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心地よい時間……を増やす

これまで何度か「痛んでいる今は、自分にとってとにかくまず、

心地よいと感じることをして過ごそう」と書いてきた。

実際に大好きな趣味などがあって、それに没頭できる時間を少しずつ増やしていける人ならいいが、

根気もなかなか続かない今の状態では、そんな、心地よい時間と言われても……と

思う人も多いかもしれない。

趣味以外の心地よさのポイントとして、まずは衣食住を考えてみよう。

服なら、好きな肌触りやデザインの服を着でみる。外出着を家の中で着たって、別に構わないのだから。

好きな食べもの、おいしいと思える食べもの・飲み物を摂る。

少量でも構わない。飲食している間は、ちょっとうれしいと思う。

好きな空間をつくってみる。家具の配置をほんの少しだけ変えてみるとか、

窓を開けて風を入れ、日の光の温かさや風の肌触りを楽しむ。

それだけでも少し、気分は変わるだろう。

次に、何も楽しいことが見つからない……という人に。

あなたは今、「休んでいる」はずである。

学校を、会社を、その他、以前の自分がやっていた「義務的なこと」を。

そのことが頭にずっとあるから気持ちが暗かったりする、ということもあり得るだろう。

であれば、最初は空想でいいから、もし、あなたに

●十分な時間

●十分なお金

●義務的なことを一切心配しないでいい、気楽な状態

が揃ったら、何をしたいだろうか。それを考えてみるのである。

それなら実は、小説を書きたかったんだよな、という人がいるかもしれない。

世界遺産を巡る旅がしたい。

自分でなにか、つくりたいかもしれない。

そういう「空想」を、紙に書き出してみるのである。

そしてそれを「実現できる形」にしていくつもりで、準備と練習を始めてみよう。

何か形があるものを創作したいなら、手近にある材料でまねごとや練習を。

頭のなかで考える詩や曲なら、イメージ作成を。小説ならプロットのための断片のメモ書きを。

旅に出たいなら、インターネットやDVDで、まずはそこを訪れてみよう。

写真や動画、ストリートビューなどはワクワクさせてくれるし、情報収集にもなる。

本当に実現できるかどうか、ではない。

いずれそれをあなたが「実現していく」のだ。そのための、小さな小さな一歩である。

あとは、子どものときの自分に戻ってみる。

粘土で遊ぶ、色鉛筆で塗り絵をしたり稚拙な絵を描く、水遊びする、信号の白色だけを踏んで歩く。

ブランコを漕いでみる、滑り台を滑ってみる。おはじき、ビー玉、すごろく……。

そこになんの理由もなく、ただ楽しいからやっていたこと、好きだったことを、思い出してみるのだ。

そう、これらはすべて、今の状況を全部いったん、脇に置いてしまうということである。

そんな子供だましな、と思われるかもしれない。

確かに子どものころの遊びなんて、すぐに飽きるかもしれない。

でも、子どものときだって結構、好奇心からいろいろなものに手を出してみたりしなかっただろうか?

友達がやってて楽しそうとか、そういう理由だけでさ。

別に、飽きたらやめればいいのだ。

子どもはそこに罪悪感を感じない。今は、同じでいいのだ。

何も責任がないなら、ただ寝たいよ、という人は、うん、寝よう。

きっと身体も、それを欲しているはずだから。

そうやって、自分を気楽な身分にしてみたり、子ども時代に戻らせてみることは、

少しずつ楽しみを増やしていけることになるし、実際、とてもステキな、気分転換になっていくのだ。

現実的には身体が動かせなくて、空想だけで終わるかもしれない。

でも、それすら「最初の一歩」だから、今は気にしなくていいのだ。

本来、「楽しむ」という気持ちには、

大人の分別やら責任やら見栄やらを、持ち込む必要はない。

いつのまにか、そういうものを、身につけていたかもしれないけれど。

できる範囲で少しずつ、実験のようにやってみよう。

新しい楽しみ、懐かしい喜びの時間が、増やせるはずだ。

自分をちょっとだけ、ゆるす

もし、今の自分の状態を、過去の、壊れていなかった自分が見たら。

「なんてふがいない」と、がっかりするだろうか。

「そんなクヨクヨして落ち込んでたってたって、何も変わらないでしょ!」 と怒るだろうか。

あるいは「どうせ昔からダメだったし、やっぱり今もダメなんだな」と、ため息をつくだろうか。

いずれにせよ、今、あなたはどこかで、「ダメな自分」を責めているし、嫌っている。

当たり前である。

思うように身体も動かせないし、悪いことばかりが起こったり、ちっとも前向きになれなかったり。

そんな自分を「大好き!」なんて思える鬱の人は、まずほとんど存在しない。

さて。

誰かひとり、あなたが大好きな人を、想定してほしい。

友情でも恋愛でも尊敬でもいいし、今いる人でも、過去に関わった人でも構わない。

その人がもし、落ち込んでいたら(鬱まで想定しなくていい)。

あなたは、その人を嫌いになるだろうか。

理由によっては、多少「がっかり」はするかもしれない。

でも、あきれたり怒ったりして、その人を見捨てるところまでは、いかないはずだ。

なぜならその人はいつか、復活してくれるだろう、という信頼感が、あなたのなかのどこかに、存在するから。

あなたの「この人のことは好きだな」という思いは、よっぽど衝撃的な出来事でもない限り、

多少の変動があっても、普段はそんなに、変わらないはずだ。

ねえ。

そうやって他人のことは信用できているのに、どうして自分は信じられないんだろう。

暗くなるのは「病気」のせいだし、まともに動けないのも「病気」のせいだ。

なのにどうして、そんな「病気」の自分を、そこまでゆるせないんだろう。

過去に起こった出来事や経験を、ずっと思い出して後悔しているから?

何度もそれで、自分を責め続けてる?

あるいは毎日、情けない情けない、って思い続けてる?

何か、そういう、「否定の繰り返し」は行っているよね、きっと。

なんらかの「無理」を続けた結果、心がそんなふうに、傷ついたのに。

傷ついた部分を、ずっと見つめて、さらに傷つけてるんだよね、それって。

で、やめられなくて、とまらなくて、それでまた、自分をどんどん、否定して。

うん。痛いよね、本当に。私も、すごく痛かった。

もうね、そこまで、ギリギリと、あるいは針で刺すみたいにチクチクと、自分をいじめなくていいよ。

今、弱い自分は確かにいてさ。そこは、何をしようとすぐには自力で変われなくてさ。

でも無理してたんだもの、仕方ないよ。

普通なら、壊れる前にその無理から、リタイアして逃げ出しちゃったかもしれないのに、

あなたは、たまたまそのときは逃げ出さずに、やっちゃったんだよ。

なんだか、どこか、無理してがんばっちゃったんだよ、何かの理由でさ。

馬鹿だなあ、不器用だったなあ。

そう思って、ちょっとくらい、自分をゆるしてあげようよ。

壊れるまでは、やってみたんだし、さ。

全部を100%、ゆるせ、って言ってるわけじゃないよ。

私だってそんなこと、今でもできない。

何かダメなことが起こったら落ち込むし、自分にがっかりもするし、イライラするときもある。

でもね。

そういう自分であっても、今は別にいいの。

痛んで、ケガしてるときだもの。あるいは古傷がうずいているとかね。

昔のような元気さが懐かしい人は、いつか、また、病気が治ったらそうなれる。

そういう要素、持ってるし知ってる。

昔からダメだった、という人は、それこそ新しいやり方、新しい考え方を、

治ってから徐々に身につけていけばいい。

「60の手習い」なんて、いまや普通のことだよ?

年をとってから性格が丸くなる人もいっぱいいるよ?

ずっとずっと、そうやって、人は変わり続けるのだから、

心や身体のケガや病気によって方向性が変わったとしても、それもまた、変化のひとつでしかない。

本当は、自分を責める材料ではなく、変わるほうへ向かうための「経験」のひとつなの。

ちょっとだけ。今はちょっどだけでいいから、

馬鹿で情けなくてどうしようもない自分を、

「ああもう、仕方ないヤツだなあ」って、ゆるしてあげよう。

そのちょっとから、実は、変化が始まっていくよ……。新しい自分への、ね。

せっかく痛い経験をみずからしたんだもの。

これからはいい人になって、楽しく生きていく人に変わっていっても、別に構わない。

それもまた、これからのあなたが選べる。あなた次第で、ね。

外側の時間、内側の時間

鬱という病のせいで死にたくなったあと、そこから復活していく間は、

毎日が過ぎるのが本当に早かった。

それなのに、自分が変化していく速度はとても遅く感じられて、

いつまでたっても、そこにとどまっているような感じ。

ちょっとは回復の階段を上れたりするけれど、

すぐに踊り場のようなところで立ち止まって、

いったんそうなると、次の段へはなかなか足をかけられない……。

私はずっと、そんなふうに感じていたし、

その傾向は、今でも少し、続いているのだと思う。

苛立つときもある。焦るときも。

だからといって、何も変わるわけではないから、自分自身にがっかりする。

場合によっては、段差をまた「降りて」しまったんじゃないか、と疑ったりね……。

でも、私の例で言えば、昔の「サクサクできる」自分は、無理してた。

どこかで、我慢して、無茶してた。

今だからこそ、その「サクサク」が懐かしく、ある意味うらやましくさえ感じるけれど、

やってる最中は、結構、必死だったよ。

エンジンは常に全開で、確かに多少は性能、良かったかもしれないけれど

それでもずっと無理矢理フル回転させてた……。

あきらかに、私の中で流れる「時間」は、昔とは変わってしまっている。

それは悪いことだけではなく、「無茶なフル回転」を防ぐ、という面もある。

ただ、私がそれを心から「良し」と認識できないのだ、今はまだ、たぶん。

だから、時間は「わざとゆっくり」流れているのかもしれない。

ぴかぴかの大型エンジンの車から、ある日、突然、

一気にポンコツ車に乗り換え……強制的に乗り換えさせられてしまい、

今は、ゆるゆる走る小型車の自分になったのだ。

乗り心地に慣れる時間も必要だし、慣れてきたつもりでも、

昔の車のよい点を、それはそれとして懐かしむくらいは、

まあ、あっても構わないんだろう。

そう、もう昔のようには、走れない。

また壊れるかもしれない、という不安もどこかにあるし、

何より、二度とあんな苦しい思いをしたくはない。

あんな暗闇にまた落ちるくらいなら、

今の「苛立つ」自分のほうが、よっぽどマシ、なのだ。

どんな車で、どんな道を走ろうとも、

私は「幸せ」で「楽しく生きる」ことを求めている。

走っている最中ですでに、また、ずっと一生、それを求める。

道も、車も、確かに変わったけれど、

その「求めるもの」は、変わっていない。

そして、どんな車でどんな道を走ろうとも、

その過程で「楽しく」「幸せに」なることは、実は可能なのだ。

変わったからこそ。

ゆっくり走るからこそ、見えてくるものもある。

昔とは違う部分での「楽しみ方」にも、気づけるチャンスがくる。

気づくかどうかは、自分次第なのだ。

変わった自分を、良し、と思うこと。

無理矢理にではなく、「これも“あり”なんだな」と、認められること。

そういう視点、受け止め方……の変え方を、

知っていく機会であることは間違いないのだから、

そっちにもっと、意識を持っていこう。今は、それを味わおう。

どんな状態であっても、

何をしても、

あなたは幸せであっていいのだ。

その方法は決して、あなたの知っているやり方だけではないのだ。

もう、急ぐことはできない。

ホントは急ぐ必要もない。

昔も、実は必要なかったのだ。

ならば、のんびり、行こう。