえるのだということを、

今後は少し、心に留め置いてもらえたらと思う。

追伸~生まれてきてごめんなさい~

こんなわたしで ごめんなさい

眠ってばかりで 動けなくて ごめんなさい

おなかが空いて ごめんなさい

息をしてて ごめんなさい

こんな状態で 生きててごめんなさい

生まれてきて ごめんなさい

そう 思っている人へ。

そう思ってしまうことを 私もまた 知っているからこそ。

ありのままのあなたでいてくれて ありがとう

身体を整え 心の病を治すために しっかり休んでくれて ありがとう

おなかがすいたときに ちゃんと食べものを口にしてくれて ありがとう

自分で息を止めるような行動を 実行しないようにしてくれてて ありがとう

つらい経験から何かを学び 人とつながり 伝えていくために 生まれてきてくれて ありがとう

心から そう思います。

私だけでなく あなたの周りの あなたを 陰から日向から応援してくれている人 すべてが

あなたが その経験から得ていくであろうもの そのすばらしさについて

未来にそれを知る日のことを 無意識にであっても 待っているのです

だいじょうぶ

確かに今は とてもとても つらいけれど

それでも あなたは だいじょうぶ だからね

何もかも自分のせい

私は先ほどコーヒーを淹れようとして、なんとサーバーを床に落としてしまった。

まだスイッチを入れる前で、ガラスのコーヒーポットは置いていなかった。

サーバー本体もプラスチック部分が少し破損しただけで壊れはしなかった。

破損部分は補修すればなんとか使えそうだし、キッチンマットと服と靴下、床、壁に

水&コーヒー豆が飛び散ってなかなかの惨状にはなったが、それくらいで済んで幸いだった。

が、そのときふと思った。これが鬱のときだったら、相当に落ち込んでいただろうな……と。

服と靴下とマットはさっさと洗濯すればいいし、床と壁は掃除すればいいだけだ。

確かに、本体の置き場所のバランスが悪くなっていたのを一瞬、見逃したことはミスだったけど、

別にわざとやったわけではないし、単なるドジ、である。

それよりも本体を床に落として、この程度の被害で済んだのだ。そっちのほうがよっぽど安堵の材料になる。

でも鬱の場合は、「これで済んでよかった」とは思えないのである。

まず、床や壁、キッチンマットなどの惨状を見ただけで、あああ、と気力が萎えるだろう。

「さっさと動く」パワーが元々失われているので、へこんでしまう。

そしてさらに、失敗に目がいくため、

「コーヒーすらまともに淹れられないのか」とか「こんなこともできないのか私」などと

どんどん自分を責め、つらい気持ちを膨張させていってしまうのだ。

それはもう、まさに、病の症状ゆえなのだけれど、自分では気づけない。

失敗の上に、動けないことをさらに加えて嫌気が差し、またマイナススパイラルに陥っていく。

どこまで、自分を責めれば納得できるのだろう。

どれほど、自分を低く評価すれば気が済むんだろう。

単なる「事故」に近いミスを、自分の欠点にまでおとしめて、落ち込んで。

そういう「脳」なんだから仕方ないじゃない、と気づいて割り切れればいいけれど、

たいていは「ダメな自分」への評価につなげて、それが世間的に当たり前だとさえ思ってしまう。

どうすれば、そこから抜け出せるか。

これはもう、本当に、人によって違うのだけれど、

少なくとも、そうやって過大に自分をおとしめる「病」であることを、自覚する必要はある。

いつまでたっても、ではない。

たまたまそういうことが起こると、イヤな点を全部「自分が悪いんだ」という欠点に仕立て上げ、

それを貯めて数え上げて、しかも忘れない「病気」なのだ。

だから頭は「いつまでたっても」と考えてしまう。

洗濯して拭けばいい、コーヒーは淹れられるよ、よかった、という点には、見向きもしないのである。

でも、忘れないでほしい。発作が出たようなもので、それもまた、症状のひとつでしかない、と。

ものが落ちたときに壊れるのは重力のせい。あるいは、時間が経って劣化したせいもあるだろう。

うっかりしていたなんてことは、別に普通の状況でも起こりうる。

どこまでがミスで、自分が反省すべきことであり、どこまでが仕方ないのか。

その判断がかなり狂っていることを、しっかり、覚えておいてもらえたら、と思う。

何もかも、あなたのせいではない。決してまるまる全部、自分が悪いわけではないのだ。