これもまた、1回では書ききれないことをテーマにするので、徐々に書き連ねていくしかないけれど……。
病弱な人が過激な肉体労働をできないように、心が痛んでいる人が何らかのアクションを起こすには
とてもたいへんな力を必要とする。そして、そのこと自体を認められず、イライラし、落ち込む。
人生にはいろいろな出来事が起こる。
その実例を、私たちは今、いやというほど毎日テレビなどの報道で見ている。
天災だろうと、人災だろうと、自分のこれまでの積み重ねだろうと、人からの仕打ちだろうと。
自分の気持ちが痛み、心が苦しくなり、この先のことが見通せないのは、同じである。
そして、それを乗り越えていく気力なんて、持てないよ、もう、と思う気持ちも。
それでも、越えられるのだ、本当は。
これまで何度も書いているように、自分の痛み具合を認め、まずはその気持ちを回復させなければ、
一瞬はともかく、そのあとが持続しない。ダイエットとリバウンドを繰り返すようなものであるが、それよりタチが悪い。
だから、瞬間的にあえいだところで、あまり意味がない。たまたま、上手に乗り越えていくすべが
みつかればいいけど、みつからなければ、さらにまた、深いところへ落ちる。
ねえ、じゃあ、どうしてそもそも、そういう谷があるのだろう?
その谷は、あなたが自分で自分を追い詰めているがゆえに現れていることは、これもまた、
何度も書いているから、もうお気づきだと思う。
その谷に落ち込む、ということは、あなたは何を求めているのだろう?
お金とか、地位とか、くらしとか、他者からの愛情だとか、そういうものだろうか。
それを得たら、あなたはどういう気持ちを、得られるのだろう。
あなたが求めている、その奥の奥、一番根本にあるものは、何なのだろう。
「世間」と同じレベルにいたいという、安心感?
昔、同じレベルだった人は、本当に安心してた? もっともっと、とは、まったく思ってなかった?
その「世間」って何だろう? その表現で求めているものは何だろう?
……追い詰めているのではない。今のその重症の状態で、働きがまともじゃない脳で、
考えまくれ、というのではない。
ただ、そういう何かがあって、自分のなかでそれに対する違和感を感じていたからこそ、谷が現れたのだ、と、
自覚してほしいのだ。少なくとも、私は、そうだったと思えている。
そういう何かをつかみ、根本的に自分が求めているものを少しずつ、自覚していくと、
必ず、勝手に、自動的に、「新しい視点」に気づく。
それを、私は「きっかけ」「気づき」と呼んでいる。
それはいろいろな形で現れる。深い、大きなものが、ある日突然ドカン! とやってくるのではない。
中にはそういう人もいるかもしれないが、たいていは小さな小さな、気づきの積み重ねとなることだろう。
そしてそのほうが、無理なく、実感を伴って、自分に力を与えてくれるだろう。
焦る必要はない。明日の糧に困るなら取り急ぎ、何かアルバイトをして、「つなぐ」だけでいい。
それさえ無理なら、一時的に行政に頼ろう。恩を返すのは、後でできる。税金という仕組みがちゃんとある。
食べものや住居に困らないのであれば、まずは「よい」と思えるものを、ちゃんと「よい」と感じられる状態にまで
戻っていこう。音楽、本、味、自然の美しさ、人の心の温かさ。いいと思えるものだけを、心に残そう。
それ以外のものは、その時点で、置き去りにしていこう。考えるのを、やめよう。
谷は、自分の心の中に現れる。ある意味、あなたがこれまでの価値観で、自分のなかに作り上げてきたのだ。
だからそれは、自分で取り去れる。
谷をつくる力があるのと同時に、その谷を埋め、さらには山をつくっていく力も、あなたにはある。
本当は、あなたの中に、すでにある。
今は、痛んでいるから、休憩中になっているだけだ。
「気づいていくもの」については、またいつか、丁寧に書いていきたい。
今、痛んでいるところから、「よい」ものを感じ取れる心を取り戻すことだけに、集中していこう。
私もこの震災でまた、自分のなかにさまざまな谷を見つけた。
周りの状況、自分の受け止め方、自分の行動、自分の弱さ。そういった、自分の心の中の谷。
それを少しずつ、埋めていこうと思っている。少しずつ、絶対に、無理はせずに。