心を痛めた場合、回復には時間がかかることが多い。
しかも、足を折ったときのように目にみえて「具合がわかる」わけではない。
強いて言えば、内臓疾患にかかって、入退院を繰り返す人の心境に近いだろう。
それでも「検査」のように、数値で回復の状況を測れるわけでもないので、余計にイライラすると思う。
しかも。
心の問題であるから、その回復度合いは人によって違う。
心の問題だから、何かのきっかけでまた、悪化してしまうこともある。
イライラするだろう。心配も不安も、ときによっては絶望もするだろう。
記憶、というものはやっかいで、時間が経つにつれ、切り捨てと強化を行っていく。
そこにこだわればこだわるほど、自分のなかで感情が強化され、
また、たいしたことのない部分は忘れていく。
記憶の美化、というのはよく言われることだが、別に美化に限った話ではないのだ。
でも、そうした思い出の繰り返しをすることで、何かが報われる、ということは、あまりない。
切り捨てられれば幸いだが、たぶん、そうはうまくいかない。
イヤな部分が強調され、場合によっては歪曲された上にこびりつくこともありえるのだ。
そして、それを選んでいるのは、他でもない自分自身である。
なおさら、つらいよね。自分を情けなく感じちゃうと思う。
私でさえ、いまだに「恥」的な情けなさの回路に陥る。とくに自分がサクッと動けないときなどに。
でも、回復を待つ、という利点は、ひとつあるのだ。
それは思い出が「時が経てば、風化する」性質を持っているから。
どれほどうれしかったことでも、どんなに悲しかったことでも、何年、何十年も過ぎれば、確実に、
そのときの感情をまったく同じように味わうことはなくなる。
「そういうこともあった」と思えるのだ。
これは、頭のなかで繰り返し繰り返し、苦いアメ玉を取り出しては「なめ返す」ようなことをしない限り、
すべての記憶に作用する。
つまり「究極の言い方をすれば」だけど、時間が過ぎればいつか、あなたはそのどん底の状態からは
抜け出せるのである。
時間による風化は、人にとって、「優しい」性質を持っているのだ。
そんなもの、耐えて待っていられるか!! と思う人もいるだろう。
それもそうだ。私も、死にたかったときは、その日、その瞬間、その1日がイヤだった。
でも、解決策が本当にまったく見つからない、というわけではない。
少なくとも、それもまた、ひとつの解決策であることには変わりないのだ。
あなたは、すべてのものから見捨てられているわけではない、ということだ。
少なくともあなたの脳は、つらい部分を風化させるべく、時間が過ぎるのを待つことができる。
あなたの心は、そうやって時間をかけてでも、勝手に、回復を図ろうとしてくれるわけである。
あなたの身体が、あなたの心が、あなたを見捨てることは、本当はないのである。
時間という可能性を考慮すれば、そこから抜け出す策はあるのだから、今、自暴自棄、を選んでいるのは、
あなた自身。あなたがそれをわざわざ、選んでいる、と、言えるのだ。
医師が、「様子をみましょう」というのは、このためだろう。
少なくとも時間が経過することによって、何かが変わっていく可能性があることを、知っているのだ。
自己治癒能力は、身体の傷に限ったことではないのである。
だからもし、あなたが、時間という回復手段に、協力したいと思うなら。
協力して、早くその心の状態から抜け出したいと思うのであれば。
自分を責め、人を責める思考回路から、まずは抜け出すことが先決となる。
そこを離れるには、まったく別の、他のことを、みつめるようにするのだ。
新しいこと。忘れていたこと。どちらでもいいから、自分が「うれしくなること」。
心が、ホッとすること。気持ちが安らぐこと。
その種類と回数、そうした気持ちでいる時間を、長くすることが大切になる。
例えていうなら、あなたは今、勝手にサナギになってしまったようなものである。
意図していなかったのに、いつの間にか、サナギになった。
それまでの姿、それまでの価値観は全部溶けて形もなくなり、ドロドロである。
で、サナギのままで、こんなのイヤだ! と言っているわけである。
イメージしてみてほしい。サナギになったのは、自分の心の力で、そうなったのである。
心の力がマイナス方向に働いた結果、その状態になった。
でも、サナギになるほどの力があったのと同様、次に、どんな姿で世に現れるかも、本当は自分で決められる。
これまでの窮屈な人生を生きるのをやめ、本当に自分がいいと思えること、
周囲の人にも自分にも喜びを与えるような生き方をできる、チャンスではある。
きれい事、ではない。それまでの生き方がつらかったから、サナギになったのだ。
じゃあ、そこにしがみついて、過去を思い返し、後悔を続けることは、本当は必要ないのだ。
過去は、今じゃない。過去は、未来でもない。あなたの頭の中に、残っているだけだ。
待つつらさ、待てない、と思う心の苦しさ、先への不安。
それらを全部、私も体験している。私もまだ、「世に羽ばたいた」とは言えない。
それでも、私は時間に助けられたし、心地いいものに救われ、生きてるってやっぱりいいのかも、と、
思えるところには来た。
もちろん、周囲の人たちにも救われた。
でも、それを求める努力はした。自分の気持ちを明かした。そういう場に、行った。
ネット上でも、現実でも、病院のカウンセリングなどにも。
つらさを吐き出しながら、心地よくなるよう、生き直してみることを、努力したとは言える。
まあ、まだたぶん、十分に足りてはいないわけだろうけれど。
それでも全部をあきらめるのではなく、弱々しくても心地いい、新しい生き方にしていってみよう、とは思えている。
その過程を私が経たことは、単なる幸運、ではない。
視点を切り替え、自分の過去の「記憶」を風化させていくことは、あらゆる鬱の本に載っている、脱出方法でもある。
時間をかけることは、決して、「間違い」ではないのだ。
そして実際には、絶対に、必ず、時間をかけなくてはいけない、ということでもないのだ。
今は実感できなくても、そういう道はある、ということだけ、知っていてもらえたら、と思う。