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怒りと憎しみと苦しさの連鎖

タイトルの通り、これらは連鎖する。人との間で、そして自分のなかで。

自分の気持ちが痛んでいると、こうしたマイナス感情は、どんどん自分にダメージを与える。

許せないし、つらいし、そんな自分がイヤになる。

連鎖+相乗効果で、余計に苦しくなるだろう。

自分にとって理不尽なことをされたとき、人は怒る。

それが身に覚えのない、相手の勝手な思い込みだった場合はなおさらだろう。

そう、その部分は、持っていていいのだ。そこまで曲げろ、というのではない。

ただ、今のつらい状態で、それらを連鎖させてしまうことは、自分にとって「苦しい」だけなのだ。

たとえば、言葉の行き違いや勘違いによってそうした感情が生まれたのであれば、

それを「訂正」してみることはやってみる価値があるかもしれない。

こういう考えで、こういうことを、伝えたかったのだと。

でも、怒りの姿勢でそれをやっても、「怒りの雰囲気」が相手に伝わって、

内容でなくただその「態度」によって話がこじれてしまうかもしれない。それではもったいない。

その場合はいったん怒りをおさめ、お互いが静かに話し合える状態に持っていくことが、本当は必要なのだと思う。

怒りがの感情が湧き上がるときに、つい忘れがちになるのが、

あなたにとって、あなたの意見が正しいように、相手にとっても、自分の意見は正しいのだ、ということ。

たとえば意図的に意地悪をする(子どもが構ってほしいがゆえにイタズラをするようなもの)だった場合は、

自分が悪いとわかりつつ、相手はそれをやってしまうわけだが、そのときにも「だって」と、相手は思うだろう。

そんなふうに、原因が「直接的でない」ことも、結構あるのだ。奥のほうに、別の問題を抱えていることが。

家族に虐げられている人が、学校や会社などで他の人に優位性を示そうとするのも、その一つの例である。

「正しい」「正しくない」だけでは、あっさり片付けられない。

人は、いろいろな面を持っていて、一筋縄ではいかないのだ。

であれば、あなたが「怒りに身を任せる」ことは、決して得策とは言えない。

自分を守るため、そのためにこそ、今のタイミングで「言葉が届くか、届かないか」を考え、

届かない場合には「今は無理」と割り切ることも、ときには必要になると思う。

そして「根に持つ」のではなく、相手の問題であるかどうかを「見極める」こと。

相手の問題を「あなたが親切に解決してあげなくちゃいけないのかどうか」を、落ち着いて判断していこう。

直接的に、イジメやセクハラなどの被害にあっている場合は、他に打てる手はないか、考えてみる。

実際、そのマイナスの連鎖を起こしているのは、あなた自身の感情なのだ。

だから少なくとも、自分の受け止め方を変えられれば、その苦しい連鎖は止められる。

自分に対する怒りや憎しみも、また、同じである。

自分を他者のように見てみることで、また、気づける点はあるだろう。

今、この苦しいときだからこそ、どうか、巻き込まれ続けることをSTOPさせる方法を、考えてみてほしい。

そうした「視点」を、探してみてほしいと思う。

憎しみの報復は憎しみしか生まない。その実例は、アメリカに利用されたと恨んだビン・ラディンと

昨日の、「喜ぶ米国人」という姿をみれば、知ることができるだろう。

このようなマイナスの感情の連鎖は、程度の差こそあれ、あなたの周りにも、あなたの中にも起こりうる……。

本当に、それを止めてほしいと思う。変えていけることを、心から願う。

焦るときには切り替える

鬱になって、休んで、時短で仕事に復帰したあと、何が一番イヤだったかというと、

「自分の思い通りに進まないこと」が増えた点だった。

それまでの私は「成功を追い求める者」だったので(ああ、このエニアグラムの話もいずれ書きたいな……、

本を受け取らなくちゃ)、効率性とか、能率とかも大好きで。

仕事はとくに、サクサク進めてガンガン片付けて、内容や量に満足する日々をずっと過ごしていた。

それが鬱を境に、ノロノロして、あ、集中力なくなった、ああ、間違えた……なんてことも起こりやすく、

自分の「気が乗らない」ような感じ。ペースが上がらないのだ。

で、そうこうしているうちに時短だからあっという間に終業時刻になってしまい、「ここまでか……(T.T)」となる。

そりゃもうまさに、壊れかけのポンコツ車のようだった。

壊れる前まではとても手のかかるものをつくっていて、それこそずっと集中が必要だった。

復帰ししてから、さすがにその仕事は無理だろう、ということで、もっと易しいものに担当替えして

もらったんだけど、それすらサクサクとできない、と感じることは、自分にとっては「苦痛」でしかなかった。

日常生活でも、薬の量はそんなにすぐには減らせなかったし、

やっぱり眠りが浅くて睡眠薬を処方してもらうことになったり、一進一退な感じ。

これ、どうなるんだろう、どうすればいいんだろう、と思っていた。

で、結局、少しスピードアップし始めた頃に一気に加速しちゃって、またプツンと壊れ、

仕方なく再休職となってしまったのだ。

再休職してから、それこそいろいろな本なども読んで、ようやく「焦ると逆効果」であることが

わかってきた。もちろん、「この病気では焦るな」という話は、元々、聞いていた。

でも、言葉として知っていたけど、実態はよく知らないような状態になっていたのだ。

何が「焦り」だったのか、自分でよくわかっていなかった。

進まない、ああ……、と思うことも、薬を減らせないのにまた睡眠薬か、と思うことも、

自分では単なる「感情」のつもりでいたけれど、実は悪化につながる要素だった。

「そんなの当然じゃない?」と感じるでしょ? でも、それを「思っちゃいけない」んじゃなくて

「思っても仕方ない」という割り切りを、私が持っていなかったのだ。

いつまでその、のろのろしたペースが続くかは、誰にもわからない。

ちょっとハイペースになっても、またダウンする。そうやってゆるゆるとバランスと取り戻していく間、

いかに「割り切って過ごせるか」が、私は、理解できてなかった。

焦るのはある意味、当たり前だ。自分は、気持ちの上では「最悪のときより確実によくなって」いるのだから。

それが行動として表せなければ、自分に対して「何でだよ」と思うだろう。

でも、「何でだよ」と思い続けることは、自分を責め続けることにつながる。

そこでまた、自分に自分でストレスを与えてしまうのだ。

だから、早く治していきたいなら、「何でだよ」と思ったときに、別のことを考えるようにすること。

「何でだよ」が出たときに「いやいや、今は我慢だ」と思って耐えようとしても、結局は同じストレスになる。

うまく開き直れる人ならいいけど、「ま、仕方ない」と、スッと思える人はなかなかいないだろう。

で、我慢って実は、「何でだよ」という気持ちの進行方向から、逆向きに進み直そうするようなものなのだ。

そうじゃなくて、気持ちをそこから離す。90度、あるいは120度別の方向へ、持っていくような感じ。

まったく違うことを、考えるようにするのだ。

それは趣味的なことでもいいし、今日の晩ごはんでもいい。

他の簡単な事務作業でもいい。

ただ単純に、「できる・できない」の思考から、自分を切り離していくのである。

実際、慣れると「あ、また」と思って、気をつけられるようになる。

ストレスが減ると身体のこわばりも減るので、緊張もほどけていく。

イラッときたとき、身体に力が入ってる、とか、肩に力が入ってるな、ということに気づければ、なおいいと思う。

単純に肩の力を抜いて、肩を下げ、胸を開いて、ほうっ、と深呼吸してから別のことを考えよう。

これもまた、一種の練習のようなものが必要だけれど、そうやって切り離していくと、

徐々に「ま、仕方ないな」とも、思えるようになる。これは私の経験でもそうだった。

あきらめるわけではなく、無理なく素直に、思えるようになっていくのだ。

そこには「おびえ」も「おそれ」も「怒り」も必要ない。淡々とした感覚でいい。

上手な切り替え方については、たとえばカウンセラーさんとか、そういうプロの人から、

あなたに合う方法を教えてもらってもよいと思う。

これもまた、実際に経験していってもらわないとわからないような話だけれど、

自分に対していらつくのは結局、どんなときでも(鬱じゃなくなったあとでも)本当に、

マイナスにしかならないんだ、ということだけでも、覚えておいてもらえたら幸いである。

話して分かち合う、ということ

ここで何度か、自分の気持ちを他人に話してほしい、ということを書いている。

その効果は、私もやってみるまで知らなかった。

でも、ビックリするほど、効き目はあった。

私が知らない人たちに向かって初めて自分の暗闇を話したのは、宗教とか自助グループではないのだけれど、

スピ的な観点から、自分を変えていこう、という目的で集まった会……のようなところ。

4回シリーズで、主催してくれたスピリチュアル系のファシリテーターさんがいて、十数名で、

基本的にはお互いのことを打ち明けるような形。そして受け止め、思ったことを言葉にする。

非難せず、ヨイショもせず、真摯に。そういう感じだった。

まさにそのシリーズの間に、私は2人目の知人の死を知り、なんだかもう、どうしたものか訳がわからなくなった。

でもこんな話をまさか、見ず知らずの人に丸ごと全部、打ち明けるなんて……と思い、ファシリテーターさんに

キャンセルするべきかどうかをメールで尋ねたら「大丈夫です。逆に、話してください」と言われた。

みんな、受け止めてくれますよ、と。

実際には半信半疑で、どきどきしながら、2回目のときだったかな? 最後のほうに自分で話し始めた。

冷静に話すつもりが涙もどんどん出始め、ただもう一気に、自分の経験を語っていた。

このときに、参加していた人たちの受け止め方が、すごく温かかったのだ。

近寄り過ぎもせず、突き放したり非難したりもせず、静かに聞いて、もらい泣きしてくれた。

そしてただ「大変だったね」って、視線でうなずいてくれた。

これはその「場」を作り出したファシリテーターさんの力ももちろんある。

そして、たまたまだったのかもしれないけど、またそういうふうに「共感」してくれる人たちがみごとに揃っていた。

自分の身に起こった経験の「何か」に響いてきたよ、とか、つらかったんだね、って、静かに優しく言ってくれて。

そこで話したのは、「確かにある意味、自分は間違ってた」という感情だった。

死にたくなっちゃったんですよ、私、こんなふうに、馬鹿だから……って。

思わず泣いてしまったから、淡々と、でも切々とした感じで、私は訴えたんだと思う。

でも話したあと、自分が、温かくなったのだ。そのときはすでに、死にたいわけではなかったけど、

「馬鹿だよなあ、私」と、自分を優しい目で見られたような、ちょっと荷を降ろしたような、不思議な感じ。

それは「側で真摯に共感してくれた人がいた」からこそ、起こったことだった。

さらに、そこでは誰か、あるいは会への「依存」も発生しなかった。

その会を通じて、私が感じたこと。

人はみんな、それぞれ、いろいろな問題を抱えるんですね。

そして、自分ではどうしようもないと思えるときってあるんですね。

でも、こうして話すことで、気分は軽くなるんですね。

で、もう少しやり方を考え、自分を変えていってみよう、って、自分で感じられるようになるんですね。

人にはそうやって、それぞれの学び方があって、それぞれ自分で、人生の課題を越えていくんですね……。

具体的に、直接的に解決方法が見つかるわけではない。ただ、何か「確かなもの」、

私もきっと、自分で解決できるんだ、いつか……という確信のようなもの、が勝手に生まれていったのだ。

回数を重ねたことで、他の人の心が変化していく様子も見せてもらえたし、

なんだろう、ずっと温かい目で、お互いのことを見守っていた、という感覚があった。

年齢も経歴も生活環境もまったくバラバラだったし、問題点も全員、違っていた。鬱の話も私だけだったしね。

なのに優しくて、支えてくれる会だった。あれは不思議な経験だったな……。

そういう会だとははっきりわからずに、ただ、ファシリテーターさんが現実的な感覚も持っていて、

さらにスピ的、精神世界的な感覚も高いと感じられる人だったので、これって自分に合うかも、と思ったのだ。

ホント、生まれて初めてだったもの、「シェアリング」っていう、自分のことを打ち明ける方式。

それを経験したことによって「自力で解決していけるんだ」ということを初めて確信できた。

こうしたサポートを受けながら、でも、進んでいくのは自分。

たぶん、病院の薬も友人の支えも、時短で働くことも全部、同じようなもの。

そうしたものをサポートとして受け止めながら、私は、自分で変わっていくことができるんだ、と思った。

ただ、分かち合える人がいるだけで。その人たちの変化を、間近に、話として聞くだけで。

共感して聞く、ってこういうことなんだ、答えを引き出せるんだ……と思えた。

その後、鈴木秀子先生というキリスト教のシスターが書かれた「愛と癒しのコミュニオン」という本にも出会った。

それで「アクティブ・リスニング」という、人の話を「共感をもって聞く」やり方を知って、

ああ、知らないうちに、そういうことをあの会でやっていたんだなって、わかったのだ。

分かち合うことでなにがしかのヒントをもらって、自分で自分の変え方を見つけていける方法があるんだと。

その経験があったから、私は、視点を変えられるようになったのかもしれない。

何かが起こったとき、「これはどういうことを、私に学べっていってるのかな」とか、そういう感じ。

誰かとの間に、たとえば問題が起こったとしても、その人がなぜ、そういう発言をしているのか、

この問題の、本当の「奥にある問題点」は何なのか、この人自身の問題は何か、自分の問題は何か。

こうして書いてみても、その奥にある理屈のようなものを、私はうまく表現することはできない。

心理学の専門の方なら、また別の説明方法を知っているかもしれないけれど、

人に話してみること、お互いの話を静かに分かち合うこと、

ただそれだけでも、自分の力に変わっていくんだということが、伝わればいいなと思う。

最後に、鈴木先生の本を紹介しておきます。鈴木先生は、アクティブ・リスニングや自己コーチングを

学ぶ勉強会や通信講座もNPO法人でやっていらっしゃるので、そのご案内も。

愛と癒しのコミュニオン (文春新書 (047))/鈴木 秀子

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心の対話者 (文春新書)/鈴木 秀子

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NPO法人「コミュニオン」

http://www.enneagram.gr.jp/index.html