あなたは何を選択しますか?

今日の話は、自分の心が選ぶもの、について。

まず前振りとして、私の中学生のころの話から。

当時、私はユーミン(松任谷由実)の曲の歌詞が好きでよく聞いていたのだが、

そのころ発売された「Reincarnation」というアルバムに、こんな歌詞があった。

「私を許さないで 憎んでも 覚えてて」(「青春のリグレット」)

……そんな形でさえ覚えていてほしいのか? よくわからん、と思っていたが

(まあ、中学生でその深さがわかるほうが珍しい)、今から考えれば、

これは「他人から求めてもらう」ことを望んでいる人の姿である。

これまでに何度か書いている「他者からの承認」が自分の生き甲斐、というパターン。

自分の存在価値は他人任せ、だ。

このあとに続くのが「たとえあなたが去っていっても」という、失恋から立ち直って

新しく生きていこうとする人の歌だったりするから、歌唱力はどうあれ、

ユーミン、やっぱりある種の天才だろうと思う。よく考えてる……。

ちなみに「Reincarnation」の意味は、輪廻転生、生まれ変わり、なのだ。

中学生にはさらに意味不明、って感じだったが。

別に、これが1人の女性の、失恋とその後の経過を表しているわけではないかもしれない。

でも、「何を選択していくか」の例にはなるだろう。

過去の思い出の中にある他者の承認(愛)にしがみついて「私を覚えていてほしい」と思い続けるか、

たとえ相手が去っていっても「幸せかどうかわからないけど 自分からあふれるものを生きてみるわ 今は」

(あ、これはその次の曲の歌詞ね)と思って生きていくか。

苦しみ続けるのは、どちらだろう。

そんなこと、わかってる! という声も聞こえてきそうだ。

そこから抜け出せないから、苦しいんじゃないか、って。

責めているのではない。昨日も書いたけれど、過去も、今の苦しみもあなたの頭のなかにしか存在せず、

あなたがそれを選んでいるのだ、ということを、まず認識してほしいのである。

そこが感覚的につかめないと、ずっと、悲劇の主人公のままになってしまうからだ。

そのために、とてもとても苦しい例を2つ、挙げる。

ひとつめは、Twitterなどで広がったから、読んだ方もいらっしゃると思うが、

福島県で、津波の被害に遭われた兄の言葉を綴った、ある女性のブログ。

被災地の友人が教えてくれたのだが、これは身内にだからこそ見せられる「絶望」だということ、

また、被災地では前向きな人、不安な人、絶望している人、の3種類に分かれているのではなく、

「ほとんどすべてのひとが、日によって、時間によって、時と場合によって、

三つの心境を行き来しているのが現実とご理解いただくと嬉しい」(その友人の言葉)ということを

ふまえたうえで、読んでみてほしい。

http://t.co/BCpGxmR

このような方と同時に、家だけでなく、汚染や塩害で田畑がだめになっていても

「いつかやり直す」と決意している人もおられることも、事実だ。

行方不明の身内を心配しながらも、壊れた家の片付けを始められた方が、テレビのインタビューで

そう答えていらっしゃった。

もうひとつ。

私がフラフラと時短で仕事を再開し始めてから、取材で出会った、ある農家の女性の話。

その、ほんの1ヵ月前に、彼女は農作業の途中で機械に片腕を巻き込まれ、二の腕の途中からを切断されてしまった。

そのときとっさに、彼女がとった行動。

歯と残ったほうの手で傷口を縛って止血し、舌で携帯電話を押して家族に助けを求め、

切断された腕を持って病院に行き、開口一番「先生、つながるでしょうか」と、尋ねたという。

その畑の関係者の男性とも一緒に取材に行っていたので、道中でこの話を聞いた。

幸い命は取り留めたものの、腕はつながらず、今は落ち込んでおられるはずだ、ということだった。

関係者の方は「僕だったら、その状況で行動できない。ショックで気を失って、出血多量で終わりだった」と

おっしゃった。うん、私も、そうだったかもしれない。片腕が一瞬にして、消えたら。

しかも、利き腕だったそうだからなおさら、おつらいことだろう。

驚いたことに、その女性は、私たちが近所に尋ねてきたことを知って、わざわざ出てきてくださった。

どう言葉をかけていいか、ためらいながらもその関係者の方が「どうですか」と尋ねたら、彼女は

「まあ、まだつらいときもありますけどね。いろいろ慣れてないし。

でも、失ったものを取り戻すことはできないですから。

大丈夫ですよ。この身体でできることを考えていきます」

と、笑顔で! おっしゃったのである。もちろん、私たちを気遣ってくださったからではあるが、笑顔だった。

頭を殴られた思いがした。フラフラしている自分がいたから。

……どう生きていくかは、自分で選べるのだ、と、思い知らされた。

しばらくのち、その女性は義腕をつけて、また、畑に出ていかれるようになったそうだ。

きつい例ばかりを2つ、挙げた。

ひとつめは、今、東日本で多くの方が向かい合っていらっしゃる現実だ。

「外側」には何もなくなった。家も、財産も、人によってはご家族も。残っているのは、自分自身だけ。

それでも私たちが、ふたたび、その方たちに希望を持ってほしいと思うのは、偽善ではないだろう。

ふたたび、明るい未来を取り戻し、新しい気持ちで生きていってほしい、と。

もうひとつは、身体の一部を失った方。でも彼女は、自分の心までは失わなかった。

それは、その方が「そうしよう」と選択された結果だ。そうして生きていこう、と。

そこまでして生きていくことに、何の意味がある? と、

この女性を冷めた目で見る方も、いらっしゃるとは思うけれど。

今日、私が伝えたかったのは、その部分ではない。

何を選択して生きていくのか、結果として、何によって自分の「意味と価値を計るのか」は、

自分自身であるということだ。そのことだけを、理解していただけたらと思う

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