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「イヤだ」「ダメだ」を見つめてみる

ひどい鬱状態だったときのことを思い出してみると、自分は感情に支配されていたな、と思う。

「とにかくダメ」「もうダメ」「こんな自分がイヤ」という気持ちだけが思い浮かんで、

ただただ、暗くて重くてつらい気持ちが、自分の全部を支配していた。

何かを「感じる」とき、そこには必ずそう感じる「原因」がある。

悲しくなったときに泣くのは、泣く理由がある。「こう思ったから」こそ泣く。

そして「こう思った」というその奥には、「なぜ、あなたはそう思ったのか」という理由もある。

それが「あなたの受け止め方」「価値観」などにつながっていく部分だ。

でも鬱状態のときには、もっと表面的な、たとえば「泣く」という部分に支配される。

「悲しい」「悲しい」「悲しい」、という感情だけが渦巻いて、それだけでもう、いっぱいいっぱいになるのだ。

……そんな状態、もう、想像しただけでつらそうだよね。

だから「ダメだ」→「死のう」ってところへも、つながっていってしまう。

まずは、頭の中で苦しい気持ちをリピートさせないこと。

泣きたいときは泣いてもいいし、つらいなあ、という感情も、確かに味わってもいいのだけれど、

わざわざ「つらい」「ああ、つらい」「つらい」って、思いを繰り返さないこと。

試しに「イヤだ」を口に出して繰り返してみれば、わかると思う。

「イヤだ」「イヤだ」「イヤだ」……「イヤだーっ!!」って、最後は叫びたくなったりする。

感情がどんどん高ぶっていって、頭の中でも身体の中でもどんどん、「イヤだ」がふくれあがっていくのだ。

鬱という病気のときは、そうした傾向を「助長する」脳になっていることを、まず知っておいてほしい。

咳が出ているときに乾燥して冷たい風に当たると、咳が一瞬、悪化するのと同じように、

それは単に「病気のなせるワザ」なのだ。

だから、そのようなときは、ちょっと深呼吸して落ち着いてから、こう自問自答してみてほしい。

「イヤだ」

→何がイヤなの、自分?

「○○○がイヤ」

→その○○○の、どこが、どんなふうにイヤなの?

→「○○○の、△△△なところがイヤ」

→△△△がイヤなのはなぜ?

→「△△△は、□□□□だから」

→その□□□□を、そう感じるのはなぜ?

→「×××だから」

→その×××は……

という感じである。

キーワードは「何が」「どこが」「どんなふうに」「なぜ」。

それを使って掘り始めると実は、過去の苦い経験や、自分のプライド、

自分の価値観などが、結構、見つかっていく。

「イヤだ」と感じる感情の奥には、そうしたものがいろいろ詰まって、複雑にからまっているのだ。

これを繰り返してみると、最後には「今はどうしようもない」とか

「すぐには変えられない」ところへ行き着く場合も多いと思う。

でも、自分はそういう考え方をするんだな、ってわかることは、のちのち助けになるし、

過去の経験なら、もう「繰り返さない」ようにすればいい。

昔、上手にできなかったことだって、今からは、それが上手にできなかったことを「知ってる」のだから、

気をつけるなど対処のしようもある。

たとえば人との関係だって、子どものときには上手い言葉が見つからなくて言い返せなかったことでも、

今ならもう、相手に説明するための言葉を思いつけたりするでしょう?

そうやって、過去にこだわってたんだな、と思えたら、もう、それに気づいたことそのものが、

手放すきっかけになっていくのだ。

そこで「イヤな状態」が即、解決できるとは限らない。

何度も言っているように「病が治るための時間」だって必要だ。

でも「イヤだ」の感情で、頭と身体をパンパンにするよりは、よっぽどマシだと思う。

少なくとも原因がちょっと見えてくれば、その発見をカウンセラーさんに打ち明けたり、

信頼できる、受けとめてくれる友達に話してみたりすることで、

また、違ったものの見方をみつけられるかもしれない。

どんな経験、どんな価値観、どんなプライドだって、

あなたをこれまで、ある程度、守ってはきてくれたのだ。

でも、今はもう、いらないものだってあるかもしれない。

それがたまたま今、あなたを暗い気持ちにする原因になっているかもしれない。

必要がなくなったな、と思えるものがもしあるなら、これまでありがとう、って感謝して、

手放していけばいいのだ。そういうふうに、捉えればいい。

自分をいたわるために、自分を知る。

これもまた、つらい中でみつけた「せっかくの機会」だと思っていい。実際、本当にそうなのだから。

どうか、感情に巻き込まれ、飲み込まれ続ける苦しい時間を、少しずつでも減らせていけますように。

罪悪感、というもの

何かの原因によって鬱になった人がほぼ全員、感じるのが、罪悪感である。

過去の自分の行動に対して。

今、動けないことに対して。

これから先もしばらく、何もできそうもないことに対して。

家族、同僚、友人、場合によっては親族や自分の師、顧客など、

日頃、関わっているこれらの人に対して「ごめんなさい」と感じることが多いと思う。

病気になってごめんなさい。

これは、風邪や骨折などもそう思う。誰でもそう思う。

普段の自分が果たしていた「役割」ができなくなったり、誰かの補助を必要としたりするから。

誰だって本当は健康でいたいし、迷惑をかけたくない、と思うはずだ。

だが、鬱になると、これがなんだか「別物」扱いになってしまう。

すべて、自己否定につながるのだ。

まるで周囲で起こる出来事、何もかも全部が自分のせいであるというくらい、ひどく落ち込む。

こういうときに限って、たとえば悩み相談などの投稿サイトに行って、

同じように悩んでいる人を探してみたくなったり、

場合によっては正義感にかられて怒りたくなったりする。

義憤、というヤツである。

それによって少しでも、自分のことを正当化したいのか? なんて、

私は自問自答もしつつ、2ちゃんねるを読んだり、読売新聞の「大手小町」にはまったりしていた。

人の暗部を、覗きたかったのだろうか。

自分だけではないと、思いたかったのだろうか。

本当のところは自分でもよくわからない。ただ、何か、憂さ晴らしのような感覚はあったように思う。

しかもそうやって何時間もサイトをうろうろした挙げ句に、

あとから「ムダに時間を過ごした」ような気分になって、よけいに自分を責めてみたり……。

ホント、何をやってるんだか、という感じだった。

ただ、この行動については以前、心理カウンセラーの衛藤先生が

「人は義憤にかられると、心理学用語でいうところの

『お助けゲーム』を展開してしまう」ということをブログに書かれていた。

→日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき

「黙考の中で•…」 2011-03-13

http://ameblo.jp/n-etoh/entry-10829651508.html#main

つまり私も、少しでも何か、役に立ちたいがゆえの行動……という面も、あったのかもしれない。

いずれにしても……ね。

今になって思う。「病気なんだから、もっと開き直っていれば良かった」と。

心の病気は、確かに風邪より治りにくい。いつ治るかなんて予測も立たない。

しかも気分は毎日最悪だ。ホント、良くなるなんて、ちょっと想像がつかない。

別に熱もあるわけじゃないし、身体は動くはず、怠けてるだけだ、なんて感覚も生じてくる。

それでもさ。

身体と心が密接に関係している以上、あなたの身体も、確かに「弱って」いるのだ。

何かが、狂っているはず。心の不調は、身体のどこかに表れてくる。少なくとも脳は働きがおかしい。

であれば、もうまさしく「病気」なんだよ。

風邪を引いたら、あきらめておとなしく寝てるよね? 熱がなくなった瞬間に動き出したりしないし、

症状がなくなるまでは、何かと用心するよね?

それはまさしく「仕方ない」というあきらめ、そして割り切りがあるからこそ、できること。

鬱だって、本当は同じなのだ。

割り切っていいのだ。

なんとか会社や学校に行けちゃったり、家事をこなしたりはできるから、開き直れなくなる。

それはとてもよくわかるのだけど、もっとしっかり自分の状態を自分で「認識」してあげないと、

それこそ気持ちは、いつまでたっても前向きになれない。

何か、原因があって、その病気になったのだ。

たとえばその何かが「過去」のものであれば、時間をかけて記憶を風化させる、というやり方で

時間はかかるけれども、少しずつ立ち直ることはできる。

逆にそれをずっと何度も思い出し、味わい続けていると、いつまでたっても風化させられない。

憎い人は憎いままだし、ダメな自分はずっとダメなままだ。

抱え込んで再生を続ける限り、その気持ちは続くだろう。

事実はただ、「そういうことがありました」である。

取り戻しもできないが、そのシーン、そのときのその事態に、二度と逆戻りすることもない。

実際には、過去の一通過点、なのである。

自分が罪悪感を持ち続けることは、そうしたことを「再生し続ける」ということにもなる。

持ち始めた原点が「過去の出来事」だから。

つねに、そこへ戻って行ってしまう。

はい、もう、いいんです。

あなたは今、実際に病気にかかった人なんです。

風邪を引いたときのことを延々、悔やんだりしないように、

治す方向へ、気持ちを向けていこう。

それはとりもなおさず、自分が「未来」を向くということにも、つながるのだ。

サイトをうろうろしたって、自分は弱いんじゃなく、人の役に立ちたいんだな、と思えばいいし、

ゲームやDVDにはまったり、不眠になったり、昼夜逆転したりしても、

休む、というところから考えれば、よい気分転換である。

起きていられるのなら、お腹は空くだろうから、別に夜中に何か食べたっていい。

性格が原因だろうが何だろうが、今は病気なんだから、もっと自由でいい。

自分を責めているなら、それより先にもっと自分に優しくしてあげて、構わないのである。

食べることと眠ること、呼吸すること

タイトルに書いた3つすべてが、鬱々とした気分に、おおいに関わっている。

これらが「まとも」じゃないと、人は、気分が「暗くなる」のである。

カルシウムが不足するとイライラする、という話を聞いたことはあると思うが、

カルシウムの吸収にはマグネシウムの助けが必要だ。

そんなふうにして、「栄養」は体内で相互に働きながら、あなたの身体をつくっている。

今日食べたものが、明日以降、文字通り、あなたの身体の一部になっていくのである。

だから、たとえば痩せたいと思うあまりに食品の量と種類を減らし、

ある一定の栄養素しか摂らないでいると、身体の中で「不足」するものが現れ、

それによってバランスが崩れてくる。

ビタミン剤などのサプリメントで補えばいい、という意見もあるが、生の食材にはその他に「酵素」などの

成分も含まれているし、同じビタミンでもさまざまな種類がある(例としてビタミンBは1~12まである)ため、

やはり、品目を増やしてできるだけ多くの種類の食材を食べたほうが、身体はバランスを保ちやすくなる。

せっかく痩せても、10年後に肌がボロボロになったりしたらイヤだと思うし、

鬱だって、脳内の物質を少しでも正常に保つためには、少量でもいろいろ摂取していくことが

本当は大切なのだ。

海外の人は野菜を食べないじゃないか、と思われるかもしれないが、欧米人とアジア人では、

(詳細は調べていないのでわからないが)「遺伝子」がいろいろな点で違うらしい。

たぶん、狩猟民族と農耕民族の違いなのだろうと思う。アジア系は概して、野菜を多く食べる。

海外の人のようにお腹がでっぷり太った場合、アジア人はかなりの確率で高血圧になるが、

欧米人は、その体型でも別に血圧が正常で、長生きする人だって大勢いるのだ。

睡眠も、質が悪いと体調が悪くなる。体調が悪くなると機能がうまく働かなくなったりするし、

これもまた、気分にいろいろとかかわってくる。

寝ている間、身体は落ち着きを取り戻す。交感神経が休んでいる間に今度は副交感神経が活発化し、

また、さまざまな調整を行うのだ。

脳の記憶も、寝ている間に整理されるという。

脳の働きが気分に影響するのだから、そう考えるとよい睡眠を取ることを目指したほうが、

鬱々とした気持ちに効きそうなことは、容易に想像できると思う。

朝、おひさまの光に当たることで脳内では交感神経が目覚め、皮膚の上ではビタミンDがつくられる。

それだけ考えても、せめて「太陽が昇っている間に目覚め、暗いうちに眠ることが、結構大切になる。

呼吸は、さらに気分によって変わる。ドキドキしたとき、不安なときには呼吸が浅くなる。

だから深呼吸すると落ち着くし、さらに空気のよいところで深呼吸すると、気持ちいいのである。

また、たとえば森の中では「フィトンチッド」と呼ばれる成分を、呼吸で体内に取り入れることができる。

するとその成分によって心が落ち着き、気分がよくなる。

水滴が落ちるときに放たれる「イオン」も心地よさをもたらすことは、テレビなどでご存じであろう。

これもまた、呼吸によって、体内に取り込まれる。

であれば、可能なときに少しでも川べりを散歩したり、木の側に行って匂いをかいでみたり、

風に当たって土の香りや心地よさを感じてみたりすることは、心に「効く」のである。

かといってこれらを全部、意識的に実行することは、なかなかできないであろう。

それは、私も鬱病を経験したからわかってはいる。

そんな前向きな気分になれるときは少ないし、今はとくに、関東・東北圏の人は、

長時間外を歩くことさえイヤかもしれない。

だがちょっとだけ、気が向いたときだけでも、これらを実行することは、

あなたの気持ちを変えるために確実だし、即効性もある。

部屋にこもって、頭でいくら考えても、あなたの気持ちはなかなか前向きにはなれないだろう。

でも単純に、身体や脳の働きがよくなってくれば、自然に気持ちは上向きになる。

旅先などで爽やかな朝を迎えると、それだけでもう気分がいいことは、過去に経験したことがあるだろう。

それが毎日続けば? と考えてみれば、気分は良くなっていきそうな気がしないだろうか。

ほんの少しでも意識して、ほんの少しでも、これらの「質」をよくしてみること。

それもまた、あなた自身を大切にし、いたわり、変えていくためのきっかけになっていくのである。