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過去の体験を吐き出す

昨日の話のつづき。

ささやき人形を止めるには、他のことへ意識を集中する以外に、その人形自体の存在を小さくしていく必要がある。

そのためにはまず、その人形を抱えて生きていくのを「やめる」と決めることが必要だ。

「もう、こんな状態のままで過ごすのはイヤだ」と、はっきり、自分のなかで認識するのである。

これはあなたのなかの、あなたの「決意」の問題。解決策云々、ではない。

明日から即、状況が変わらないとしても、自分の「受け止め方」を変えることはできるのだ。

だから今、今日、ここから、人形が常に側にいるような生き方を「やめる」、と決めてほしい。

これはあとあと、大きな影響を及ぼすので、はっきり、そう心に誓ってほしいと思う。

自分が、自分に約束するのだ。もう、こんな自分でいるのはやめる、と。

やめる、と決めたなら。

その瞬間から、あなたが今まで抱えてきた問題は「過去に起こったこと」と、

自分のなかではっきりと区別する感覚が、始まっていく。

たとえ友達や上司、家族などから、現在、ひどい仕打ちを受けている人でも、

これまで受けた仕打ちは「過去のこと」として、わざとそこに境目をつくるのだ。

身体の状態についても同じ。これまでに苦しんできた自分は、一瞬一瞬、過去のことにできる。

まず、そこまでをしっかり、自分のなかで認識してほしい。

そして、緊急用の応急処置が必要な人へ。

現在進行形で周囲の人から傷つけられている人は、心を落ち着かせてから、

その「相手」の問題について、想像を巡らせてみよう。

ただし暴力行為からは、それが言葉であっても、まずそこから逃げ出してほしい。

その人と距離がある状態になってから、想像してほしい。

私が以前「黒い人」というテーマでブログに書いた、視点変換・客観視、というやり方である。

憎しみや恨みを持ったままでは客観視できないので、感情的にきついなら、少しずつでいい。

「相手にも問題や越えられない壁があって、それは私が直してあげなくてはいけないことではない。

相手には、相手の学びがある。この人もまた、自分の問題から逃げだそうと、あがいているのだ」

そんなふうに思えれば、相手の暴言、暴力は、まさに相手自身の問題であることが、わかってくると思う。

それによって、あなたが悪いと思ったり、傷つくことは、本当は必要ないのだ、と。

体調が悪い人は、文字通り、新しい自分になったことを認めていこう。

もう今後は、何も考えずに走ったり、泳いだり、そういうスポーツ的な活動が難しくなったかもしれない。

また日常生活でも、重いものが持てなくなったり、階段の上り下りがつらくなったりするかもしれない。

でもその代わり、たとえばゆっくり歩くことで、道端の花に気づくかもしれない。

今まで見過ごしていたものに、いろいろ気づいていけるのだ。

いずれ年をとれば皆、同じように身体の自由は何かしら、制限されていく。

しかし同時に、それによって新しく得るものも、必ずあるし、また、見つかるのだ。

過去の自分をやめる、と決めたのだから、そうした過去の「栄光」も、感謝して手放してほしい。

それが以前、自分にできたということだけでも、本当はありがたい話なのだ。

できる状態、できる環境に、あなたはいられたのだから。そういう経験を、させてもらえたのだから。

私も体質が変わってしまったが、過去のことは「いい経験をさせてもらえたな」と、今では思えている。

さて。

そうやって「やめる」と決め、取り急ぎの受け止め方も変えられ、ささやき人形に耳を貸さないように

していけるようになり……という感じで、少し、自分が落ち着ける環境になったら。

「じゃあ何をしたらいいのだろう」という気持ちに、なってくると思う。

とりあえず、最悪の状況ではなくなったけど、かといってガツガツ動けるほどの気力はないし……。

そういう、ある種の放心状態である。

静かに、ぱかーんと、自分のなかに空き地が広がっているような感じ。

私の経験だけれど、このときに一番効果があったのが「過去の出来事を打ち明ける」という行為だった。

直接的に、誰かに話を聞いてもらえるなら、それが一番よいと思う。

これは、実はとても勇気がいる。過去の自分の汚点を、さらけ出すわけだから。

とくに「男の子だから泣いちゃダメ」などと、そうした行為を「恥」として刷り込まれてきた男性には、難しいはずだ。

でも、話すことで、自分のなかに「過去が整理されていく」気持ちが生まれていくのだ。

何が起こったのか。自分がどう感じたのか。どうして、自分が傷ついたのか。

なぜ、そう受け止めたのか。相手が何を、自分に求めていたのか。

話す、ということは、そうした要点を、まとめていくことである。

そうすることで自分のなかに、「腑に落ちる」ことが、たくさん出てくるのだ。

職業的には、カウンセラーと呼ばれる人が、こうした整理を手伝ってくれる。

もし、相手がいかにも作業的に、「こうしてみましょう」という感じでワークなどを押しつけてくるように感じたら、

それはそのカウンセラーがまだ未熟であるか、自分とは相性が合わない証拠になる。

その場合は担当を変えてもらったり、他のカウンセリングルームを探してみればいいと思う。

インターネットで、自分に負担にならない価格、距離の範囲で、独立してカウンセリングルームを

開いている人を探してみるのもいいと思う。

そこに書かれている言葉が、自分にしっくりくるかどうか、わかるだろう。

友人に打ち明ける場合は、アドバイスをしない人に。アドバイス好きな人は、途中で、

自分の論に相手を巻き込もうとする傾向にある。決して悪気があるわけではないのだが、

今は、自分で行う自分の心の整理が大切なのであって、

解決策を「魔法使いのおばあさん」のように杖を振ってふりまいてほしいわけではない。

「そうだったのか」と、ただ、受け止めてくれそうな人に、勇気を出して、打ち明けてみよう。

どうしてもそれが難しい場合は、手紙のようにして、自分の出来事を綴ってもいい。

日記に書いてみてもいいと思う。実際には見せないとしても、誰かに読ませるつもりで。

このときにも、忘れないでほしいのが、それは「過去」であるということ。

たとえば結果的に人の悪口になったとしても、それは、そのときの自分がそう受け止めたから、そう感じたのである。

今の自分は、それをもうやめたのだし、明日から同じ人に会うとしても、相手を冷静にみつめられる練習を

始めているのだから、また、受け止め方は変わってくるはずだ(逆に、自分がまた同じところに追い込まれるようなら、

それは自分の受け止め方が元に戻っている証拠だ。これまでと同じ“役割”を、あなたが果たす必要は、もうない)。

「過去に、こんなことがありました」ということを、あなたが事実として、整理できるようになることを、心から祈る。

それを行うことで何が変わるかは、ぜひ、体験して感じてみてほしい。

きっと「すごい」と思える結果が、生まれるだろうと思う。本当に、その“力”はすごいのである。

「自分いじめ」をやめる

昨日は、きつい例を2つ出した。

あの話を読んで、厳しい、と感じた方もおられるだろう。

傷ついてしまわれたとしたら、ごめんなさい。

選択、という話で終わらせたのは、意図があった。

不幸を延々と繰り返し並べたてても、

きついだけであることを、わかっていただきたかったのだ。

人には、いろいろなことが起こる。

それによって、気持ちが落ち込んだり、鬱になったりする。

でも、起こった出来事自体は、過去のこと。

どんなに苦しんでいたとしても、それは今、初めて、起こっているのではない。

また、たとえ後悔しても、それは変えられないのである。

ただ、今から先は、変えられる。

そしてそこには、未知数の可能性が詰まっている。

今の状況がイヤなら。

イヤだから死にたくもなっているのだが、それを変化させることは可能である。

比喩ではなく、現実的な話だ。

そのための方法は大きく2つある。

ひとつめがまず、自分で自分をいじめるのを、やめることである。

あなたのすぐ横に、同じような外見をした、等身大の

ささやき人形が立っているところを想像してほしい。

その人形は、あなたにささやき続ける。

おまえはダメだ。おまえはダメだ。おまえはダメだ。

おまえはあんなことをした。だからおまえはダメだ。

おまえはあの人から、あんなひどいことをされた。

あいつは憎いぞ。あいつは許せない。

あいつのことは、忘れてはだめだ。

あいつを恨み続けなければ、おまえはだめだ。

あの人と一緒にいるおまえは、あんなに素晴らしかったのに。

あの人から離れてしまったおまえなど、何の価値もないでくの棒だ。

おまえはだめだ。

あのときのおまえは、あんなに出来たのに。

あんなに素晴らしかったのに。

それができなくなったおまえには、もう価値はない。

おまえはだめだ。

おまえの小さいころには、あんなことがあった。

こんなこともあんなことも、そういえばああいうこともあったな。

どうせおまえなんて、今までいつもだめだったのだ。

おまえはだめだ。

こうしてささやきを並べただけで、

この人形が、いかにひどいシロモノであるか、よくわかると思う。

だがあなたは実際、この人形を心の中に置いているのである。

気が向く、向かないに関わらず、24時間、作動させっぱなし。

気づいたら、そのささやきに耳を傾けては、自分を傷めつけている。

だからまずは、この人形を、止めよう。

たとえ何があろうとも。どんな仕打ちを受けようとも。

あなたは、だめではない。

あなたはひとりの、かけがえのない人間である。

あなたという人間は、この世に2人といない、唯一無二の大切な存在である。

過去に何があったとしても、その事実は、変わらないのだ。

未来は、自分で変えていける。

たとえ毎日、上司や家族からいたぶられていたとしても、

その受け止め方を変化させることで、未来を変えていけるのだ、本当は。

他の人はどうあれ、自分の場合はだめだろうか。

昨日の話に書いたように、家も仕事も、場合によっては愛する人も、

何もかも失って自暴自棄になる人は、もう、だめだろうか。

身体の機能の一部を失ってしまった人は、

あるいは身体の調子が悪く、入退院を繰り返す人は、

果たしてだめだろうか。

どうして自分だけは、だめなのだろうか。

なぜだめだと、思い込みたいのだろうか。

まずは、この人形を止めるだけでいい。

自分いじめを、やめるだけでいい。

心に優しいことをしよう、とこれまで何度も言っているのは、

それが、ささやきを止めるためのひとつの方法だからでもある。

ふたつめについては、また明日。

あなたは何を選択しますか?

今日の話は、自分の心が選ぶもの、について。

まず前振りとして、私の中学生のころの話から。

当時、私はユーミン(松任谷由実)の曲の歌詞が好きでよく聞いていたのだが、

そのころ発売された「Reincarnation」というアルバムに、こんな歌詞があった。

「私を許さないで 憎んでも 覚えてて」(「青春のリグレット」)

……そんな形でさえ覚えていてほしいのか? よくわからん、と思っていたが

(まあ、中学生でその深さがわかるほうが珍しい)、今から考えれば、

これは「他人から求めてもらう」ことを望んでいる人の姿である。

これまでに何度か書いている「他者からの承認」が自分の生き甲斐、というパターン。

自分の存在価値は他人任せ、だ。

このあとに続くのが「たとえあなたが去っていっても」という、失恋から立ち直って

新しく生きていこうとする人の歌だったりするから、歌唱力はどうあれ、

ユーミン、やっぱりある種の天才だろうと思う。よく考えてる……。

ちなみに「Reincarnation」の意味は、輪廻転生、生まれ変わり、なのだ。

中学生にはさらに意味不明、って感じだったが。

別に、これが1人の女性の、失恋とその後の経過を表しているわけではないかもしれない。

でも、「何を選択していくか」の例にはなるだろう。

過去の思い出の中にある他者の承認(愛)にしがみついて「私を覚えていてほしい」と思い続けるか、

たとえ相手が去っていっても「幸せかどうかわからないけど 自分からあふれるものを生きてみるわ 今は」

(あ、これはその次の曲の歌詞ね)と思って生きていくか。

苦しみ続けるのは、どちらだろう。

そんなこと、わかってる! という声も聞こえてきそうだ。

そこから抜け出せないから、苦しいんじゃないか、って。

責めているのではない。昨日も書いたけれど、過去も、今の苦しみもあなたの頭のなかにしか存在せず、

あなたがそれを選んでいるのだ、ということを、まず認識してほしいのである。

そこが感覚的につかめないと、ずっと、悲劇の主人公のままになってしまうからだ。

そのために、とてもとても苦しい例を2つ、挙げる。

ひとつめは、Twitterなどで広がったから、読んだ方もいらっしゃると思うが、

福島県で、津波の被害に遭われた兄の言葉を綴った、ある女性のブログ。

被災地の友人が教えてくれたのだが、これは身内にだからこそ見せられる「絶望」だということ、

また、被災地では前向きな人、不安な人、絶望している人、の3種類に分かれているのではなく、

「ほとんどすべてのひとが、日によって、時間によって、時と場合によって、

三つの心境を行き来しているのが現実とご理解いただくと嬉しい」(その友人の言葉)ということを

ふまえたうえで、読んでみてほしい。

http://t.co/BCpGxmR

このような方と同時に、家だけでなく、汚染や塩害で田畑がだめになっていても

「いつかやり直す」と決意している人もおられることも、事実だ。

行方不明の身内を心配しながらも、壊れた家の片付けを始められた方が、テレビのインタビューで

そう答えていらっしゃった。

もうひとつ。

私がフラフラと時短で仕事を再開し始めてから、取材で出会った、ある農家の女性の話。

その、ほんの1ヵ月前に、彼女は農作業の途中で機械に片腕を巻き込まれ、二の腕の途中からを切断されてしまった。

そのときとっさに、彼女がとった行動。

歯と残ったほうの手で傷口を縛って止血し、舌で携帯電話を押して家族に助けを求め、

切断された腕を持って病院に行き、開口一番「先生、つながるでしょうか」と、尋ねたという。

その畑の関係者の男性とも一緒に取材に行っていたので、道中でこの話を聞いた。

幸い命は取り留めたものの、腕はつながらず、今は落ち込んでおられるはずだ、ということだった。

関係者の方は「僕だったら、その状況で行動できない。ショックで気を失って、出血多量で終わりだった」と

おっしゃった。うん、私も、そうだったかもしれない。片腕が一瞬にして、消えたら。

しかも、利き腕だったそうだからなおさら、おつらいことだろう。

驚いたことに、その女性は、私たちが近所に尋ねてきたことを知って、わざわざ出てきてくださった。

どう言葉をかけていいか、ためらいながらもその関係者の方が「どうですか」と尋ねたら、彼女は

「まあ、まだつらいときもありますけどね。いろいろ慣れてないし。

でも、失ったものを取り戻すことはできないですから。

大丈夫ですよ。この身体でできることを考えていきます」

と、笑顔で! おっしゃったのである。もちろん、私たちを気遣ってくださったからではあるが、笑顔だった。

頭を殴られた思いがした。フラフラしている自分がいたから。

……どう生きていくかは、自分で選べるのだ、と、思い知らされた。

しばらくのち、その女性は義腕をつけて、また、畑に出ていかれるようになったそうだ。

きつい例ばかりを2つ、挙げた。

ひとつめは、今、東日本で多くの方が向かい合っていらっしゃる現実だ。

「外側」には何もなくなった。家も、財産も、人によってはご家族も。残っているのは、自分自身だけ。

それでも私たちが、ふたたび、その方たちに希望を持ってほしいと思うのは、偽善ではないだろう。

ふたたび、明るい未来を取り戻し、新しい気持ちで生きていってほしい、と。

もうひとつは、身体の一部を失った方。でも彼女は、自分の心までは失わなかった。

それは、その方が「そうしよう」と選択された結果だ。そうして生きていこう、と。

そこまでして生きていくことに、何の意味がある? と、

この女性を冷めた目で見る方も、いらっしゃるとは思うけれど。

今日、私が伝えたかったのは、その部分ではない。

何を選択して生きていくのか、結果として、何によって自分の「意味と価値を計るのか」は、

自分自身であるということだ。そのことだけを、理解していただけたらと思う