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言葉の裏に潜むもの

鬱のときになりやすかったことをもうひとつ、思い出した。

私に限らずだと思うけれど、人の言葉を「悪い」ほうへ取りやすい。

主には、自分に対する非難、叱責などだ。

「それって怒ってるの?」とか「それは私が悪いってこと?」というふうに。

自分に自信がないこと、自分を否定していること、周囲に迷惑をかけているという自覚があること。

たぶん、そういう思いが、人の言葉を自分にとって悪いほうへ「疑う」ことになる。

で、相手はそんなつもりではなかった場合、微妙に気まずい空気になる。

「なぜそんなふうに受けとめるの?」と思うから。

これはもう、鬱という病の、副産物みたいなもの。

勝手にそういうことが起こってしまう、くらいに考えていい。

だって、あなた自身が「うまくいかない自分」をどこか、嫌っているのだもの。

じゃあどうしようもないのか、と言えば、一応、対策はある。

自分がそうなりやすい、と自覚すること、

それはこの病のせいであると、きちんと「把握」しておくこと、だ。

それがわかっていれば、人の言葉を悪いほうへ受けとめたとき、

それが自分の心のせいなのか、相手が本当に非難、叱責しているかを、「瞬時」に判断しなくなる。

相手の様子をもう少しみて、どんなつもりで相手が言っているのかを、はかることができる。

言葉は、いいようにも悪いようにも解釈できるから、

相手の真意がどこにあるか、ひと言では判断できない場合がある。

遠回しのなぐさめだって、あなたには一瞬、非難に聞こえるかもしれない。

であれば、自分がまず、悪い方向へ受けとめやすい状態であることを自覚したうえで

「何を言いたいのかな」と、少し判断を保留すればいいのだ。

つまりは、すぐに言い返さず、いったん黙って様子をみる。

相手のあとに続く言葉が、さらに非難や叱責の意味を含んでいるかどうか。

それとも単なる一般論なのか。あるいは違う方向へ進んでいくのか。

病気であることを、自分が責めているのは、仕方ない。

普通に風邪をひいたり、怪我をしたときだって、自分を非難するだろう。

それは「周囲に迷惑をかけている」という気持ちもあるからだ。

でも、何十年も100%健康でいられる人のほうが少ない。

心の病も、あなただけに限った話ではない。

しかも、自分を責めれば責めるほど、この「悪い方向」への受け止めは大きくなり、

余計に周囲に迷惑をかけてしまう。

その病気は治せるのだ。完治には時間がかかる人もいる。「寛解」にしかならない、という説もある。

いや、そもそも、人生で「暗いこと」がまったく起こらない人はいない。

誰だって落ち込むし、泣きたくなるときがある。

そう考えたら、みんな痛みを抱え生きているってことになる。

だから、まずは自分を責めるのをやめていくこと。

それを続けても、いい方向には変われない。

周囲の人との関係だって、うまくいきにくくなる。

相手の言葉の裏に潜んでいる気持ち。どうしてこの人はこんなふうに言うのかな、

私に何を伝えたいのかな。

そうしたことって、これまではあまり「静かに」考えてこず、

普通にさっと言葉を返していたと思うけれど、

せっかくの「機会」だと思って、落ち着いて受けとめる練習をしてみよう。

そしてもし、非難されたとしても、前にも書いたように「骨折」を責められているようなもので、

非難されたら即、骨が治るわけではない。

そのことも自覚して、でも実際、骨折はしているのだから、仕方ないよな……くらいに受けとめて、

自分を責める材料に、変換しないようにしていこう。

相手は「心配」という形で愛情を表現してくれているかもしれない。

するとその「心配」が「悪い予想」として言葉に出されることもありうる。

そう、言葉に潜む真意は、普通のときでもわかりにくかったりするのだ。

大丈夫。治せていけるから。

心の中でなく、周囲の人とのかかわりでも自分を責め続けるのは、もうやめよう。

やるべきことと、やれることと。

鬱になった人は、自分が「もうできない」「元に戻れない」ことを思い、

それだけですごく、暗い気持ちになると思う。

自分に対しても、誰かとの関係でも。

たとえば誰か相手がいた場合、まったく元通りになれるかどうかは、

「あなたひとりでは決められないこと」なので、それについての“絶対”はない。

ただ、あなた自身が「元通り」になっていく……という言い方だと、実は語弊があるのだが、

少なくとも、今の状態より復活して、あなたの思う「普通の日常生活」を

取り戻していくことは可能である。

それは、あなた自身が変えていける範囲であれば、可能なのである。

新しい感覚の「普通の日常」を手に入れる、と言ったほうが、わかりやすいだろうか。

病気になる前の状態を望む人も多いそうだが(私も確かに、最初はそうだった)、

それでは「繰り返し」になるだけである。また、どこかで何かが無理になっていって、

あなたは自分を痛めつけてしまう。

その、「痛めつけてしまう」習慣は、もう外さなくてはいけないのだ。

そしてそういう習慣こそ、あなたがまさに鬱になってしまうほど、

何らかの「こだわり」「関心が」が大きかった部分なので、外していくのが苦しい。

「苦しいに違いない」「できない」「それだけはイヤ」と、感じる人もいると思う。

たぶん、あなたの生き方や価値観にも、関わっているはずだから。

でも大丈夫。人は、苦しまずに変われるのだ。

目の前の仕事や勉強、人間関係など、「やらなくてはならない」と思っていることを、

前のようにサクサクとこなすことは、確かに難しいだろう。

足を複雑骨折した人は、元通りに歩けるようになるまでに時間もかかるし、練習もしなければならない。

新しい神経回路をつくり、それによって動かす練習が必要な人もいるだろう。

そう、何もかも、元通りでなくていいのだ。すぐにガツガツ、サクサク、でなくてもいいのだ。

普通に暮らしていたって、人は変化していく。のんびり暮らしている人でも、

毎日が完全に、完璧に繰り返しになれば、それこそつまらないだろう。

会社と自宅の往復……という生活であっても、仕事の内容は変化していくし(完了→次、というふうにね)、

周囲の人も、環境も変わっていく。

マシーンのように単調ではないからこそ「人生」なのだ。

あなたが「やるべき」ことはたぶん、目の前の仕事や人間関係、ではない。

そんなものは、心が痛んでいる今「できる範囲でこなす」だけでいい。実際、それしかできない。

本当に「やるべきこと」は、痛んだ自分を回復させること。

「回復」という形で、新しい「これで良し」と思えるやり方を見つけることのほうが、もっともっと大切だ。

ものごとや人間関係を、楽しく受けとめられること。あなたが、そう感じられるようになること。

「もう一度、人生の小学校、1年生に入学しました」くらいの気持ちで、前のやり方にこだわらずに、探すこと。

やるべきは、それだけなのだ。

小学校1年生が、6年生の問題を解くのは難しい。

でも、絶対に解けないわけではない。

遅々として進まない状態に、苛立つこともあるだろう。

目の前の問題が、高校入試レベルくらい、難しく感じることもあるだろう。

でも、できるのだ。それは本当に、できるのだ。

あなたが自分を、あきらめさえしなければ。

自分を見捨てさえしなければ、新しい解き方を見つけて、進んでいける。

世界の人口は約69億人、だそうである。

つまり69億通りの環境があり、生き方、やり方、進み方が、今、現実にある。

1回や2回、10回、あなたが「間違えた」と思ったところで、69億通りもの例があるのだから、心配しなくていい。

少しずつでもやれることを、学んでいけばいいのだ。

本から、映像から、人の言葉から、そう、少しずつ。

あなたは、やれることをやればいいし、

自分をもっといたわって、大切にしていけばいいのだ、これからは。

これまでの自分もがんばってきた。

でも、もっと明るい方向へ、楽しくてラクなやり方で、生きてみようよ、これからは。

そうやって生きて、いいのだから。

しがみつくのをやめていく

あなたの心が今、苦しいのは、「過去と比べた」自分を今、並べて見ているからだ。

よかったことも、悪かったこともあるだろう。

後悔、恨み、痛み、悲しみ、そうした点を思い返しつつ、

その一方で良かった点も、できていたこと、よい状態だったことを懐かしみながら、今と比較している。

良かった点については、そういう気持ちになれたこと、そういう経験ができたことを、喜んでいい。

ただし「今との比較」は意味がない。

過去は、もう戻らないから。

悪かった点については、それこそ、思い出を変えることはできない。

どちらも、視点をそこに固定している限り、あなたはそれに「執着している」ことになる。

イヤだったことを忘れたい、と思うのなら、それこそ、他のことを考えるしかない。

イヤだった、イヤだった、イヤだった、とこれから先も唱え続けて、それでいつか、そこから抜け出せるだろうか?

同様にできていたこと、良かったことも、

あのときはよかった、よかった、よかった、と思い続ければ、また元に戻るだろうか?

いいのだ、もう。いずれにせよ、あなたはそれを経験した。

それを経験したことによって、今がある。

確かにつながってはいるけれど、止まっているわけではない。

変化は起こったし、これからも、変わっていくのだ。

どちらにも「しがみつく」のは、もうやめよう。

良かったことに対しては、その時間、その出来事、その相手に、心から感謝して、

悪かったことにはお詫びの気持ちを真剣に思い浮かべて(相手がいようと、自分自身に対してだろうとね)、

どちらも「手放す」ということを、意識していこう。

あなたのこれからは、「過去」には存在しない。

今、また初めて、明日に向けての変化への一歩を踏み出すこともできる。

苦しい人、あなたが見つめるべきは「今から先」なのだ。

そこから抜け出せるかどうかは、「今から先」のあなたが選べる。

絶対に無理、ということはありえない。

心がどんなに揺れようとも、たとえ振り子のように進んだり戻ったりしようとも、

同じ状態にとどまることはない。

あなたが「変えたい」と思えば、たとえ0.1mmずつでも、変化を起こしながら、進んでいけるのだ。

そんなことが本当に誰でもできるのか? なぜそう言い切れるのか?

それは、昨日が、今日と同じではないから。明日が、今日とは同じではないからだ。

あなたは決して、その苦しみに「閉じ込められている」わけではない。

あなたが「見ないようにしている」だけ、あなたが自分でわざわざ足元の一点だけを見つめ、

そこにとどまることを、選択しているのだ。疲れているから。

だから、何度でも言う。

疲れていることを自覚しているのだから、今は休もう。

脳が作動ミスを起こし、死か生か、その一点しか見つめられない状態へ、あなたを追い込んでいる。

少しでも、別のところを見つめられるようになるまで、「休み」を取ろう。

休みを十分とって、頭が少し、別のことを考えられるようになってから。

「変化」を少しずつ、認めていこう。

自分で反省したい点は、反省すればいい。

でも、「取り戻せないもの」を悔やみ続けるのは、もうやめよう。

結果がそうなるとは知らずにやってしまったことも多いだろう。

であれば、知らなかった自分を責めても、ある意味、仕方ないのだ。

今からなら、自分をまた、変えていける。

まったく同じ道には戻れないかもしれない。

けれど、逆に言えば、戻らなくてもいい。それはもう、過去に経験したのだから。

新しいことを、新しい生き方を、新しい視点を、「これから」また、知っていっていいのだ。

それはきっと、あなたの人生をより深め、彩りも豊かにしてくれるはずだから。

よいことも、悪いことも、両方、しがみつかなくていい。

怖がらなくてもいい。わざわざ苦しみ続けた挙げ句に「死」を選ぶ必要もない。

ただ素直に感謝して、十分に悲しみを味わったことを感じたら、徐々に手放していこう。

少なくとも今は、そうできることを知っているだけでもいいのだ。