外側の時間、内側の時間

鬱という病のせいで死にたくなったあと、そこから復活していく間は、

毎日が過ぎるのが本当に早かった。

それなのに、自分が変化していく速度はとても遅く感じられて、

いつまでたっても、そこにとどまっているような感じ。

ちょっとは回復の階段を上れたりするけれど、

すぐに踊り場のようなところで立ち止まって、

いったんそうなると、次の段へはなかなか足をかけられない……。

私はずっと、そんなふうに感じていたし、

その傾向は、今でも少し、続いているのだと思う。

苛立つときもある。焦るときも。

だからといって、何も変わるわけではないから、自分自身にがっかりする。

場合によっては、段差をまた「降りて」しまったんじゃないか、と疑ったりね……。

でも、私の例で言えば、昔の「サクサクできる」自分は、無理してた。

どこかで、我慢して、無茶してた。

今だからこそ、その「サクサク」が懐かしく、ある意味うらやましくさえ感じるけれど、

やってる最中は、結構、必死だったよ。

エンジンは常に全開で、確かに多少は性能、良かったかもしれないけれど

それでもずっと無理矢理フル回転させてた……。

あきらかに、私の中で流れる「時間」は、昔とは変わってしまっている。

それは悪いことだけではなく、「無茶なフル回転」を防ぐ、という面もある。

ただ、私がそれを心から「良し」と認識できないのだ、今はまだ、たぶん。

だから、時間は「わざとゆっくり」流れているのかもしれない。

ぴかぴかの大型エンジンの車から、ある日、突然、

一気にポンコツ車に乗り換え……強制的に乗り換えさせられてしまい、

今は、ゆるゆる走る小型車の自分になったのだ。

乗り心地に慣れる時間も必要だし、慣れてきたつもりでも、

昔の車のよい点を、それはそれとして懐かしむくらいは、

まあ、あっても構わないんだろう。

そう、もう昔のようには、走れない。

また壊れるかもしれない、という不安もどこかにあるし、

何より、二度とあんな苦しい思いをしたくはない。

あんな暗闇にまた落ちるくらいなら、

今の「苛立つ」自分のほうが、よっぽどマシ、なのだ。

どんな車で、どんな道を走ろうとも、

私は「幸せ」で「楽しく生きる」ことを求めている。

走っている最中ですでに、また、ずっと一生、それを求める。

道も、車も、確かに変わったけれど、

その「求めるもの」は、変わっていない。

そして、どんな車でどんな道を走ろうとも、

その過程で「楽しく」「幸せに」なることは、実は可能なのだ。

変わったからこそ。

ゆっくり走るからこそ、見えてくるものもある。

昔とは違う部分での「楽しみ方」にも、気づけるチャンスがくる。

気づくかどうかは、自分次第なのだ。

変わった自分を、良し、と思うこと。

無理矢理にではなく、「これも“あり”なんだな」と、認められること。

そういう視点、受け止め方……の変え方を、

知っていく機会であることは間違いないのだから、

そっちにもっと、意識を持っていこう。今は、それを味わおう。

どんな状態であっても、

何をしても、

あなたは幸せであっていいのだ。

その方法は決して、あなたの知っているやり方だけではないのだ。

もう、急ぐことはできない。

ホントは急ぐ必要もない。

昔も、実は必要なかったのだ。

ならば、のんびり、行こう。

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