木元見春 のすべての投稿

不快な感情・感覚、離れ方の一例

突然だが、今日は感情に囚われやすく、しかもグルグルしちゃう人に向けて、

あるひとつのレッスン方法を紹介したい。

それは、とある仏教の、とある瞑想法である。

私はスリランカの「テーラワーダ仏教」、アルムボッレ・スマナサーラ長老のお話が好きだ。

機会があったときに、東京・幡ヶ谷にあるお寺(といっても、住宅街にたたずむ3階建てのビル)に

足を運んだこともある。

長老は「私は日本語がヘタなので」と言いつつ(それを言い訳に?)、結構、歯に衣着せぬもの言いで、

スパスパと明快にお話をされるので、話の意図が捉えやすい。

自死については「仏教は、生きることについて語っています。死ぬかどうかについては説いていません」と

はっきりおっしゃっていたが、実は、説法を収めたDVDにはその話を取り扱ったものもあるようだ。

私はまだ、見ていないけれど。

スリランカの仏教は、タイやチベットと同じ系列の、自分で修行して智恵を収めていく「初期仏教」に属する。

そしてスリランカ仏教の特長は「お釈迦様ご本人が本当におっしゃったことだけを、教えとしている」ことである。

長い間に渡り、僧たちの間で厳密な研究が重ねられ、ブッダ以外の人が加えた言葉や、

後から想像で作った(?)教典は、相手にしないのである。

この辺の話は、福井の臨済宗住職、玄侑宗久氏との対談を読むと面白い。

スマナサーラ長老が「あ、あれは、お釈迦様の言葉でありません。ウソです」などと

スパッと言い切られ、玄侑氏がタジタジになったりもしている(笑)、

初期仏教と大乗仏教の違いを感じられる1冊である。

仏弟子の世間話 (サンガ新書)/玄侑 宗久

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で、このテーラワーダ仏教はそういう意味で、徹底的に己をみつめる。

ここの仏教観では、すべての感情・感覚が「己を通り過ぎていくもの」なのだ。

ものすごく簡単な言い方をすると、本来、すべては変化することだけが真実であり、

それを認められないことが、人の苦しみとなるのである。あらゆる意識も欲も、すべては

通り過ぎていく「雑念」のようなものであるから、それに囚われず、捨て去っていくことが、修行となる。

身体の症状、かゆみや痛みなども、気持ちの揺れ動き、喜怒哀楽も、すべては「通り過ぎるもの」として、

こだわってはいけない。そこに自分が囚われてはいけない、と長老はおっしゃる。

とはいえ、身体のどこかがかゆければ気になるし、腹が立てばしばらくムカムカする。

そんな小さなことだけで考えても、決して簡単なものではないのだ。

そこでテーラワーダ仏教では、教典の勉強だけでなく、瞑想法による修行もする。

そのひとつに、「ヴィパッサナー冥想」というものがあるのだ。

私たちはとくに、負の感情、負の感覚には、囚われやすい。

それらをすべて「通りすがり」のものとして、勝手に来させ、勝手に去らせるのである。

基本的なやり方や概念については、最後に載せるテーラワーダ教会のHPを参照していただきたいが、

部屋の中をグルグル歩く、立つ、あるいは2つ折りにした座布団を、疲れないようにお尻の部分にだけ敷いて、

座禅するのだ。

歩く? と思われるかもしれないが、そう、歩く場合は、自分が歩いていることだけに意識を集中して、

ゆっくり歩くのである。座る場合も、座っていることだけに意識を集中する。

何も考えないのではなく、「右足、あげます、運びます、降ろします。左足……」とか、

「息を吐く、息を吸う」「お腹が膨らむ、凹む」など、自分が主体的にする動きや、

身体の勝手な動き(お腹の動き)などを頭のなかで言葉にして、実況中継しながら見つめ続けるのである。

かゆみが起こったら「かゆみ、かゆみ、かゆみ」と、外から見ているかのように。

イヤな感情や思い出などが湧いたら「雑念、雑念、雑念」と、遠くから実況するかのように。

それが収まったら、また、足の動きや呼吸、お腹の動きなどに戻る。

あくまで自然に、あるがままをみつめる練習である。

私は「何も考えない」瞑想がとくに最初は難しかったので、これを知ったときは面白く感じて、結構やった。

そうすると、以前ブログに書いていた「湧き上がったつらい感情をただ、脇に置いてしまう」感覚が

なんとなくつかめてくるような感じがして、少し、ラクになっていったのである。

可能であれば、テーラワーダ教会主催の会などに参加してみるといいだろう。

東京の本部以外でも開催されているようだ。あと、この方法の解説DVDも出ているらしい。

他にも、「ヴィパッサナー冥想」を学べるところはあるようだが、

私はテーラワーダ教会のものしか知らないので、他のところのものが同じかどうかはわからない。

たまには、こうした話も書いてみたくなったので紹介したが、

これが誰にとっても必ずよい、と言い切れるかどうかはわからないし(もちろん激痛のときは見つめずに

即、病院へ行っていただきたい)、仏教そのものがお嫌いな方もいらっしゃるだろうから、

その場合はどうか、お許しいただきたい。ちなみに私は数年前、この会へ2回ほど足を運んだが、

それ以降は行っていない。長老の話が載っているサンガ新書は、何冊か読んでいる。

とにかく何でもいいから、自分に合いそうなやり方を探してやってみる、というひとつの例として

捉えていただければ、幸いに思う。

●テーラワーダ教会の情報HP

・ヴィパッサナー冥想(下部に心構え、ポイント、瞑想会スケジュール、DVDの案内等 リンクあり)

http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html

・教会トップページ(仏教講義の中にも、ヴィパッサナー冥想についての説明あり)

http://www.j-theravada.net/index.html

心配のメリットとデメリット

いろいろな本を読んでいると、心配には少しのメリットと大きなデメリットがあるとされていて、

私もそうだな、と思えてきた。

基本的に、何かを心配するのは「イヤなことが現実にならないか」という気持ちがあるからだ。

そしてそれを、難しいのだけれど、「そうなりませんように」という形で思えば多少のメリットになり、

「そうなったらどうしよう」と思うと、大きなデメリットになるように感じる。

例を挙げてみよう。まずはメリットのほうから。

誰かが外出するとき「気をつけて」と言う(これは言葉に出して相手に伝えることで、メリットになる)。

たとえば家族が朝、家を出ていくときに、いつもの挨拶としてなんとなく「気をつけて」と言い、

相手もいつものことだから深く考えず「うん」と返事をしているとしても。

もし外出中に一瞬、危ない目にあいかけた場合、その瞬間にこの「気をつけて」の言葉が

ふっと頭に浮かび、そこで動きが止まって、セーフになることがあるという。

十字路で信号を、赤になる直前に渡ってしまおうとしたとき、ふっと思い浮かんだために急ぐのをやめたら、

青になるのが待てなかった車がギリギリ発進してきて、渡っていたらひかれていた……というようなことが

あったりするらしいのだ。

でも、この「気をつけて」の言葉以外には、心配についての「メリット」の話は見あたらなかったように思う。

私も「気をつけて」くらいなら「無事に過ごせますように」という祈りの気持ちがこもっているように

感じられるが、それ以外には思いつかない。「ケガしないでね」も、「ケガをしたらどうしよう」という不安な

気持ちのほうが強いように思うし……。

そして、デメリット。これは一種の「暗示効果」のように感じる。

シンプルな例で考えてみよう。

心配性な母親、父親、祖母、祖父、あるいは友達、学校の先生、職場の上司、

誰でもいいので、1人、想定してほしい。その人が

「あなたがもし○○○になったらと思うと」

「それに、△△△しちゃうかもしれないし」

「万が一、×××になったりなんかしたら」

……このように毎日、あなたに言い続ける場面を想像してほしい。

鬱陶しいよね、正直。

「私は普段、口に出していうわけじゃないし、大事な人を心配して何が悪い!」と思うかもしれないが、

そのままずばりは口にしなくても、態度や言葉の端々に、その気持ちは現れてしまうものである。

不安そうな視線、暗い雰囲気の態度、悪い結果をあとで連想させるような言葉。

そりゃそうである。心配する人は、その瞬間、相手が失敗する、あるいはひどい目に合うことを

心の中にイメージしているのだから、相手が痛んでいる映像も頭に浮かんでいるのだ。

明るい雰囲気では話せないよね、普通に考えても。

実は、これも相手に届くと、その人に「可能性として植えつけられてしまう」ことになる。

「あなたはダメかもしれない」「あなたはダメかもしれない」「あなたはダメかもしれない」と

ゆるーく、耳元で繰り返されるようなものである。

……こう書くと、なんだかイジメをする子どものように思えないだろうか。

私には、心配による否定的な言葉は「ひそやかなイジメ」であるようにも思えるのだ。

「あなたはダメなの!」という強い否定を、少し「可能性」的な表現に和らげているだけで、

伝えている意味は、大きくは変わらない。

じゃあ、どう思えばいいのか。「大丈夫、あなたはきっと、○○○できる」である。

「そんな、おためごかしな」「いい加減な予想を」と思う人に、尋ねたい。

自転車に乗る練習をしていて「大丈夫、もうすぐ乗れるようになる」と言われるのと、

「もしかして、まだ乗れないかもしれないな」と言われるのとでは、

どちらが早く、乗れるようになるだろうか。「よし、乗るぞ!」と、思えるだろうか。

その人をよい方向、「成功」に導きたいなら、その秘訣は単純に「明るい未来予想」なのである。

電球を発明したエジソンが、発明までに1万回、失敗したことについて尋ねられたとき

「失敗ではなく、うまくいかないやり方を見つけただけだ」と言った、という逸話があるらしい。

彼ほど延々と、ポジティブさを保てるかどうかは別にして、

そんな消去法的なやり方であっても、結果的に成功すればいいのである。

実際そのおかげで、人は夜でも明るい光の元で過ごせるようになったのだ。

……勘がいい方なら、そろそろ私がこの話を書いている意図に気づかれるかと思うが、

そう、あなたが今、うまくいかない原因のひとつはきっと、周囲の人が、あるいはあなた自身が、

心配という名の「否定の暗示」を、自分にかけ続けるからだ。

最初はどんなに「ウソだ」と思えても、本心からでなくても、ちょっと無理をして「大丈夫」と思おう。

悪い予想を人から言われても、自分自身で思い浮かんだとしても、そのあとすぐに

「うん、でも大丈夫」

と心の中で、反射的に思い直そう。これも、ある種の慣れが必要なんだと思う。

そう思うと、呼吸も少しラクになる。自分の表情も、少しはゆるむだろう。

少なくとも身体はそれだけで、安心の反応を示すのだ。

この「大丈夫」という気持ちのことを、普通、人は「信頼」と呼ぶ。

マイナス思考からの脱却(5)

話は続くよ、まだいろいろと。長のおつきあいに感謝しつつ、進めますm(_ _)m

社会学の部分では、糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」で知った山岸俊男先生の本がいくつか。

人は正直であるべき、とか、信頼と安心の違いなどについていろいろな著書を書かれていて、

自分の中にあった「日本人としての価値観」、でもちょっと、なぜそうなってるのかが疑問、という部分を、

解き明かしてもらえた。

もちろんこれも絶対ではなく、そういう解釈のうちのひとつなんだろうけれど、

「おお、そう考えていいのか」、「だからちょっと違和感があったんだ~」という感じで、

私には腑に落ちるような話がたくさんあった。

たとえば。

「昔の日本では家にカギをかけなくても、夜でも比較的安全だったのは、“村社会”があったため。

それぞれがみんなに顔を知られていたし、そこで悪さをしたら村を出ていかねばならず、生きていけなくなった。

だからそこには、実は“信頼関係”があったわけでない。『悪いことをしたら生きていけないから、

悪い人が現れない』という、暗黙の怖れのルールによる『安心感』があっただけ。

信頼と安心は違うのだ。私たちは今後、信頼を構築しなくてはいけない」とか、ね。

(引用元は「信頼の構造」、「安心社会から信頼社会へ」、「日本の安心はなぜ消えたのか」など……)

気になる方は、ほぼ日サイトで「山岸俊男」を検索して、まずは対談などをチェックしてほしい。

そこで紹介されている本を何冊か読んだが、それぞれにヒントがあったと、私には思える。

http://www.1101.com/home.html

生物学、地学、科学の融合については、先日のブログ「生命というもの」でまとめて書いたけれど、

実はあそこで、あえて書かなかったことがある。

分子、原子……と、どんどん細かくして、「素粒子」という今、わかっている最小限のサイズまで

もし、目で見えたとしたら。

その、現段階で最小単位である素粒子は、雲のようにもやもやしていて、

さらに「振動しながら点滅している」のだ。

その状態をなるべく優しい言葉で、正確に言おうとすると

「自転しながらゆらいでいるような感じで、かつ、点滅していると言っても差し支えない状態」

なのだけれど、物理学者さんも、この辺はまだ、上手に説明することができない。

なぜなら、わからないことが多すぎるからだ。

ただ、素粒子そのもの性質はというと、「1ナノ秒、その姿を保てば、安定していると言える」らしい。

1ナノ秒といえば、10-9秒、つまり 0. 000 000 001秒。

……さあ、わからなくなってきたよね(^^;) とにかくそれくらいの感覚で「消えて現れてる」としか

今のところ、言いようがないみたいなのだ。

この辺をどうしても、多少わかりやすい範囲で知りたい方は、大学が共同で展開している

子ども向けの物理学のHP、その名も「カソクキッズ」(でも全然キッズ向けとは思えない。

ちなみにカソクとは、素粒子を調べるための巨大な装置、「加速器」のことね)を読んでみてほしい。

私は文系なので、このサイトの説明でさえもう頭がいっぱいいっぱいになって、はっきりとは理解できない。

http://www.kek.jp/kids/index.html

で、消えたり現れたりしてるのはなんでだ、どういうことなんだ、というところを考えようとすると、

「別の次元にいったん行って(つまり消える)、戻ってくる(また現れる)」という仮説に辿り着くらしく、

それを、重力や時間、何かその辺に関わっていそうなその他もろもろにまで全部、当てはめていくと、

11次元説が出てきちゃうらしいのだ。

はい、だからね、優しい解説本などから文系頭の私が捉えた、「私的な説明」で、ざっくり言うよ。

ものすご~く小さい単位でみてみると、私たちは点滅してブルブル震えながら不安定な状態で存在している。

私たちだけでなく、この世界すべてが、そうである。瞬間瞬間で、現れては消えている。

人が動く様子を撮った連続写真をパラパラマンガふうに見ると、まさに連続して動いているように見える、

それと同じ原理で、そもそも私たちは存在しているのだ。

ただ、私たちの感覚器はそこまでの細かい変化を捉えられない。

たとえば高速で動く車のワイパーが、なんとなく扇のような面に見えてしまうくらい、大雑把なのだ。

細かいものはもう、信号として無視しちゃうんだよね、目とか耳とか、触感とかが。

そこまで高速に処理できるような仕組みは、少なくとも人間には備わっていない。

本当は、レコードが再生する音の幅とCDが再生する音の幅も違うんだけど、同じように聞こえちゃう。

机も、点滅してるはずなのに、固い面のように感じる。

そういうふうに私たちは世界を捉えていて、そういうふうに世界も時間も、見ている、感じているということなのだ。

これを、ディーパック・チョプラ氏という、米国の医師でありながらインド的世界観にもなじんでいる

インド人のスピリチュアリストさんは、こう表現している。

「私たちは毎瞬、死んで、毎瞬、生まれている」と。

肉体的な死を「死」として捉えるのであれば、すでに私たちは、どんどん生まれ変わりながら

存在している、っていう話になるのだ。宗教的にでも哲学的にでもなく、物理学的に!!

……何か、とてつもない世界が、広がってくる感じがしないだろうか。

「生命というもの」でも書いたけれど、私たちは、私たちの感覚器官では捉えられない、でも何か

知らない力によって、存在しているのだ。

こうした研究をしている物理学者は、論文には書けないけれど、神がいてもおかしくない、と感じるらしい。

物質の安定性とか、星の誕生とか、そういったものを調べていけばいくほど、

私たちの世界がこうして今、出来上がっていること自体が、確率的には奇跡らしいから。

ものすごい確率を勝ち抜き続けた結果、地球や生命というものが存在している。

まるでそうなることを「誰かが意図して仕組んだ」としか思えないくらい、みごとな条件が揃って、

私たちは今、ここにこうして存在しているのだ。

そう、物理学的にみて、私たちは「生かされている」と言える。

素粒子の性質を調べる加速器や、ニュートリノを調べるカミオカンデ、「はやぶさ」ががんばって

持ち帰ってくれた、微量の物質から少しは見えて来るであろう、宇宙生誕の謎。

実際、「もし他の次元が存在するとして、素粒子が他の次元に行って戻ってくるのであれば、

こういう実験をしたらこうなるはず」という仮説の上で行われた実験は、成功しちゃっている。

つまり他の次元は「ある」と言えちゃったのだ! もちろん今後、他にも試されていくはずだけど。

これからもどんどん解き明かされていくであろう、そうした事実を、

あなたは「もうちょっと知ってみたいな」と、少しは思ったりしないだろうか?

そして、探してみれば、知ってみれば、いろいろ自分を変えられるものはあるかもしれない、

本でもそうだし、宇宙が、他の次元の何かが、変えてくれるかもしれない、って、

やっぱり思えたりはしないだろうか……?

(この項終わり)