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話すことによる視点変換

昨日、友達といろいろ話したことで改めて実感したのが、自分の気持ちを正直に話すことの「効果」だった。

そこでいきなり、解決策が見つかるとは限らない。「こんなことで苦労している」とか

「自分でいまだに納得できない」といったような、単なる経過報告であっても、

自分自身で恥じている点、困っている点、納得できないで自問自答している点などを

正直に話してみると、それだけで「毒」が少し抜けたようになる。気持ちも身体も軽くなるのだ、単純に。

ただしこのとき、ひとつのポイントがあるように感じる。

それは、話すことによって何かメリットを得ようとしないことだ。

心理学の本にあったのだが、自分のことを知ってもらうことで「場の中心になりたい」「同情をひきたい」

という気持ちが隠れていると、「悲劇の主人公」を自分で楽しんでいる、ということになる。

そうなると、その問題を根本解決することは難しくなるし、

同情をひくことによって目立ちたい」という意識がひどくなると、

自作自演で事件を引き起こしてしまうことにもつながるそうだ。

子どもが事故に遭った母親、実は虐待……などという痛ましい出来事がそれである。

そうではなく、自分で「情けない」と思うこと、こんなことを話してはあきれられてしまうんじゃないかと

不安に感じること、そういった「恥」の部分を、思い切って話すのだ。勇気はすごく必要だけれどね。

話してみると、途中で「どうして私はこだわってるんだろう」という新たな疑問が出てきたり、

「なんだ、結局はこういうことかも」といった、別の視点がみつかる。

ときには「結構、たいしたことのない問題なのかも」と、思えたりもする。

たぶん説明するために、自動的にちょっと離れた目で、その問題をみつめられるのだと思う。

勝手に「少し客観視」できるのだ。

もちろん、それを聞いて「ダメじゃない!」と説教をするような人は、話相手に選ばないでほしい。

「人生、自分ではどうしようもないことってあるよね」と、その内容がどんなものであれ、

淡々と受けとめてくれる人。そういう相手を選んでほしい。

私自身、今でも日々、いろいろなことが起こり、そのたびに考えたり、喜んだり落ち込んだりする。

そうした出来事のなかで、自分自身「引っかかってしまう」ことが出てきたときに、

気の置けない友人に話を聞いてもらっている。

同様に、信頼できるカウンセラーさんにも、自分の気持ちが「暴露」できて、ホッとしたことがある。

そうやって少しずつでも、心の「オリ」を取り除いたり、視点を変えていけることによって、

やがて「転換点」も現れてくるのだろうと、私には感じられる。

これだけは何度も実感してきたので確信を持って言えるが、

どうしたらいいのか、その新たな道は、本当にちゃんと「自分の中に準備」されている。

ただ、今は埋もれていて見つけられないだけなのだ。

人に思い切って話すという行為は、それを「納得できる形」で登場させるための、

一種の整理、掘り出し、道筋つけなんだろう。

相手に聞いてもらえるのであれば、ときに同じ内容を繰り返したって構わない。

前とは違う視点が見つかるかもしれない。

ぜひ、上手に活用していってほしいと思う。

「嫌い」「嫌い」を続けると

昨日の話に関連して、思い出したこと。

自分のことを「イヤだ」「許せない」「嫌い」だと思い続けるとき、その感情は繰り返される。

私自身がまさにその穴に落ち込んていたときは、それを自分に「刷り込んでいた」ような気がする。

自分を“わざわざ”そこに閉じ込め続けていたのだ。

日本では言霊(ことだま)と言われたりもするけど、要は「思い込みの強化」をする練習と同じであるように感じる。

ある意味、それ以外のことを思わないよう、自分で自分を固定し続けていたのだと。

そんなこと言ったって! と思われる人もいるだろう。

そこから抜け出せないから、苦しいんじゃないか、と。

たしかに、そうした気持ちが続くのが「脳の誤作動」であることがわかったところで、

湧き上がる感情をセーブする、抑え込むことは難しいと思う。

とことん思いこんで、飽きるまでやってみようとしたって、趣味ではないのだから、飽きる、という限界点もない。

「~してはいけない」とセーブする、抑え込む、という考え方自体が、違うのだ、たぶん。

それは単なるブレーキであり、アクセルを勝手に踏む自分をひたすら「止めよう」と力むことである。

以前、心理学系の本で読んだのだと思うが、「ロミオとジュリエット」は、

「周囲も自分たちも、本当はダメだと思い込んでいる」からこそ、逆に抑えきれなくなった。

感情にブレーキをかけると、かえってそれが燃料になって、より強く燃え上がってしまうことがあるのだ。

では、どうすればいいのか。

そんな自分がいることを、ただ単純に認める、のである。「ああ、今、そんな気持ちになっているなあ」と。

それを「許せない」と思うからこそ、ブレーキになってしまう。

好きとか嫌いとかいう感情に正解も不正解もない。間違っているかどうか、正しいかどうか、でもない。

たまたま、そう思うのは本当は嫌だなあ、という自分がいて、でも、思っちゃう自分もまあ、いるのだわ、と。

ただ、それだけでいいのだ。

不思議なことに、そうやって「外から見る」ように、自分のマイナス感情を認めてあげると、

だんだん、こだわらなくてもよくなってくる。

私は昨日、「人を苦手だとか感じる自分自身がもう、自分で面倒」ということを書いた。

たぶんその気持ちも、今日の延長上にある話。

「イヤだ」とか「嫌いだ」と思う気持ちは、別に、あったとしても構わなくて、

ただもう、そのことに自分が「こだわってしまう」ことが、面倒くさいのだ。

人に対して感じる気持ちを、解決しようとか、避けようとか、そんなことも、

必死で考える必要、本当はないんじゃない? と。

「そうなんだなあ」と、思えるようになれば。「そう感じる自分」はいて、

でもそれを「悪いこと」とも「いいこと」とも思わず、自分が正しくて相手が間違っている」とかも関係なくて、

私は今、たまたまそう感じる。でも相手の問題は相手の問題、と、思えれば。

つまり否定を感じる相手が「他人」だろうと「自分」だろうと、どちらでも一緒なのだろうと思える。

そんな自分は未熟、そんな暗い自分はイヤ、と否定したら、結局また「自分はダメ」の上塗りになる。

気持ちが痛んでいる今は、どうせ脳の誤作動なのだ。脳みそがミスして、自分を追い詰めているのだ。

気持ちって、そこまで身体に影響するんだ、ある意味、すごい話だなあ、と思えたりしないだろうか。

自分を嫌いな自分、他人を憎む自分は、別に「いても構わなくて」、今はたまたま、そう感じているのだということ。

それは一生続くとか、放っておいたら増幅するとか、そんなことまで

「今の段階で想像、あるいは規定する」必要もない。

先のことなんて、誰にもわからない。

今はそんな自分もいるけれど、まあ、きっとまた、そのうち別のいい面も、自分で認められるようになる、

と思っていればいいのだ。

そんな楽観主義的な、いい加減な! と感じる人には

そんな悲観主義な! 固定観念的な! と尋ね返したい。

どうせ放っておいてもあなたは真面目だし、きちんとものごとを解決しようとするし、責任感もある。

だからこそ自分を責めて、鬱という病にまで達しているのだ。

そのきっかけが他人や仕事など「他のもの」のせいであっても、結局は自分を責めている。

他の人を「憎む」自分自身を嫌いだと思えるのだから、本当に「適当すぎる」人にはならない。大丈夫なのだ。

そんな自分がいる、と、遠くから見つめられるようになるには、時間がかかるかもしれない。

一気に客観視できて一気に楽になる、というのは難しいと思うけど、自分を否定し続け、

追い詰め続けなくても、そういう「脱出方法」もまたひとつ、あることを知っておいてもらえたらと思う。

もちろん私も、まだまだその練習中だ。だからこそ、実感を持って言えるのだけれど、

思っていた以上に、徐々に、生きるのが楽にはなっていってる。それは確かだ。

「嫌い」とか、「ソリが合わない」と思う人

私にもまさに、タイトルのように感じる人がいる。

それを思い出したのは昨日だったが(笑)、なんだか「会いたくない」と思っているのだ。

たまたま会う機会を、私がみずからつくることになるかもしれない、となったときに

突如、自分のなかに「あ、今はまだ、彼女と会うのが面倒くさい……」という気持ちが湧いた。

別に大嫌い、というわけではない。そもそも、それほどよく知っているわけでもない。

最初に会ったときの彼女の話しぶりや振る舞い、彼女が書いているブログ、

その他、人から聞いた話などで、私の中にある種の「イメージ」ができていて、

うーん、あんまりお近づきにはなりたくない……と、思っていた。

で、結構、拒否してたんだなあ、と気づいて、どうしてだろう、と思った。

いろいろ、思い出したり紙に書いたりして整理していったのだが、

「こういうタイプの人がもともと苦手」で「何かと気を遣わせられる」し

「本人はそういうこと、気づいてない」ところが、わずらわしいと感じるよう。

そのあたりで、私が線を引いちゃっていた、と。

長い時間一緒にいて、彼女の他の面を見たこともないので、余計に

「感覚的に苦手」になってるんだな、と思った。それが全部、ではないかもしれないのにね。

まあ、だから、色眼鏡で相手を見ているようで、申し訳ないとも思える。

が、すでにそう感じている相手とちゃんと話してみよう、向き合ってみようとするのは、

それなりの決意と肚づもりも必要だと思った。理性ではなく、感情的に「うっ」と引いてしまうかもしれない。

今回の「機会」というのは、もっとゆるやかな楽しいものだったので、

うーん、そんな機会にそんな覚悟をするのもなあ(^^;) と思って、会うのはやめることにした。

相手の問題は相手の問題、自分が解決してあげなくちゃいけないものではない。

そう思って冷静になる練習をしている私にとっては、

「そうか、まだそう思うための練習をする相手がいたね」、という発見のような気もした。

彼女のほうもいろいろあって会う機会がほとんどなくなっていたため、正直、忘れていたのだ。

そしてさらに「面倒だなあ」と、感じること自体も「なんかいちいち自分が反応してるのが、それこそ面倒だ」と思えた。

趣味的な仲間の1人ではあるので、いつかどこかでまた、会うこともあるかもしれない。

そのたびに毎回「あ……、そうか、会うのか」と憂鬱に感じたりするのが、単純に邪魔くさいのだ(笑)

実際、「他人の問題は……」の視点が少しずつできるようになって以来、

人に対して、感情的に反応することも多少は減ってきていて、自分自身がすごく楽なのだ。

怒りに耐える必要も、場を読んでこらえる必要もなく、別に相手をいさめる必要もない。

それでもって、自分はイライラしなくて済んでいるのだ。

しかも本当に何か、「それは違う」と告げなくちゃいけないときは、冷静。

結構な割合で、感情的にならずに告げられる。

たとえば「それはこういうことなの?」って、質問のように尋ねられたりね。空気をはかる、というのかな。

ムダに、というか、むやみに感情的に反応しないで、落ち着いて対処できるのは、

自分が楽でいられる秘訣なんだなあ、と、少しずつ、実感してはきていたのだ。

で、彼女に対しては、苦手と感じる部分も少しは整理できたので、

いつか、彼女ときちんと会ったときに、自分で冷静にみてみる練習をしたいと思う。

それこそちゃんと意識して、彼女の別の面も探してみよう、と、自分で思えたときにね。

「それは違う」と思う感情を、なくしたいわけではない。そこまでの悟りを開くのは、かなり大変だろうと思う。

そうした感情を持っても、自分が怒りなどの感情でぶれずにいたいだけだ。

こらえる、のでもなく、見逃す、流す、のでもなく、冷静に。

そうした出来事は「うん、そうか、私はそういうことをNGと感じるんだな」ってわかる機会、

そして落ち着いていられるための練習でもあるんだと。

それが「自分の問題と他人の問題を区別すること」であり「他人の問題に振り回されないこと」なんだと、

今はなんとなく、思えるのだ。

……ま、こうして落ち着いて書けるのも、まだ面と向かい合ってないから、だろうけど(^^;)

徐々にでも、そういうふうになりたいとは思えるので、このことは忘れないようにしたい。

ああ、なんだか今日は、自分の気持ちの暴露話みたいになってしまいました、すみませんm(_ _)m