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謙遜のし過ぎは、ときに卑下となる

自分のことを謙遜しやすい人は、基本的に「受け取りベタ」であるように思う。

自分に対するほめ言葉や評価を、上手に受け取れていない部分があるのではないだろうか。

「このレベルならできて当たり前」だとか、「たいしたことはない」とか。

受け取りベタな人はまた、自分の越えるべきハードルを高くしていくのが好きなことも多いのではないかと思う。

例えば80点を取っても、それは「普通」であり、なぜ100点にできなかったかを考えてしまう。

自分で自分を高めようとするあまり、責めるのである。

自分に厳しい、という気持ちは大切だが、それゆえに「できなくなった」ときの落ち込みは相当なものになる。

どんどん、自分に「ハイレベル」を刷り込んでいってしまった後だから。

逆に、もともと自分に自信がない人の場合は、自分ではなくて周囲の人が「できて当たり前」を

望んでいたことも多いのではないだろうか、と思う。

たとえば「なぜ後の20点を間違えたの! ダメじゃない!」と、否定されてしまうとか、ね。

そう、親から、先輩から、先生から、上司から。

そうやって、できない自分をまた同様に「刷り込んで」いってしまう結果、

受け取り下手になるのだろう。

何をほめられても「たまたま」であり、「どうせ私なんて」が根底にあり続けるように感じる。

謙遜、は確かに日本では美徳だし、「俺が俺が」の人よりは、人間関係も円滑にいきやすいと思う。

誰か、学者さんが言っていたのだが、海外に留学した日本人の研究生は場になじむのがうまく、

空気を和らげるキャラになるのだという。自己主張が強い欧米や中国の留学生に比べると、

「いつもニコニコとそこにたたずんでくれている」ような状態になっているのだと。

そうした点から考えると、謙遜にはよい面も多いのだろうと思う。

しかし度を過ぎると、自分にとっては結局、マイナスの面も増えてくる。

だから今、できない自分を責めて、「ダメだダメだ」と思い続けるより、

ちょっとでも「できる」ことを自分に「認めてあげる」ほうが、

少なくとも鬱という状態のときには、効き目があると思う。

私は、たぶん、そういう練習もしてきたように感じる。

今まで、自分の評価を自分で低くし過ぎてはいなかったか。

このことに少しでも思い当たる人は、自分が何を目標としてきたか、どんな自分じゃないと「ダメ」だと

思ってきたかを、もう一度考えてみてもいいのではないだろうか。

そして、周囲の人から言われた「ほめ言葉」の意味を、もう一度、考え直してみてもいいと思う。

「天狗」な気持ちも、確かに後々、つらいことが起こりやすいだろうけれど、

ひどい「卑下」もあきらかに、自分を「痛めつける」要素にはなりうるのだ。

これからはぜひ、だんだんと「受け取り上手」になっていってほしいと思う。

欠点は、本当に「欠点」か

私が、自分自身を探るという作業を延々やっていたときに、気づいたことがあった。

生まれて以降、親や、友達や、社会から学んできたこと、そのときどきに人から言われたり、自分で感じたこと。

そのなかで「私は、こういうところがいけないんだよな」と思っていた部分は、

他の人から見た場合、見方によっては「うらやましい」とさえ言われるものだったりしたのだ。

たとえば私の場合、はっきりと、思ったことを表現してしまうこと。

親からはさんざん「建て前というものが人には必要」と言われ、本音で話しすぎるといさめられていたのだが、

あるとき「肚を隠さない人」とか「腹蔵のない人」という言葉でほめられた。

しかも、その意味が伝わりやすい、と。

伝えようとする言葉を「選ぶ」のは、職業柄ゆえのクセかもしれないが、自分にとってはずっと長い間、

「欠点」だと思い込んでいたものが、大人になってたぶん、ある程度の分別もついたのか、あるいは

自分の表現方法が変わったのか(たとえば柔らかくなったとかね)はわからないが、

一種の「美徳」的な形で受け止められたのだ。

そうした例がいくつかあって、自分でも結構、意外だった。

極端な言い方をすれば「ないものねだり」な感じで、それが欠けている……と思う人にとっては

「そうできること」はいいことだったのだ。

確かに、強気な人はビジネス面では「主張がわかりやすい、頼れる」とも受け取られるだろうし、

別の場面では「強引」と思われるだろう。

そのように、性格的なものや行動時のクセは、相手次第でどちらにも受けとめられる、

長所でもあり、短所でもありうるのだ。

だから、これまで自分をいろいろな面で卑下し続けている人は、

それが本当に「100%絶対にいけないことなのか」を客観的に見直してみればいいと思う。

長所と短所は表裏一体だということに気づけば、「絶対的にダメな自分」から、少しは離れられるかもしれない。

鬱になる、ということは、感受性が高い証拠である。

きつい言い方かもしれないが、無神経な人は、ある意味、鬱になりにくい。

他人に気を遣わない場面が多いからである。

それを「強さ」と取るか「無茶」と取るかも、そのとき次第、相手次第だろう。

私は、強引で自分勝手なタイプの男性と結婚生活を続けた結果、何十年も経ってから、

ある日突然、片方の耳がほとんど聞こえなくなってしまった女性を知っている。

夫である男性が、外出時などにいつも並ぶ側の耳だった。

もはや身体が「相手の言葉を聞くことを拒否」したのだ。その人自身を、守ろうとして。

もちろん、それによって相手の男性の態度が変わったわけではなく

(医者からはストレスだとはっきり指摘されたにも関わらず、だ)、女性は自分を責めた。

それくらい、心や身体は、敏感に反応を示すことがある。

鬱は弱さ、だけではない。優しさ、気遣いという面も、含んでいるのだ。

今はまだ、自分の欠点を思い起こすことさえ、キツイ作業かもしれない。

でも、強すぎる人から見れば、弱い人は心の広い人かもしれない。

嫉妬心が強い人は、向上心も強いかもしれない。

がんばりすぎてしまう人は、自分を励ますのが上手いかもしれない。

そういう、いろいろな面を含んでいるということだけでも、知っておいてもらえたら、と思う。

「あなたの良さ」は、「あなたの悪さ」の裏返しの面かもしれないのだ。

だから自分のすべてを否定し尽くす必要も、本当はないのである。

変わることを怖れない

自分が生か死の出口しかない、真っ暗なトンネルにいたときのことを思い出してみると、

「何もできなくなったこと」に対するショックが一番、大きかったように思う。

もちろんそれは、鬱という病のなせる「思い込み」だったが、とにかく頭も働かず、

身体も動かせない(動かしづらい)状態だったので、「もう二度と働けない」と思っていた。

それまでの働き方は、あきらかに「自己犠牲」だった。「仕方ない」をすべての言い訳にして、相当、無茶していた。

胃は除菌が必要なほどピロリ菌が増えて、ずっと胃潰瘍続きだったし、微熱も出してたし、寝不足だった。

そう、今から考えてみれば、そんな働き方なんて、二度としなくて正解なのだ。

自分をそこまで痛めつけ、犠牲にしてまでやらなくちゃいけない仕事なんて、そもそも間違っている。

ほんの半年とか、そういう「期限」があるのなら、まだ修行だと言えなくもないが、

2年間も延々続いて、その翌年も同じような働き方が待っていた、という現状自体、まともではなかった。

そうやって、あとから冷静に考えてみたら、「それでよかったのだ」と思えることは、

きっとそれぞれの人にあるのだと思う。

人との関係、仕事との関係、自分自身の思い込み、etc.

種類は違うけど、何らかの、そういった「強制終了」が必要なものがあったからこそ、鬱にもなったのだと。

であれば、「あの日には、もう二度と戻れない」ことに、こだわる必要はないのだ。

あなたの身体が、あなたの心が、あなたを守りたくて、ストップをかけてくれたのだから。

今は無理でも、いつかそう思える日が来ると思う。

だから、これからの自分が変わっていくことを(変わっていってしまう、と思えるだろうが)、

どうか怖れないでほしい。

その変化は、徐々に、でも確実に、あなたを別の道へ導いてくれるものだ。

元に戻れないことを悲しむより、この先、変わることを怖れるより、

自分をより大きく、優しく成長させるためのきっかけにしていってほしい……と、心から願う。

あなたの身体と心は本当に、そんなにまで変化して、あなたを守ろうとしてくれているのだから。

たとえマイナス方向に変化していても、それはまさに病気ゆえの影響だろうし、

身体がもう、なんとか「変わろうとしている」証拠ではあるのだ。

今日は短めだけれど、思い出がよみがえってきたので……こんな感じで。

つらいけど、どうか、乗り切ってください。

自分の弱さを「絶対」「一生」と決めつける必要は、まったくないのだから。