気持ちは毎日、揺れ動く。
昨日は少し明るかったのに、今日はもうだめだ。
でも明日には少し、忘れられるかもしれない。
これは、同じところを回っているようでいて、実はそうではない。
ほんの少しずつでも、耐性と変化が、現れている証拠である。
そうでなければ、心は、動くことがないからだ。
できれば、上へ上がっていきたいと、願うだろう。
なのに横にニョロニョロ、回転しながら伸びていくように思えたり、
あるいは下へグルグル、回って落ちていくようにも思えるだろう。
でも、そもそも自然のものは、そういうふうにできている。
水は横にも下にも広がって流れ、ときには勢いよく上にも流れる。
それでも、そのままの姿でとどまることはなく、やがて水蒸気となって空に昇っていく。
昇った水蒸気は、やがて雨となり、また新たな場所へ落下する。
植物は、芽を出した瞬間から、伸びていく。
地上の部分だけではなく、地下の部分でも。
下へ、横へ、上へ、全方向で、広がっていく。
生まれたての野生動物は、最初の生存に必要な日数分だけ、母や父に頼りながら、
やがて、自分だけでエサを探し、その探し方、移動の技術も学んで、独立していく。
行動範囲は、自分の身体が大きくなるに従い、必要な分だけ、広がっていく。
そこには天敵との戦いもあり、自分のパートナーを探す努力も加わっていく。
そして命をまっとうするまで、生きる。
昆虫は、場合によっては変態まで行う。
自分の身体をいったん、繭のなかで溶かし、新たに作り替えていく。
その次の姿は、大きな羽を持っていたり、固い殻を持っていたりする。
そしてやはり、世界へ飛び出していく。
私たちの身体も、勝手に細胞や腸内細菌が入れ替わり、成長、破壊と再生を続ける。
髪や爪は伸び、皮膚は徐々に表皮に向かって押し出されていく。
排泄する便のうち80%は水分で、残りの20%は、その1/3が食べもののカス、1/3が腸内細菌とその死骸、
最後の1/3が古くなった腸粘膜などの細胞であるという。
(全薬工業HPより http://www.zenyaku.co.jp/k-1ban/file/cyonai/page02.html)
食べたもののカスの量と同じくらい、腸内細菌や細胞は毎回、入れ替わっていくのだ。
変化していくこと、破壊されたあとに再生が起こることは、自然の摂理。
新しい家は、更地をつくり、整備してから建てたほうが、しっかり建つだろう。
思考もまた、グルグルしているようで、変化を続ける。
ただし、悪い将来予想を続けていても、それはたぶんモグラのように、地下を掘り進めるだけである。
よい将来予想でさえも、地下に思いを張りめぐらせ、土台をしっかりさせる必要がある。
穴ぼこだらけのゆるゆるの土地では、しっかりとした土台はできないのだ。
たとえそこに、家ではなく植物を植えて、育てるとしても、途中でモグラの穴をまた開けたら、
植物は倒れてしまうだろう。
すべては変わっていくものであることを、まず理解する。
本当に止まってしまっているときには、思考も停止している。
外界の刺激や変化を自分の心に入れる、つまり「感じる」ことができなくなるからだ。
その経験をされた方も、きっとたくさんいらっしゃるだろうと思う。
私が以前「薄暗いトンネルの、二択の出口」と書いたような、あの、どん詰まりの状態である。
だから思考が動くのであれば、それが上か下であるかは気にしないでいい。
考えていると気分が悪くなることだけ、単純に「やめる」のだ。
脳はまともじゃないし、心は痛んでしまっているから、いっぺんに前向きにはなれないだろう。
今、やりたいこと、今日、やりたいこと。可能であればこれから先の数ヵ月で、やりたいこと。
眠る、ご飯を食べる、本を読む、でもいいし、外出したい、散歩に行きたい、でもいい。
誰も卑下せず、誰も傷つけず、陥れる必要のない「やりたいこと」だけを、探ってみる。
そうしているうちに、ある日突然、自分に薄日が差していたことに、気づくときがくるのだ。
人によっては、一気に「直射日光」かもしれないくらい、フッと気づきが訪れる。
二歩進んで三歩下がる日もあれば、五歩、十歩進める日もあるかもしれない。
何より、暗い方向の思考を意識的に繰り返さないことで、その揺れ幅、振り幅は、
ときが経つにつれ、勝手に、徐々に狭まっていくのだ。
破壊があったら再生していくのが、この「見える世界」の摂理だから。
これは、再休職までした私の実感でもある。
そうなってまた「ふりだし」に戻ったようであっても、実は、違っていたのだ。
と言っても、かなり後になってからしか、そのことに気づけなかったのだけれど。
最初の休職のときはグルングルン、再休職のときにはグルグル。
揺れる輪っかの大きさが、違っていた。
ある日いきなり、思い切り叩き折られて複雑骨折した私でさえも、そう感じられたのだから、
たぶん、ゆっくりと変化の過程をたどってきた方ならもっと、いろいろと違いを感じ取れるはずだと思う。
イヤな気持ちは、何度でもわく。これでもか、というくらいに、暗かったり、重かったりする感情がやってくる。
でも、それを何度でも、丁寧に脇へ置いていこう。単純にストップさせて、違うことを考えよう。
無理矢理「忘れる」のではなく(そんなことは、それこそ無理だ)、
「ん、やめる。大丈夫。今は思いつかないけど」と思って、横へよけてしまうのだ。
そうした練習をしていくことで、心には「耐性」もついていくだろう。
自分の「大丈夫」と思える範囲を、ゆっくり自然に、広げていけるのだ。
それを「する」かどうか。
破壊ののちの、再生と変化を受け容れる、と選択するかどうかだけが、
あなた次第なのだろうと、今の私には思える。