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食べる、ということ(2)

私は食や心の専門家ではないので、ここでは自分の体験と、本で自分がつかんだ知識をもとに話をすすめていく。

自分には当てはまらない、または違う、と思われることもあるかもしれないが、その点はご了承いただきたい。

食べること。その行為そのものは、本来「うれしさ」や「喜び」を伴う。

例を挙げるまでもなく食べものを前に「わーい♪」と思ったことは、皆、あるはずだ。

でも、鬱になると、まず胃腸の調子が悪くなったりすることで、消化吸収の回路が不調になる。

加えて不眠などの体調の変化により、お腹が空く時間がまちまちになったり、

場合によってはお腹が空かなくなったりする。

甘いもの、油っこいもの、刺激の強いものを食べたい、と思う気持ちに至っては、

身体がその栄養分を欲するのではなく、脳が欲するらしい。

とある本で、これを「一時的な脳のごまかし」という感じで表現していたが、

つらさ(その理由が仕事、学問、人間関係、その他何であっても)を少しでも忘れようとするために

瞬間的・衝動的な欲がわくのだと思う。

こうした瞬間的・衝動的な欲というのは、基本、破壊の方向に進むことが多いだろう。

そして人は、「壊す」という行為そのものにも、どこかで一瞬「喜び」を感じるのだ。

私がずっと覚えている、中学生のときの、学校の先生の話がある。

立体図形の断面の切り口が、どのようになるのか。

それを知るために、授業で実際、立体を厚紙でつくり、線を引いたとおりにカッターで面を切っていく。

このとき、ほとんどの生徒がもれなく、「微笑み」を浮かべながら作業するのだそうだ。

自分もそのとき、ちょっとニヤッとしながら切っていたので、「へえ、なるほど~!」と思った。

が、しかし、この瞬間的・衝動的な欲(ここではわざと破壊欲、と呼ばせてもらうが)は、長くは続かない。

壊してしまえば、そこまでだからだ。1~2分は解放された気分になるかもしれないが、

たいていは、あとから「やってしまった」と思うだろう。

たとえば壁に向かって何か投げつけ、それが壊れたりゆがんだりすることで一瞬、爽快感を感じはしても、

あとに残るのは、壊れた残骸なのだ。少なくとも、ちょっとがっかりするよね。

甘いものやスナックなどを一気に食べた後も、これと少し似たような感覚を感じるように思う。

その瞬間はうれしくても、あとで何だか「あーあ」と思ってしまう。

ましてや、ご飯をまともに食べていないときには、余計に「何かが狂っている」感じがして、

イヤになってしまったりもするのだ。

たぶん、「過食」という状態のときの気持ちは、この延長線上にあるんだと思う。

私はそういう症状が出なかったので、実際のところはわからないけれど、

結果的には立体を壊すのと同じような、破壊的な「食べたい」という衝動と、そのあとの後悔。

拒食の人も、スナック類やチョコレートは口にできるそうなので、やはり少し、近い状態なのだろうと思える。

実際、私も1ヵ月半くらい、ほとんどチョコレートと甘いカフェラテだけで生きていた時期があった。

たぶん自分で、自分の気持ちを、ある意味さらに、破壊しているのだ。

そして、食べたものから身体が作られる、という点から考えると、

少なくとも「糖分」が脳に届くことで、瞬間、脳の働きが活性化される面はあると思うけれど、

それよりも余分な糖分や塩分、油分、刺激物などが、身体に与える影響のほうが大きいと思う。

普通に考えれば、血や肉をつくるたんぱく質、細胞の働きを助けるための各種ビタミン等の栄養素、

生の野菜や魚、発酵食品などから得られる酵素、といったものが不足しているのだから、

身体は衰えていくだろう。細胞の力は、弱まっていくと思う。

そこに、糖分や塩分など、限られたものだけを、入れていくのだ。

消化も悪くなって時間はかかるだろうし、刺激物によって睡眠時間は狂いがちになるだろうし、

何より、脳はまともには働いてくれない。

栄養が不足すると、身体の「必要最低限」の働きを維持するために、「最低限」以外の働きは抑えられるからだ。

たとえば甘いものを食べると、本当は体温が上昇するはずだが、そんな食べ方をしていたら

却って血行はにぶくなってしまうだろう。

血の流れが悪くなるから、脳の働きもににぶるし、老廃物の排出もにぶくなる。身体がだるくなる。

さらに体温が下がって寒さを感じるから、余計に活動意欲も衰える。

……単純に、状況は悪くなる一方なのだ。そこから逃げたくて甘いものを食べているはずなのに、

ますます深く、そこへ潜り込んでしまう。

さらに、これは、と私が思ったのが、「そう働くよう、身体の遺伝子に組み込まれている」ものが

ある、ということ。

たとえば大豆から摂取するたんぱく質が、女性ホルモンの働きを助ける、ということで、乳がんなどの

食事療法として話題になったことがあるのだが、西洋人が大豆を過剰摂取すると、

却って身体に悪い、という研究結果もあるそうだ。

日本では大豆製品を食べると、赤ちゃんに母乳を与えているお母さんはお乳の出がよくなる、とされている。

本当に昔から「おばあちゃんの知恵袋」的に、語り継がれていることだし、実際、効果もそれなりにあるらしい。

なのに、西洋の人が意識して摂取を増やすと、却って身体に悪い場合もある。

その理由として述べられていたのが、「食生活習慣」、食の環境だ。

アジア系の民族は基本的に、大豆を煮たり、煎ったりして、食事に加えてきた。

味噌類、しょうゆ類などの加工食品も発達し、「日常的に」大豆製品を摂ってきた。

それゆえ、身体の中で「悪く働く」面より「良く働く」面のほうが大きい、というのだ。

代々、受け継がれてきた「食事」は、遺伝子にも変化を与え(これって進化論を考えると、

まあそうだろうな、とも思える)、身体を健康に保つ秘訣も、そのなかにきっと、密かに組み込まれているのだ。

蛇足的に言うと、だから、海外で承認された医薬品を日本でも早く使えるようにするため、

海外での実験結果をもとに許可するよう法律が改正されたことは、私はちょっと怖いと思っている。

西洋の人に効いたからといって、東洋人に同じように効くとは限らないし、西洋人に出なかった副作用が

東洋人には出るかもしれないのだ。この改正って、バイアグラを使いたかった政治家が圧力をかけたという

話があるけれど、本当だろうか……。治療が難しい、難病などの分野に限ってほしかったな……。

閑話休題。

とにかく「食事」という行為は本来、「うれしい」ものだし、「健康を保つ」智恵まで含まれているはず。

「身土不二」(しんど・ふじ)という言葉もある。その土地でとれる食べものと、私たちの身体は

深くつながっている、という考え方だ。大豆のことだけで考えてみても、本当にそうだろうなと思う。

だからね。グルグルしている人に、伝えたい。

そこから抜け出したいのなら、なるべく「普通の食事」を食べようよ。

少量でいいから、できれば私たちの身体に負担が少ない、日本食を中心に。

お米を食べると、排泄も起こりやすくなる(これは、繊維質が多いからだそう)。

排泄が起こるということは「身体が働いて、悪いものが出ていく」ということ。

そう、身体から、悪いものが出ていってくれるのだ。単純にもう、物理的に。

しかも、「おいしい」と思いやすい食事であれば、心にもよい影響が起こる。

うれしいこと、心地いいと思えることを、1日のなかで増やせるのだ。

食べるのがつらい、それだけで心が苦しい、という人は、もちろんまだ、無理しなくていいけれど、

スナック類やチョコレートで生きてる人なら、白いご飯にごま塩をかけて食べるだけでも、何か変わってくるはず。

準備が億劫なことも、承知してはいるけど。

ご飯は、電気釜に任せよう。汁ものも難しく考えるのでなく、最初はインスタントの味噌汁やお吸い物でいい。

「とろろ昆布」をお椀に多めに入れて、しょうゆを少し垂らして、お湯をそそげば「昆布のお吸い物」になるし、

鰹節を1~1.5パック、お椀に入れて、お湯を注いでからお味噌を少し溶くと、鰹節が具になった味噌汁ができる。

野菜も、大根やキャベツやナス、キュウリなど、好きなものに薄く塩をふって、もんで絞れば、立派なおかずになる。

温かい白いご飯と汁もの、薄味の野菜。それだけで少し、ホッとした気分になれるはず。

スナック類やチョコレートと違うのは、食べたあとも罪悪感がなくて、お腹が満足して、身体が温まる、ということ。

そして、悪いものも出ていってくれる、ということ。

食べることのうれしさを、ほんの少しでも取り戻して、身体の力を、少しでも取り戻していけば、

そこから抜け出す力もきっかけもまた、単純に湧いてくるのだと、私には思える。

食べる、ということ(1)

鬱になったときに、私が一番、自分自身でつらく感じたのは、

ご飯を三食、きちんと食べることができなくなった、ということだった。

今となっては「行き過ぎた価値観」であることがわかっているのだが、

実家の母親が「三食きちんと食べるべき」というしつけをしてくれる人だったため、

それができない=よくない、という考えに陥ったのだ。

身体を保つために、朝・昼・夜のご飯もしっかり食べる、というのは、

胃腸の調子が悪い人をのぞけば、決して悪いことではない。

母は、私の健康のためにそのようにしてくれたのだし、

それは普通ならとてもありがたい話なのだ。

過度に捉えて罪悪感を感じたのは私の勝手な都合。鬱ってやはり、ヘンな病気だなと思う。

唯一、「~ねばならない」というくくりから抜け出せたところは、感謝しているけれどね。

また、江戸時代は一日二食だった、とか、食べるサイクルについていろいろな説はあるけれど、

その時代は概して短命だったことを考えれば(もちろん医療技術も関係してはいるが)、

栄養価的な面も含めてバランスよく、ほどよく食べること自体は、健康を保つことになる。

ただ、実際には過食の人を除き、お腹があまり空かないだろう。

思考能力が低下し、身体を動かすのも億劫なので、単純にエネルギーの消費量が減る。

しかも、家族が食事を作ってくれるのであればまだしも、家庭の主婦やひとり暮らしなど、

自分で食事を用意しなくちゃいけないとなると、段取りと手順を考えて料理をするという行為が

たいへんしづらくなるために、さらに食べることが億劫になるのだ。

主婦の方は、だから余計に罪悪感を持たれてしまうだろうと思う。

が、しかし。

人の身体は、食べたものからつくられる。逆の言い方をすれば、食べたものからしか、身体はつくられない。

呼吸は活動のためのエネルギー源として必要だが、それ以外はすべて、

口からものを食べ、新しい細胞とエネルギーと栄養を得ることによって保たれていくのだ。

人の身体のなかで、中枢神経と脳を除いた部分では、細胞の入れ替わりが行われている。

諸説あるが、骨まで含めて7年~10年以内には、細胞はすべて新しくなるそうだ。

再生しないとされる中枢神経と脳神経についても、大脳だけは再生している可能性がある、とか、

細胞の源となる「幹細胞」なら、損傷した場合などにそこから再生できるかもしれない、など、

いろいろな研究が進んでいて、ときどき新聞等で、その実験結果が紹介されている。

今日、食べたものが、明日以降のあなたの身体の一部となり、また、身体を保つエネルギー源として働くのである。

そういう意味で言えば、食べることがいかに「人体」にとって大切か、よくわかると思う。

単純に考えてもたかだか65年前、戦争があった当時は、「飢え」や「餓死」が起こっていた。

昭和の初めごろはまだ、地域によっては「飢饉」に近い事態も起こっていたらしい。

お金を出せば全国、さらには世界中の食材を自由に手に入れられるようになった今の「飽食」は、

本当に最近の話なのだ。ましてや「ダイエット」なんて、飢えの時代には発想すら消えていただろう。

こうしていろいろ考えてみても、身体を保つためには今、とてもよい環境になっている。

だからといって、無理矢理食べろという話ではない(あ、でも、「いただきます」くらいの感謝はしてほしいかな)。

ただ、食べて身体を保つことは結局、「脳」を保つことにつながる、と言いたいのである。

あなたは、今、苦しい。それには、脳の働きも大いに関係している。

もちろん、精神的な問題が、食べることですべて解決するわけではないけれど、

「よい状態」にしていくことは、必ず、あなたの回復には役立つのである。

以前に少しだけ「医食同源」について触れたが、食べることは一種の治療行為だ。

だから少量でもいいから、よい形での「食」を保てるよう意識してもらえれば、と思う。

その、つらい場所から抜け出すための一助として、利用してほしいのだ。

食べものと身体、そして気持ちの具体的な関係については、また明日以降に。

自分を、痛めつけるのを、やめる

……正直、難しいテーマなので、一気に語れる話だとは思わないけど、書いてみる。

死にたくなるときって、もうどうしようもなく、自分のことが情けなくて、嫌いだ。

こんな自分を、認めたくなくて、でもどうしていいか、まったくわからなくて。

誰かのせいでそうなったとしても、やっぱり、自分が自分を嫌ってしまうことには、変わりないと思う。

つらい。痛い。苦しい。本当に、どう言っていいかわからないくらい、つらいよね。

何かの本で、「自分をギリギリと痛めつける」という表現があったけど、

まさに「ギリギリ」って、音をたてて締め付けるかのように、自分を絞って、固めていっちゃうような感じで。

そこで泣ければまだ少しましだけど、泣けないことさえある。

泣いたって、ほんの少し、ゆるむだけかもしれない(ゆるむだけ、マシだけど)。

とにかく、もう、イヤなのだ、全部。

すべてがイヤで、納得いかなくて、苦しい。

そんな状態のときに何をしろと言うのだ、と思われるかもしれないけど。

単純に、それを考えるのを、やめてほしいのだ。

他人からの攻撃は、その人の気が済めば、あるいは物理的に部屋を出るとか、距離を置けば、終わる。

でも、自分で自分を攻撃し始めると、それこそ終わりがない。

24時間、いつでも、どこでも、いつまででも、やっちゃう。だって、自分の中で起こすことだから。

でもね、それをしたら、何か、変わるかな。

何か、そんな自分を変える、いい方法が見つかるかな。

見つからないよね。だから、自分を消し去りたくなるんだよね。

消すことしか、解決策は、見つからなくなっちゃう。

でも、本当はイヤでしょう?

そんな究極の解決策、とりたくないよね、本当は。

あのね、とらなくていいんだよ。

「消すこと」しか見つからないんじゃない。

今は、自分で自分を追い詰めてるから、それしか「見えなく」なってるのだ。

そして、それしかない、なんてことは、ありえないから。絶対に、ウソだから、それ。

宗教ではよく、自死したら地獄へ行きますよ、とか、

蓮の花に250年閉じ込められて、反省しなくちゃいけませんよ、とか、

そういう「死んだあとについて」怖い話をするけれど、

死んだあと云々以前に、自分が死んでまで、訴えなくちゃいけないことなんてないのだ。

訴える? そう、たぶんある意味、訴えてるのだ。

最終的な手段で、「わかって!!」って。

なんとかしてほしい、苦しい、助けて、なんとかして、変えて、って。

うん。苦しいよ。確かにつらいよね。

じゃあ、自分で自分を追い詰めるのを、まず、やめようよ。

死んでまで苦しまなくちゃいけないほど、あなたは、ひどいこと、してないからさ。

今、この先のことがまったく思いつかないのは、「今、自分で自分を追い詰めてる」からこそ。

本当に、自分で自分を、どんどん苦しい方向に追いやってるから、この先のことも解決方法も、思いつかない。

もし、どうしていけばいいかを思いついたら、死ななくていいでしょう?

思いついても絶対に、100%、死ななくちゃいけないような罪を、あなたは背負ってる?

何か、究極のいけないことをした?

たぶん、してないと思う。「自分」という人を殺していいほど、いけないことは。

解決策、そこからの脱出方法を思いつかないから、自死するんじゃない。

自死したくなるほど自分を追い詰めてるから、思いつかないんだよ、そこからの脱出方法を。

順番、間違ってる。

じゃあどうすればいいか?

まずは、休んでください、物理的に。

本当に、単純に、食べて、温かくして寝て、起きて、食べて、寝て。

動物がケガを治すときのように、なんにも考えずに、過ごす。

どうしても働かなくちゃいけない状態で、実際に働いてる人も、できるだけ淡々と。

正直なところ、感覚・感情を動かさないでいいくらいのつもりで働いてほしい。

自分を責めるようなことが思い浮かんだら、別のことを考える。別の動作に、単純に切り替えてみる。

深呼吸して、その「息を吐く、吸う」を、この前に書いた瞑想のようにただ、みつめてみるのでもいいし、

音楽を聞くのでもいいし、マンガを読んだり、洗濯してもいい。お茶を飲む、窓を開けて空気を入れ換える。

どんな方法でもいいから、別のことに没頭する、頭を、そこから無理矢理、引きはがす。

そして「考えないですむ時間」を少しずつ、長くしていこう。

つらい気持ちを、風化させるのだ。

これは、死にたいところから抜け出せた後も、しばらくは同じだと思う。

自己反省はそれこそ、脳の動きが正常になってからしか、できないからさ。

病院で薬剤をもらって服用するのも、人によって効果の出方は違うから、良し悪し、両方の面があると思う。

頼りすぎないほうがいい。補助だと思っておこう(実際に、補助の役目しか果たせない)。

あとは、誰かに話すこと。なるべく正直に話して言葉を受け止めてくれる人を、見つけること。

職業的にはカウンセラーってことになるけど、カウンセリングは相性があるから、

ネットで探してみて、何人かにあたってみるといいと思う。

話すだけで、変わっていく。本当に、変わっていく。

家族や友人に頼らなくても、自力で、そうやって誰かに話すことはできる。

できれば、説教や指導をしない人を選ぼう。あなたの気づきは、あなたのなかから生まれてくる。

ヒントはくれても、自力で気づけるようにサポートしてくれる人を探そう。

変えたいなら、まずはそこから、変えてみようよ。

私は5年かかったけど、そうやって「自分で自分を痛めつける回路」の罠から、抜け出した。

それ以外にも、何か方法がありそうなら、ぜひ、試してみてほしい。

あ、ヘンなドラッグとか、教祖様をあがめたてまつる系の新興宗教など、

自分の外にあるものに「頼りっぱなし」になるのは、のちのち、また自分を痛めつけるよ。

結局、同じ結果になる。少なくともそれに手を出すのは、今じゃない。

死ぬほど苦しい