木元見春 のすべての投稿

自分を否定し尽くす前に

できなくなってしまったことを、一生、二度と戻らない……と悲観しないでほしい。

あなたが、その過去の「できたこと」で得ていたのは、爽快感や達成感、満足感といった

「心地よい気持ち」だったはずだ。

たとえ、同じような動きや働きは、できなくなったとしても。

同じ気持ちを得ることは、実は可能なのである。

私は競歩に近い軽いジョギングが好きだったが、低血圧になったため、医師から回数も距離も、制限を受けた。

心臓に負担がかかりすぎるからである。軽く筋力を保つ程度の運動なら、と言われた。

一番どん底の状態だったときを過ぎ、2年もたってから、こんな体調の変化が現れるとは思っていなかった。

でも爽快感は、サイクリングでも得られる。川沿いなどをただ、散歩するだけでも。

そうやって実際に置き換えてみたら、それはそれで、今まで目に入らなかった景色が見えたり、

道端の小さな花に気づけたりして、別の楽しみを感じられるようになった。

仕事の面でもそうだ。1人で最初から最後まで仕切り、徹夜になろうがガンガン働いて、片付けていた。

今は、それをし過ぎると自分の糸が切れてしまうことがわかったので、もうやれない。

仕事も、軽いものになっている。自分に負荷をかけるのが怖いという思いは、残っているのだ。

でもそうやって働くと、当たり前だが時間が空く。

約15年、仕事の内容によってはスケジュールを全部それに向けて調整し、

どうしても必要なときに限り、自分で無理矢理、時間を空けるようにしていた生活から考えると、

何も予定がないのに空く時間がある、というのは最初、なんとなく違和感があった。

そのままの状態だと、また、自分を卑下しそうになるかもと思ったので、

その空き時間に、若い頃やってみたかったバイトをしてみたり、ただゆったりと音楽を聴いたり、

本を読んだりしてみた。最初はちょっと、半強制的にね。

すると「予定を立てなくていい」ことが、次第に心地よく感じられるようになってきた。

たぶん、自由というものを、別の角度で楽しんでいるのだと思う。

そして、自分がいかにワーカホリックになっていたかも、しみじみとわかった。

空いている時間は何かの「予定」がないと、イヤだったのだ。

だから無意識のうちに仕事をバンバン入れて、埋めていたのかもしれない。

そしてたくさんの本を読んだり、のんびりすることで、低血圧以外の体調は戻った。

心のゆとりがそれを引き出したのだと、今は思っている。

確かに、過去には戻れない。何かを失ったら、まったく同じ状態には戻れないだろう。

そのこと自体を悲しむ、という気持ちもわかる。

その時間がとても幸せで充実していたら(そう、仕事にのめり込んでいたとき、私は幸せだった)、

そこに戻れなくなったことは、本当につらいだろう。

でも必ず、新しい自分も、見つかるのだ。

やりたかったバイトは思ったとおり楽しくて、やることを覚えるまでには時間が必要だったが

(若くはないからね~、その辺)、覚えてしまえば、軽く集中することでまた充実した気分にはなれる。

今はなんだか「気分転換」のひとつにさえなっている気がする。

のんびりと無為に過ごす時間も、自分を卑下することはなくなって、解放されているように感じられる。

そんなふうに「自分をだらけさせる」ことで、ストレスを持ち越すこともなくなってきた。

ある意味、働く機械人形から、人間に戻ってこられたように思う。

今では時間があるのに、家事だって結構、手抜きができる(笑) 

料理も絶対に三食、じゃなくなって、一週間でだいたいこんな感じ、というふうに

栄養面から大きく捉えられるようになった。

そこには、充実感も幸福感も、別の形で存在していたのだ。

やるまではまったく、気づかなかったけど。

私の場合は「何かとギュウギュウ詰めにする」罠と、

「きちんとやり遂げる」罠にも、かかっていたのだろう。

あなたもきっと、そんなふうに何か、無理していたから、壊れたのだ。

「壊れる」のは望まない形での、半強制的な離脱ではあるけれど、

それ以上、その状態を続けることができなかったから、身体や心は、そのように反応したのだ。

あなた自身を、守ろうとして。

もう、そこまで自分を追い詰めたのだから、これよりさらに追い詰めて苦しめていく「死」を

無理に選ばなくても、いいんじゃない? と思う。

衝動的にせよ、計画的にせよ、相当の覚悟と準備(心の面でも、周囲に対する面でも)が必要だよ。

そんなにつらいのに、さらにもっと、自分につらく当たる必要なんて、ないんじゃない?

私は不器用だから、いろいろ気づくのに時間がかかってきたけれど、

あなたなら、同じように長きにわたって迷いつづけることも、ないかもしれない。

何より、新しい世界が広がるよ。優しく穏やかな気持ちで、生きていけるようになっていく。

今の状態を徐々に乗り切っていくんだもの。絶対に前よりは、強くなれるよ。

そうした未来の可能性も、もうまったく、自分には必要ないかな?

たとえば周囲の環境が、新しいあなたを許してくれない? 本当に?

そうじゃなくて、あなたが、その「過去のプライド」にしがみついて、新しくなろうとする自分を

認めたくないだけってことはない?

そしてあなたは、死にたくなるほどそんなにも、過去に完全無敵で完璧だったかしら……。

新しくなる自分が以前より悲壮だと決めつけてしまうのは、あまりにももったいない。

私の知っている限り、以前より、今のほうがずっと自分が生きやすくなった、という人のほうが多いよ。

ものごとに動じなくなったり、人を温かい目で見られるようになったり、新しい仕事を始められたり……。

そこまで思い詰めてしまうということは、まさに今、新しく生きる機会が来た、ってことなんだけどな。

そんなふうには、捉えたくないかな。その心の「病気」をもう、治したくはないのかな……。

今のまま自分を否定し続けるよりは、新しくなっていこうと思い定め、ゆっくりやっていくほうが、

よっぽど気持ちはラクになると思うよ。その「病気」だって、より治りやすくなる。

できればどうか、ちょっとでもいいから、その可能性についても考えてみてほしいと思う。

横並びと差異

先日の日記でチューリップの話をしたら、何となく書きたくなったので、今日はこの話を。

並んでいるチューリップの美しさは、同色の場合、見た目には同じ花が、整列しているところにある。

なんか、お行儀がよくて愛らしい、と思ってしまうのだ。

小学校へ集団登校する新一年生を見かけたときと、同じような感覚なのかもしれない(笑)

富山やオランダのチューリップ畑の写真にも圧巻される。

並びながら群れていることで、圧倒的な強さや明るさをもった「美しさ」を表現しているように感じる。

てんでバラバラのほうを向いて、花の形なども違っていたら、あの美と愛らしさは出ないだろう。

横並び、という言葉は、悪い印象を与えやすい。

だが、揃っているということは、そういうある種の美しさを表現できるのだ。

たとえばバレエの「白鳥の湖」。写真なら見たことはあるだろうと思う。

主役のバレリーナの周囲を、他の白鳥役の人が同心円で取り囲む。

周囲の白鳥たちが一糸乱れぬ踊りを舞うからこそ、中心にいる白鳥の踊りもまた、引き立つのである。

その中心に立ちたい、プリマになりたい、と思うのは、バレエという世界で生きる人たちにとっては

当たり前の願望だろう。だが、周囲の白鳥がいなければ、また、あの静かでゴージャスな

世界は生まれないのだ。

あなたが平凡であることを認め、あきらめろ、と言ってるわけではない。

そこから自分の個性と実力を生かし、抜きんでていくことは、どんな人にも可能性としてあり得るのだから。

ただ、平凡だから、横並びだからつまらない、私はダメだ、と決めつけないでほしいと思うのだ。

実は周囲の白鳥1人1人だって、身長や体型は違う。

チューリップだって、よく見れば、葉の向きや花びらの向き、微妙な角度は違う。

それぞれに個性は持っていていいのだ。その個性のままキレイに揃うときに生まれるものだってある、ということ。

さらに言えば、同じように庭に並んでいるチューリップだって、

側に木があれば、木陰に近いものは、遠いものより日当たりが悪いかもしれない。

でも大風が吹いたときには、木に近いほうが、風をまともに受けなくてすむだろう。

土の中では、ミミズが土を耕しているかもしれない。

栄養分の豊富な土に根を伸ばせば、よりしっかりと根付くことができるだろう。

でも、チューリップは「ミミズさん、どうして隣の花の周りだけ、土を良くするのよ。

こっちにも来てよ、不公平じゃない!」なんて文句は言わない。

木の側だろうと、ミミズが何をしようと、ただ、恩恵を受けられたときに喜んで根を伸ばすだけである。

周囲との差異があってもなくても、ただ、あるがまま、なのだ。

そして自分の仕組みと力によって花を咲かせ、次世代への球根を残す。

アスファルトの隅に落ちたタンポポの綿毛も同じ。

そこに根付ければ、少しずつでも根を伸ばし、花を咲かせようとするだろう。

「どうして私だけ」と、思ったりはしないのだ。そこにあることそのままを、楽しむだけである。

これは、そのときどきにおいて、何が自分の役割かという視点なのだと思う。

周囲と比べたら、たちまち「不公平」だの「平凡でつまらない」だのといった気持ちが湧く。

より目立ちたい、より得をしたい、よりラクをしたい。そんな欲も出てくる。

……キリがないよね。自力で辿り着いても、欲が深ければ満足はできない。

その自分を、心の底から喜べない。

さらには、もし誰か他の人の力でラクになったりした日には、

「もっとラクにして」「もっと得したい」「もっと」「もっと」。ずっと、その繰り返しである。

自分が今いるところで何を果たせるか。どんなにダメで自信がないときでも、ちょっとくらいは

何か、貢献できるかもしれない。あるいは心が痛みすぎて動けないなら、そこから脱することが先決で、

そのあとゆっくり、できることを見つけていけばいい。

欲を持つのは、向上心のためには悪いことではない。「意欲」は大切だと思う。

でも、自分がその欲しか見つめなければ、どんな人生であっても、満足して心から楽しめないだろう。

得たものを失う怖さに追われて、さらにどんどん、欲深くなっていくだろう。

それはお金に限らない。出世などの地位も名誉も、人間関係も、同じである。

まずは、そこにいる自分を楽しむこと。今の自分を、「良し」としてあげること。

今すぐには何もできなくても、それは切り替えの準備期間なのだと、「本心から」認めること。

とりあえず、どんな小さなことであっても、「できること」があれば喜ぶこと。

自分をいたわることだって、とても大切な「やるべきこと」なのだ。

……横並びとか、平凡とか、そういった目で自分を見下すのではなく、

その小さな差異から生まれていくものを徐々に楽しんでいけるような何かが、

どうかあなたにも、いつの日か見つかりますように。

ちっぽけな自分のままで

自分は何もできない、たいしたことのない人間だ、と思っている人。

その認識はある意味、「人」として正しい。

有名な人だって、最初から有名だったわけではない(たとえ親の七光りであってもね)。

本人が何か行動を起こすことによって、初めて人に知られる。

ということは今、心が痛んでしまって動けないあなたは、もともと「人」が持っている「最小サイズ」であるのだ。

一番の、基本サイズ。単なる原点だ。

それまでの自分は立派だったのに、という人。

ごめんね、はっきり、書いてみるけど……。

会社の看板を利用してなかった?

一部の人からの評価だけ、じゃなかった?

「すべて自力」と言えるなら、無理してなかった? 無茶してなかった? 自分だけよければ、じゃなかった?

……正直、何かを成し遂げる人っていうのは、本人の才能と環境だけじゃないよ。

そこには必ず「それに向かう姿勢」がある。努力も。当たり前だよね。それはわかるよね。

で、自分は何をも成し遂げられない? 何を基準にしてそう思ってるの?

誰を基準に? どんな「成功」を夢見てる? あなたの描いているものは「地位」や「名誉」や「お金」?

テレビや雑誌に出ること? 人からの賞賛?

以前、糸井重里さんと誰かの会話(その誰かを忘れてしまった……)で書かれていたんだけど、

なんか最近は、勝ち組とか負け組とか、そういう成功基準でしかものごとを見られない人が多くて、

たとえば映画をつくっている若者でも「ビッグになりたいんです」「成功したいんです」としか言わない、と。

昔の人はよかった、というじいさんのような話をするつもりはないけれど、確かに以前は

「この人と仕事ができるようになりたいんです」「こういう映画を自力で撮れるようになりたいんです」

といった感じで、到達地点が「現実的」だったと。

そこに向かってきちんと歩いていけるような、具体的な夢を語る人が多かった、と。

これ、なんとなくわかる。今の夢って、先に回答や結果を求めすぎに感じる。

「どうしたらいいんですか?」と、つい聞いてしまいやすい。

たとえば仕事の面でも、「○○○○のやり方でいいんですか?」なんて聞く後輩、減ったもの。

何も考えない「指示待ち」の人、多いよ~。それか逆に、妙に自信満々で、自分で勝手に判断して動いて、

失敗してクライアントに迷惑かけて、それで怒られたら、次からいきなり「どうしたらいいんですか」って。

いや、自分で考えようよ、まず。お手本や見本は、そこら中にいっぱいあるのに。

先輩の電話の応対内容に耳を傾けるだけでも、先輩が顧客と何をどう話して、

どんなふうに進めているか、ヒントを見つけられるよ。打ち合わせなんかに同席したら、もっとヒントがあるよ。

感心して終わりじゃ、もったいなさ過ぎる。

そのなかから自分に合ったやり方を自力で盗んでいこうよ、と思ってしまったことは、何度もある……。

それが「自分のやり方」になっていくんだし、自分の「糧」になっていくんだよ?

言いたいことが、わかるだろうか。

何かをするのに正解とか答えなんてないし、マニュアルもないし、

具体的な、現実的な地点に辿り着かずに「ビッグになる」ことも「成功する」こともないの。決して、ね。

本来、人間はちっぽけなのだ。70~90年の人生と言うけれど、

20歳を過ぎるまでは「大人」扱いもしてもらえない。

楽しんでやれること、真剣に打ち込めること。

今の自分で工夫できること、面白いと思える部分。

それをまず、自力で探そうよ。

そうしたら、結果や見返りよりその過程のほうが、よっぽど楽しめるようになるから。

有名かどうか、劇的に儲かるかどうかなんて、関係なくなるよ。

それに打ち込めるだけで楽しいし、充実していく。

たとえば、50年、畑と向き合ってきた農夫は、すごくないのかな。

どんな天候であっても畑を守って、毎年ちゃんと実りをつくりあげ、

自分と家族を養えてきたって、すごいことじゃないのかな。

同じようにコツコツと生きてきた、工場の職人さんは、すごくないかな。

退職まで勤め上げた、サラリーマンのお父さんは?

みんな、無名だから、平凡だから、すごくないのかな、ダメかな……。

何を自分の目標にするか、何を糧にするか、何を喜びにするか。

そういう視点を、今、やっと「周囲に流されずに」見つめ直せる機会に、あなたは立っている。

ちっぽけな自分を、ある意味「やっと認識できた」んだから、そこから、変わっていける。

本当に自分が喜べる生き方、を、改めて見直せるのだ。

そこには、見栄も、プライドも、派手さも、賞賛も、金額も、別に関係なくていいんだよ。

本当は、必要ないんだよ。これ、説法じゃないよ、別に。

逆にそれだけを夢見て、自分は飼われてる魚のように、じっと口を開けて待ってる?

何も自力で楽しんで作り上げることなく? それが一番?

本当にそうだと思う? ラク? 楽しい?

自分がやったことに対し、あとからそういった「付加価値」が還ってくることが、

たまにはある。見返りは、付加されるだけだよ。本質じゃない。

見返りだからこそ、うれしい。

身近な人に感謝されることも、「還ってくるもの」として、すごく大切だよね?

もし何かを「成し遂げる」とか「守る」っていうのなら、本当にそうしたい、というのなら、

周囲に流されない、脅かされないもの、自分が楽しめるもの、打ち込めるものを見つけていこう。

結果じゃなく、過程を楽しんでいく視点を持とう。

ちっぽけな自分のままでも、できることがある。たくさんたくさん、あるのだ。

あなたが視点を変えるだけで、たくさん、ね。

心が痛んでしまって時間がある今、そういうふうに、あらためて自分を見直してもらえたら、と思う。

ある意味「変な」価値観から脱することができて、本当に幸せな気持ちで生き方を変えていける人が、

これからたくさんたくさん、増えていきますように……。

心から、祈る。