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たとえ、言葉が届かなくても。

人との関係で、避けて通れないのが「衝突する」という場面である。

そのときの状況、相手との関係、自分の判断、もう、いろいろな条件があるだろうから

一概にはくくれないのだけれど……。

私がとくに「失望」に近い衝突を経験したときを思い返すと、

その衝突で自分が感じていたことは、

言葉で言っても、自分のその思いが届かない悔しさ、つらさ。

別の意味に解釈されてしまう、あるいは否定される切なさ、悲しさ。

ということなんだと思う。

そして、それが「どうして!?」という思いを、自分に引き起こしていた。

その相手に、たとえ悪意はなかったとしても。

相手と自分の「常識」の範囲が違っていたり

相手が明らかに「過去の発言を忘れている」ってことだったり

「現在の状況をふまえていない」ことだったり。

私の体験した例で言えば(具体的な状況説明はしても意味ないので省く)、

「ええ? あのときにああ言ったこと、思いっきり忘れてる?」とか

「小さな親切、大きなお世話」をはるかに通り越した「勝手な親切、メチャクチャ迷惑」だったな。

とにかくこちらの意図が通じない、それもあきらかに、相手の勘違いや勝手な思惑により……って

いう場合が、一番、切なかった。

そのときには、あまりの事態に絶句しちゃって「あああ……」と、引き下がったのだけど、

無理だ、この人には、どうやったって届かないんだ……という思いと、

そういう発言をする相手に対し、失礼ながらもちょっと「同情」まで感じちゃったりしていた。

そう、これに関してはもう、どうしようもない、ってこともあるのだと思う。

相手は自分の主張を変えない(というかちょっと興奮状態だったりするから、余計に自己を守ろうとするだろう)し、

こっちは相手の主張を、どう考え直したところで、受け容れられないのだから。

「言葉の行き違い」なら、まだ、あとから自分が悪い部分を(そこだけなら、ってことでもいいから)

謝ることもできる。

でも、自分が明確に「受け容れられない」ことは、そこを変えてまで、相手の意見に納得することはできない。

相手と自分は、違う人間だから。

そういうある意味、理解不能な場面に出くわすと、ずっと記憶に残ってしまうこともある。

最近になってようやく、私はそうした事態や、過去の記憶に対しても、

「相手の問題は相手のものであって、私が解決してあげなくちゃいけないことではない」

って、少し遠くから見られるようになった。

相手が私の意図を理解してくれないことが悔しいように、

相手も、自分の意図を理解してくれない、と、私に対して悔しがっているのだ。

たとえ、相手のほうがあきらかに理不尽であったとしても、ね。

私だって、100%すべての人を受け容れられないわけだから、相手だって同じなんだ。

しかもその「受け容れられる」枠が、自分と相手でずれてるんだ、って。

もちろん、それで縁遠くなってしまうことは残念だったし、悔しかったし、悲しかった。

でも今は、そのときに自分の思いが届かなくても、言ってる言葉が届かなくても、仕方ないと思える。

希望のような仮定かもしれないけど、その人がいつか、何か別の場面で同じようなことを体験したときに、

「ああ、前にもこういうことがあったな」って、振り返ることがあるかもしれない。

そして、そのとき初めて、こちらの言葉が、届くこともあるかもしれない。

そうであれば私は、怒りにまかせて暴言を吐いたり、激しく自己主張して相手を攻撃したり、

相手に「説教」をするのではなく、思いだけ、きちんと伝えておこう、と思っている。

「私は、それが違うと思える。なぜならこういうふうに考えるから」という部分だけを、静かに。

実際、これをあるときに、淡々とやってみたことがある。

そうしたら自分がどんどん、冷静になっていくのがわかって、攻撃的な怒りも収まっていった。

そのときは本当に、完全に「相手が理不尽」だったので、余計に確信をもって、そうできたのかもしれない。

仕事上で関係がある相手だったんだけどね。

「あきらめ」とはまたちょっと、違うのだ。

自分の意見を自分で保つ。そこのところは、守っていいと思える。

単なる自己主張、でもない。もうちょっと、自分と相手の状況の両方を、見渡すような感覚。

見渡して、「今は届かないかもしれないけど」と、思ったうえで言うと、

こちらは怒りが収まっていくから、相手も、「どうしていいかわからなくなる」ような感じになるのだ。

ま、それで今度は、別の理由を持ち出されて、攻撃されるってことも、ままあるけどね(^^;)

たぶん、これも視点変換なんだろうな、と、自分では思っている。

今、言葉が届かないことを「悔しく」「腹立たしく」思うのではなく、自分が平常心を取り戻していく練習なんだと。

もし、そういう場面に出会ってしまったら、「今は、どうしようもないかもしれない」という感じで、

自分がその瞬間、何を一番伝えておきたいのかを落ち着いて考え、相手の主張や感覚も見直してみて、

ある程度、割り切るつもりで、対処してみてほしい。

それによってきっと何か、自分のなかで、変化が生まれると思う。

逆に、自分が悪かった点、対応としてまずかった点なども、冷静に見つめ直すことができると思う。

人に対する怒りや悲しみに「自分を支配させておく」必要はないのだと、私には思える。

これは、過去の記憶にある「理不尽さ」や「怒り」を和らげるのにも、効果があると思う。

私がやってみたときには、相手を切なく感じながらも、その苦しい気持ちから離れていけた。

難しいことは承知のうえだけれど。

時間をかけて少しずつでも、その支配から解き放たれていけますように。

破壊と再生

気持ちは毎日、揺れ動く。

昨日は少し明るかったのに、今日はもうだめだ。

でも明日には少し、忘れられるかもしれない。

これは、同じところを回っているようでいて、実はそうではない。

ほんの少しずつでも、耐性と変化が、現れている証拠である。

そうでなければ、心は、動くことがないからだ。

できれば、上へ上がっていきたいと、願うだろう。

なのに横にニョロニョロ、回転しながら伸びていくように思えたり、

あるいは下へグルグル、回って落ちていくようにも思えるだろう。

でも、そもそも自然のものは、そういうふうにできている。

水は横にも下にも広がって流れ、ときには勢いよく上にも流れる。

それでも、そのままの姿でとどまることはなく、やがて水蒸気となって空に昇っていく。

昇った水蒸気は、やがて雨となり、また新たな場所へ落下する。

植物は、芽を出した瞬間から、伸びていく。

地上の部分だけではなく、地下の部分でも。

下へ、横へ、上へ、全方向で、広がっていく。

生まれたての野生動物は、最初の生存に必要な日数分だけ、母や父に頼りながら、

やがて、自分だけでエサを探し、その探し方、移動の技術も学んで、独立していく。

行動範囲は、自分の身体が大きくなるに従い、必要な分だけ、広がっていく。

そこには天敵との戦いもあり、自分のパートナーを探す努力も加わっていく。

そして命をまっとうするまで、生きる。

昆虫は、場合によっては変態まで行う。

自分の身体をいったん、繭のなかで溶かし、新たに作り替えていく。

その次の姿は、大きな羽を持っていたり、固い殻を持っていたりする。

そしてやはり、世界へ飛び出していく。

私たちの身体も、勝手に細胞や腸内細菌が入れ替わり、成長、破壊と再生を続ける。

髪や爪は伸び、皮膚は徐々に表皮に向かって押し出されていく。

排泄する便のうち80%は水分で、残りの20%は、その1/3が食べもののカス、1/3が腸内細菌とその死骸、

最後の1/3が古くなった腸粘膜などの細胞であるという。

(全薬工業HPより  http://www.zenyaku.co.jp/k-1ban/file/cyonai/page02.html

食べたもののカスの量と同じくらい、腸内細菌や細胞は毎回、入れ替わっていくのだ。

変化していくこと、破壊されたあとに再生が起こることは、自然の摂理。

新しい家は、更地をつくり、整備してから建てたほうが、しっかり建つだろう。

思考もまた、グルグルしているようで、変化を続ける。

ただし、悪い将来予想を続けていても、それはたぶんモグラのように、地下を掘り進めるだけである。

よい将来予想でさえも、地下に思いを張りめぐらせ、土台をしっかりさせる必要がある。

穴ぼこだらけのゆるゆるの土地では、しっかりとした土台はできないのだ。

たとえそこに、家ではなく植物を植えて、育てるとしても、途中でモグラの穴をまた開けたら、

植物は倒れてしまうだろう。

すべては変わっていくものであることを、まず理解する。

本当に止まってしまっているときには、思考も停止している。

外界の刺激や変化を自分の心に入れる、つまり「感じる」ことができなくなるからだ。

その経験をされた方も、きっとたくさんいらっしゃるだろうと思う。

私が以前「薄暗いトンネルの、二択の出口」と書いたような、あの、どん詰まりの状態である。

だから思考が動くのであれば、それが上か下であるかは気にしないでいい。

考えていると気分が悪くなることだけ、単純に「やめる」のだ。

脳はまともじゃないし、心は痛んでしまっているから、いっぺんに前向きにはなれないだろう。

今、やりたいこと、今日、やりたいこと。可能であればこれから先の数ヵ月で、やりたいこと。

眠る、ご飯を食べる、本を読む、でもいいし、外出したい、散歩に行きたい、でもいい。

誰も卑下せず、誰も傷つけず、陥れる必要のない「やりたいこと」だけを、探ってみる。

そうしているうちに、ある日突然、自分に薄日が差していたことに、気づくときがくるのだ。

人によっては、一気に「直射日光」かもしれないくらい、フッと気づきが訪れる。

二歩進んで三歩下がる日もあれば、五歩、十歩進める日もあるかもしれない。

何より、暗い方向の思考を意識的に繰り返さないことで、その揺れ幅、振り幅は、

ときが経つにつれ、勝手に、徐々に狭まっていくのだ。

破壊があったら再生していくのが、この「見える世界」の摂理だから。

これは、再休職までした私の実感でもある。

そうなってまた「ふりだし」に戻ったようであっても、実は、違っていたのだ。

と言っても、かなり後になってからしか、そのことに気づけなかったのだけれど。

最初の休職のときはグルングルン、再休職のときにはグルグル。

揺れる輪っかの大きさが、違っていた。

ある日いきなり、思い切り叩き折られて複雑骨折した私でさえも、そう感じられたのだから、

たぶん、ゆっくりと変化の過程をたどってきた方ならもっと、いろいろと違いを感じ取れるはずだと思う。

イヤな気持ちは、何度でもわく。これでもか、というくらいに、暗かったり、重かったりする感情がやってくる。

でも、それを何度でも、丁寧に脇へ置いていこう。単純にストップさせて、違うことを考えよう。

無理矢理「忘れる」のではなく(そんなことは、それこそ無理だ)、

「ん、やめる。大丈夫。今は思いつかないけど」と思って、横へよけてしまうのだ。

そうした練習をしていくことで、心には「耐性」もついていくだろう。

自分の「大丈夫」と思える範囲を、ゆっくり自然に、広げていけるのだ。

それを「する」かどうか。

破壊ののちの、再生と変化を受け容れる、と選択するかどうかだけが、

あなた次第なのだろうと、今の私には思える。

周囲の変化と自分の変化

この時期に気持ちが暗いと、たいてい、焦る気分になる。

今年はちょっと、また違うかもしれないけれど。

もともと「木の芽どき」と呼ばれる、気温や気候変化に伴っての体調を崩しやすい時期ではある。

情報を探してみたら、愛媛・松山にあるメンタルクリニックの医師が、このような解説をしてくれていた。

春は、気温が安定せず、初夏を思わせるような暖かい日があったかと思うと、

翌日は花冷えで気温がぐっと下がったりと、気温差が激しくなる傾向にあります。

このような気温差は身体にとってのストレスになります。

また、就職、転勤、引越し、など、仕事や人間関係の変化が

精神的なストレスとなることもあります。身体的ストレスに

日常生活で感じる精神的ストレスが加わることで、

体の司令塔の役割を果たしている自律神経の乱れを引き起こします。

特に女性の体はとてもデリケートですので、自分では気がつかない程度のストレスでも敏感に感じ取り、

自律神経のみならず、ホルモンバランスの乱れを引き起こす可能性があります。

具体的な症状としては、冷え、肩こり、月経不順、などがみられるようです。

この時期は、気分・体調ともに不安定になりやすいと心構えをしていると幾分良いようです。

無理をせず、調子が良くないと思った時には、早めに十分休養を取るようにしましょう。

出典:三番町メンタルクリニック 雑記 2009/04/01

http://homepage2.nifty.com/s-mc/info/090401.html

焦るのは「新しい生活」の人が目につくからだろう。子どもたち、新社会人、引越等々、とくに若い人。

目の前に「変化していく希望」を見せられると、今の自分と比較することだろう。

が、しかし。

そういう境遇的・環境的変化は、決して、プラスの面ばかりがあるわけではない。

とくに進級・進学・就職・転勤などは、時期が来たら「否応なし」に対応せざるを得ないのだ。

年齢・性別に関わらず、一気に、このタイミングで。

緊張しようが、本当は変わりたくなかろうが、本人がどんな状況にあろうが、おかまいなしだ。

……正直、これからが大変な人たちも、たくさんいると思う。

隣の青い芝生を見て、焦らないでほしい。

とくにこの時期の芝生は、青いようでプラスチックだったり(チクチクする)、

実はさとうきび畑(迷う……)だったりする。

それは本人にしかわからないことだし、変われさえすればいいのではない。

心が暗い人はなおさら、自分のペースで、自分の決心がついたときに

輝ける方向へとスタートしないと、意味がないのだ。

他人を見て焦るくらいなら、自分の方向を見つめ直す作業のほうを焦るほうが、まだましである。

「新しい生き方」は、あなたの気づきを、待っている。

あなたのペースで、気づいてくれる日を。

書きながら、自分自身をも励ましている気がするが、本気でそう思っていることは事実である。

怖くても、少しずつ。つらいときはもっとゆっくり、丁寧に。

右往左往しても、少し前進できればいい。道端の花の美しさも、鳥の声も楽しみながら行こう。

寄り道しながらでも、自分を追い詰める方向へではなく、明るい道へ。

「大丈夫」を合い言葉に自分を探り、ぜひ、ひとつずつ、気づいていってほしい。

寄り道しようが、回り道しようが、三歩進んで二歩下がろうが、自分の足で、進んでいけるなら。

それはホントに、ありがたいことなのだ。

皆が、少しずつでも苦しみから離れて、輝いていけますように。

今はただ、心から祈る。