私は先ほどコーヒーを淹れようとして、なんとサーバーを床に落としてしまった。
まだスイッチを入れる前で、ガラスのコーヒーポットは置いていなかった。
サーバー本体もプラスチック部分が少し破損しただけで壊れはしなかった。
破損部分は補修すればなんとか使えそうだし、キッチンマットと服と靴下、床、壁に
水&コーヒー豆が飛び散ってなかなかの惨状にはなったが、それくらいで済んで幸いだった。
が、そのときふと思った。これが鬱のときだったら、相当に落ち込んでいただろうな……と。
服と靴下とマットはさっさと洗濯すればいいし、床と壁は掃除すればいいだけだ。
確かに、本体の置き場所のバランスが悪くなっていたのを一瞬、見逃したことはミスだったけど、
別にわざとやったわけではないし、単なるドジ、である。
それよりも本体を床に落として、この程度の被害で済んだのだ。そっちのほうがよっぽど安堵の材料になる。
でも鬱の場合は、「これで済んでよかった」とは思えないのである。
まず、床や壁、キッチンマットなどの惨状を見ただけで、あああ、と気力が萎えるだろう。
「さっさと動く」パワーが元々失われているので、へこんでしまう。
そしてさらに、失敗に目がいくため、
「コーヒーすらまともに淹れられないのか」とか「こんなこともできないのか私」などと
どんどん自分を責め、つらい気持ちを膨張させていってしまうのだ。
それはもう、まさに、病の症状ゆえなのだけれど、自分では気づけない。
失敗の上に、動けないことをさらに加えて嫌気が差し、またマイナススパイラルに陥っていく。
どこまで、自分を責めれば納得できるのだろう。
どれほど、自分を低く評価すれば気が済むんだろう。
単なる「事故」に近いミスを、自分の欠点にまでおとしめて、落ち込んで。
そういう「脳」なんだから仕方ないじゃない、と気づいて割り切れればいいけれど、
たいていは「ダメな自分」への評価につなげて、それが世間的に当たり前だとさえ思ってしまう。
どうすれば、そこから抜け出せるか。
これはもう、本当に、人によって違うのだけれど、
少なくとも、そうやって過大に自分をおとしめる「病」であることを、自覚する必要はある。
いつまでたっても、ではない。
たまたまそういうことが起こると、イヤな点を全部「自分が悪いんだ」という欠点に仕立て上げ、
それを貯めて数え上げて、しかも忘れない「病気」なのだ。
だから頭は「いつまでたっても」と考えてしまう。
洗濯して拭けばいい、コーヒーは淹れられるよ、よかった、という点には、見向きもしないのである。
でも、忘れないでほしい。発作が出たようなもので、それもまた、症状のひとつでしかない、と。
ものが落ちたときに壊れるのは重力のせい。あるいは、時間が経って劣化したせいもあるだろう。
うっかりしていたなんてことは、別に普通の状況でも起こりうる。
どこまでがミスで、自分が反省すべきことであり、どこまでが仕方ないのか。
その判断がかなり狂っていることを、しっかり、覚えておいてもらえたら、と思う。
何もかも、あなたのせいではない。決してまるまる全部、自分が悪いわけではないのだ。