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マイナス思考からの脱却(4)

昨日のブログでは、考え方の部分について、長々と説明をした。

なので今日は、私が、何を探ってどう感じていったかを、経験談として綴ろうと思う。

すべての人に当てはまるとは限らないけれど、参考になれば幸いである。

まず、まだ私が死にたかった時期、自死に関する裏掲示板(規制がなく、仲間募集も、非難も援護も

飛び交っていた)をうろついていたとき。

さまざまな会話のなかで1人だけ、やけに穏やかに話しかけている男性がいた。

悩んでいる相談者に話しかける人は何人かいたが、たいていの人は、どこかいびつな発言をしていて、

同じように境をさまよってるような、ちょっと、偏っている感じがあった。

しかしその人だけは少し違っていて、ひたすら受け止め、でも深くまでは踏み込まず、

側にたたずんでいるような状態。静かで、優しくて、不思議な人だな……と思っていた。

その後、自死をやめ、生き方を模索するようになったとき。

死にたかったときに掲示板で少しだけ会話した人が、相談者の雑談用HPも別に開いていらっしゃったので、

久しぶりにそのHPへ行ってみた。

そうしたら、その「穏やかな人」がついに亡くなられたね、という会話が載っていた。

そのときに初めて知ったのだが、なんとその彼は生前、救急救命の仕事をしていて、

その後、ガンにおかされ、闘病しながら、あの話しかけをされていたのだ。

どうやら死の間際まで、それは続いていたらしい。

この事実には、頭を殴られる思いがした。

人はいったい、どこまで優しく、強くなれるのだろう。

使命を持って救命をされていた人が、自身の余命がもういくばくもないとわかってからも、それを続けた。

彼は生きたかったはずだ。彼自身は、死にたくはなかったはずだ。

死にたいとつぶやく人に対して「馬鹿ヤロウ!」と、ののしることもできたはずだ。

なのに一切、それをしなかった。最後まで、優しく寄り添っていた。

どんな状況にあっても、どんな事態が起こっても、人は、自分の生き方を自分で決めて、

それを最後までまっとうすることができる。たとえ、真逆の立場になってでさえも。

しかもそれは彼の場合、徹底的に「人の命を助けること」だった……。

私はそのとき再休職中だったので、「もう、これは少しずつでも、働いていこう。

そんな人の語りかけを、読んでいたのだから。

直接は話さなかったけど、そんな人に支えてもらっていたのだから」と、自然に思えた。

そんな人も、世の中にはいるのだ。私も、「弱い状態」を強さや優しさに変えられるようになっていきたい。

弱いのなら、弱いことそのものを大事にして、活かしていける人になろう、と思えた。

それ以外に私の場合、たくさんたくさん、本を読んだ。

最初は哲学系、次に宗教系、さらには社会学、民俗学、生物、地学、物理学、科学、文学 etc.……。

もう、ジャンルは何だってよかった。絵本も小説もノンフィクションも読んだな、そう言えば。

自分の心にハッとするような感じで言葉が届いて、「そうか、それでいいんだ」とか、

「そう考えればいいんだ!」 と、ひとつでも気づければ、それでOKだった。

まさにドンピシャな気づきもあったし、軽い気づきがたくさん集まって、

だんだん沁みこんでいく感じがする場合もあった。

哲学は、最初はどうあれ、途中から「生きていること」が当然の前提になっていくように思え、

その立場で「人」を探っていく学問なんだと感じられた。

だから今の私にはちょっと違うな、と思って、途中でやめた。

宗教系は、まず最初にその「考え方」を知りたかった。

なんせ「人が生きること、死ぬこと」を専門にしているのだ。それをどう捉え、どう説明しているのか。

さらには「信仰」いう気持ちが、どこから生まれ、なぜそれが組織にもなり得るのだろう、とも思った。

のめり込みたくはなかったから、防衛のためにも、先にそういう情報を探した。

仏教、キリスト教、イスラム教、神道、ヒンズー教、その他アラブやチベット、

ネイティブ・アメリカン、ケルト民族などの土着系の信仰、

それらの成り立ちだけでなく、さらには「宗教」というものの、そもそもの成立の部分まで、本を探して読んだ。

世界に散らばるほとんどの信仰は、最初に「母性系・自然と一体型・その中で生かされている、

人間という一種の“生きもの”が自分たち」というところから始まったらしい。

狩猟・採集のくらしをしていたのだから、自然が「母なる存在」であり、そこから恵みをいただいている、

という思いに至るのも、当然だろうと思う。

それがやがて、「栽培」と「保存」による食料の確保、保存するための住居の定着、

人々が集まることによる、くらしのルールづくり、指導者の登場……となって、

信仰は「人を指導するためのもの」に変わっていく。さらには「人を支配するもの」と結びつき、

その頃になって、キリスト教やイスラム教、仏教などが現れていく……という流れだったらしい。

中沢新一氏の「カイエ・ソバージュ」というシリーズが、この辺をわかりやすく説明してあったのだが、

信仰の対象が「熊から王へ」変わっていった辺りのくだりは、面白かった。

自然を畏れ敬う気持ちが、「王は“熊の力”を得た」と喧伝することによって、

人の権力へと変わっていった……という話。

そうやって信仰が権力と結びついたからこそ、組織化が必要になったし、それはやがて、

隣国との争いに使われていったのだ。

単純な「信仰」としての教えは、別に、どの宗教であっても学べる部分はあって、

ある種の道徳・倫理感を、自発的にもたらしてくれるのに、「こうしないとこうなりますよ」的な

方向付け、というかある種のコントロールが加わってしまったがために、おかしくなってくるのだ。

いや、じゃあ、私は「信仰」レベルでとどめておけばいいじゃない。

そこから自分に響くものだけ、拾っていけば。

そんなふうに思えて、いろいろな教えや、説法のようなものもどんどん読んでいった。

また、そのころからNHKの「心の時間」など
も録画して見始めた。

面白かったのは「たまたま気が向いて録画した」ものに、必ずガツンと響いてくるものがあった、ということ。

私の場合、仏教系のお坊さん、尼さんの話である場合が多かった。

宗教の本や番組は、単なる倫理・道徳だけじゃなく、「人はどこまで自由であっていいか」を教えてくれた。

他人を自分たちと比較して貶めること(聖戦とか、選民意識とか)は、「こういう解釈によってある宗派が、

支配のために、都合よく教えただけなんだな」とか、そういうこともだんだん具体的にわかった。

争い、囲い込みのために信仰があるのではなく、信仰が「宗教組織」のために一部、

本当に上手く利用されてきたのだ。

本来、その教えは「自分たちさえよければ」という意味合いを、やはり含んではいないと思える。

それを信仰することで、自分がその社会で生きやすくなる(人に迷惑をかけないとか人を敬う、などの

気持ちが自然に生まれる)ためのものなのだ。

たとえば、日本で、鈴木秀子さんというシスターが最初に広めてくださった

アラブのスーフィー教の教えなんて、すごく面白い。

彼女は、人間の性格の傾向を大きく9つに分ける「エニアグラム」について本を書かれていて、

私がそれで自分の性格を分析してみると(占いではなく人間学なのだ)、「成功を追い求める者」になった。

解説を読むと、思い当たる節が山ほどある。うわあ、確かにこれが、私の性格で一番大きい要素だ、と思えた。

面白かったのは、「成功を追い求める人」を、長老たちがどう指導するか、の話。

よいところを伸ばし、でもそれが行きすぎないようにもするため、9つそれぞれに修行をさせるらしいのだが、

「成功を追い求める者」の場合は、「引っこ抜き、わざわざ根っこを上にして地面に埋め直した木に、

2年間、毎日水をやる」のだそうだ。

すごいよね。その木は絶対に成長しないし、絶対に何も生み出さない。

ムダなのが明確であることを、2年間、毎日、「それがおまえの仕事」と言われてやり続ける。

成功を追い求めてしまう、つい結果を求めてしまう心の「はやり」を抑えて、

そこから別の何かをつかみとらせるのだ。私なら、どう感じるだろう。

ほかにも例を挙げれば、仏教にも2種類あって、チベット、スリランカ、タイなど

「自分が出家して自分で探求する」ものと、日本のように「他の人・民まで救う」ものがある。

それぞれにたくさん学べるものがあるし、座禅も、その必要性などの理由がわかるとやってみたくなった。

キリスト教の「隣人を愛する」教えも、探っていくとすごく奥が深い。

あと、これは「宗教」ではないけど、日本の八百万(やおよろず)の神や、お地蔵さん・道祖神の存在は

「見守られている」感覚を与えてくれているんだな、とか、

スピリチュアルと呼ばれるものは、いろいろな宗教から「信仰」のよい部分を取り出して、

少し、神さまのような存在や霊的な話や、来世の話を「実在する」と加えた、東洋+西洋なんだな、とか。

そう、スピリチュアルだって人によって説明の仕方はいろいろあるだろうけど、宗教的な側面から

みたら、今の日本人に馴染みやすいのは仏教・神道・インド系の東洋的な教えの要素に

キリスト教的な要素が上手に加わっていて、しかも「信仰」の範囲内にとどまっているからだと思う。

そういう意味では、ヘンな組織的規制がなくて自由度も高く、信仰の内容そのものを自分なりに考える、

自分になじませるきっかけには、なりやすいように思えた。

ま、なかには教祖様的に振る舞って、ウソをついてお金稼ぎしている人もいるらしいけど、

私は幸い、そう感じるものには巡り会ってない、というか、怪しすぎと感じるものは読んでいない。

霊とかエネルギーとかも、見えないけど、存在は100%は否定できない、くらいの感覚である。

日本では、霊的能力の話で言えば昔から「イタコさん」などの存在もあったしね。

絶対! ではなく、軽くなら、神や霊は「あり得るかも」と捉えられる土壌は、あったのだと思う。

長々と宗教の話を続けているけれど、そういう視点で見直してみると、私は学べることは多かった。

説教臭いものは外していいし、信じられない部分は信じなくていいと思う。

でも、そうやって減らしても、自分が少し楽になれるもの、「そうか」と思える考え方は、結構あった。

教祖に従う必要もなければ、組織に属して「会員」(と、わざと言ってみる)を増やす手伝いも

しなくていい。「おばあちゃんの知恵袋」的に、自分がよいと思える部分だけ、見つければいいのだと思う。

この「知恵袋」の内容は、羅列しても長くなるだけなので割愛する。それは私個人の解釈だと思えるし、

そういうふうに捉えていいのか、などと、別の疑問を感じると、せっかくの機会を失ってしまいかねない。

自分も知ってみたいと思う人は、ぜひ、本屋や図書館で、巡り会ってつかんでほしい。

それこそ、学ぶ部分があったときに、偶然とかご縁の不思議さ、ありがたさを感じられるだろうしね。

逆に、「組織」「団体」というものがなんかイメージ的にイヤで、これまでその中身を知らなかったのは、

宗教という分野の弊害だよなあ、とも感じる。せっかくの機会だから少し、触れてもらえたらと思う。

また長くなったので、社会学以降は明日に……。

マイナス思考からの脱却(3)

さて……。

「死」しかない、と思っていた自分が、「生きててもいいのかな」に変わり、

「どうしたらいいのだろう」がわいてきたとき。

ここからが大きな変化のスタートとなる。

それはもう姿や形まで変わる勢いの、変容(メタモルフォーゼ)、生まれ変わり、ともいえるくらいの

変化をしていける、ひとつのチャンスとなりえるのだ。

これまでの人生、これまで苦しんできたこと、これまで楽しんできたこと。

これまで「正しい」と思ってきたこと、「こうあるべき」と思ってきたこと。

もろもろすべてが、変わっていく。

これは正直、怖い人も多いと思う。単純に、「未知のゾーン」に突入していくからだ。

経験したことのない生き方をすれば、これまでの経験則が役に立たないこともあり、

「新たに自分で」感じ、それを考え、思いに変えて、行動していくことになる。

今までの長い道のりで慣れ親しんだ、「自分なりに捉えた成功法則」から離れていくのだ。

とくに、ものすごい成功(と自分で思えるもの)を経験し、そのあとで気持ちが壊れてしまった人は、

そんなことをわざわざする必要があるのか、イヤだ、とさえ、思うかもしれない。

わざわざする甲斐は、ある。

あなたがこれまで知らなかった価値観、知らなかった生き方、知らなかった人間関係、に出会えるから。

しかもそれは、ほとんどの場合「こんなふうにしてもいいのか!」という驚きと、発見の喜びと、

「楽しそうだ」と思えるような感覚つきで、現れてくる。

別に、楽観視しているわけでも、いい加減な慰め話をしているのでもない。

人は「知らなかった他の明るい世界」を垣間見たとき、ワクワクするようにできているからだ。

冒険、探検。生きていくうえで、それを行えるのである。

ただし、そのためには「慣れ親しんだつもり」の価値観や生き方、考え方を手放す作業が伴う。

その部分がやっかいであり、実際、大変だったりするのだ。

でも、考えてみてほしい。

もし、その価値観や生き方、やり方があなたにとてもフィットしていて、自然体で過ごせていたら、

そもそもあなたは、心の暗闇をのぞくことはなかった。

たまたま「周囲の人」や「身体の具合」のせいで、自分の気持ちが暗くなったとしても、

今までの枠のなかで十分、自由に切り替えていけるはずだ。

それができなかった、ということは。

どこかで、あなたが「何か無理をしていた」のである。

合わない「ヨロイ」を身につけていた、という表現なら伝わるだろうか。

そのヨロイは、親など周囲の人から受け継いだものかもしれないし、

自分が生まれて以降、徐々に手に入れて、組み立ててきたものかもしれない。

でも、今はもはや、どこかが「合わない」のだ。

組み立て方を間違っていた場合もあるし、もしかして、総取っ替えする必要があるかもしれない。

一部修理で済むか、ほとんど全部、新品へ交換するか。どれが当てはまるかは、人によって違うだろう。

ただし、次のヨロイは、ものすごく強いものになる。

なぜなら、あなたが「一番弱っている状態で、改めて組み直す」からだ。

最悪の事態の自分で、それでも大丈夫な価値観や考え方を身につけていくのである。

たぶん本当は、それこそが「ゆるがないもの」であり、あなたの「幸せの元」だったのだ。

ヨロイを組み立て治す作業では、痛みを伴うこともある。

なぜ自分が、こうして心の闇をのぞくようになったか、ヨロイのどの部分が合わなかったのか、

改めて見つめ直し、はずす作業が必要だからだ。

合わない部分にも、これまでの積み重ねがあり、思い出があり、

自分が大事にしてきたものが、ある程度詰まっているだろう。

それを「合わなかった」と認めること自体、つらいかもしれない。

でも、これまではそれが必要だったかもしれないけれど、これからはもう、いいのだ。

感謝して、手放していこう。

手放す方法そのものについては、今の私には語る資格がない。

誰かに手助けしてほしいなら、職業的には、医師やカウンセラーなどがあたることになるだろうし、

それ以外にも、もっと心の支えが必要なら、怪しくないと自分で思える宗教方面、

たとえばお寺へ説法を聞きにいったり、座禅してみたり、聖書を読んでみたり。

同じように「弱った」経験を持つ人たちの集まりへ参加する方法もあるかもしれない。

たぶん、そこに至った状況次第で、それぞれに「求める助け」も違うと思う。

そのすべての個別例を、私はここで語ることができないし、すべての人に共通するやり方はたぶん、

ないのだと思う。以前にも書いたが「魔法の杖を振ってくれるおばあさん」はいない、ということだ。

あとは、気になった本を読むことや、信頼できる人と話してみたりすることも、変わるきっかけになる。

とにかく自分を遠くから見直してみて、「交換が必要な部分」を探るつもりで、やってみてほしい。

これまでとはまったく違う本が目にとまったりすると思う。

ただし。自分が「組み立て直し」の最中であることは、十分に意識してほしい。

その部分の、心のヨロイは今はない。だから周囲から攻撃を受けると、これまで以上に弱いかもしれない。

とくに、これまでの価値観では、単純にこなしていけない部分(高給を取ってバリバリに出世する、とかね)で

あなたの「責任」を責める人が身近にいた場合は、それだけで心苦しく感じるだろう。

それは、周囲の人が残酷なのではなく、あなたもまた「相手にそう思わせていた」部分があったゆえ、だ。

悲しいだろうけれど、少なくとも心が弱っている今、それができないことを、誠心誠意、伝えていこう。

たとえば、先の高給取りの例で言えば、「お金」さえ得られればあなたは「責任」を果たしていたのか?

あなたの価値は「お金を稼ぐ」部分しかないのか? あなたとその人の関係は、それだけなのか?

また、さらには家族に対して、社会に対して、と、大きく捉えがちになるだろうが、

本当は、そんな「世間」という、とらえどころのない、訳のわからないものは存在しない。

「世の中」なら、上を見ても下を見ても、どっちでもいいはずだ。

でもきっと、あなたは「下」を見られない。

少なくとも「下」だとこれまで思っていたものには、関心がなかったはずだ。

本当は「下」は「横」かもしれないし、もしかして「上」かもしれない。

あなたがまったく知らなかった部分で、あなたの感覚のはるか上をいく、

大切なもの、強いものが存在するかもしれないのだ。

ただ、今はまだ、そこまで思い至る必要はない。

大切なのは、側にいる一人ひとりとの関係だ。

親、パートナー、子ども、友人、知人、仕事仲間。

その人たちとの関係の中であなたは「家族」を形成し、「社会的に」存在してきたはずだ。

その人たちが、あなたに対してどういう態度をとるか、を先に考えるのではない。

その人たちに対してあなたは、あなた自身が、これまで「どう接してきたのか」。

あなたはどんな考え方で、どんなふうに相手を見つめ、どんな態度で接してきたのか。

そして、たぶんそこから見えてくるであろう、

あなたがどんな考え方で、どんなふうに「自分」をみつめ、「自分」にどんなふうに接してきたのか。

自分にどんな役割を課していたのか。どんな役割を演じていたのか。

そういったことを、罪悪感なしに、捉え直してくのである。

反省は必要かもしれないけれど、後悔もするかもしれないけれど、

これからはもう、単純に、それをやめていけばいいのだ。

自分を偽ることも、無理することも、卑下することも、もう、必要ない。

人との関係については、別のテーマになっていくので、今はここで話をとどめておく。

……つらそうだよね。考えている最中は、また、いろいろと思い至るまでは。

だから、1人で作業するのには限界がある、ということなのだ。

これまでの思考パターンから抜け出すためには、「気づき」を伴わないといけない。

しかもその気づきは、あなたのなかに今、すでに準備されている。

まさにそのことに、今は「気づいてない」だけだ。

でも、あなたはどうしても「これまでのやり方」で、そこに至ろうとするだろう。

というか、それしか知らない、ってこともあり得る。

無知の知。

自分が知らない考え方、自分が知らないやり方や思考パターン、自分が知らない世界がある、ということだけ、

今は、わかっていてほしい。

長くなりすぎたので、つづきはまた……。

マイナス思考からの脱却(2)

さて次は、寝ているだけではもう飽きてきて、少し、ご飯も味をわかって食べられるようになってきたとき。

このときが、実はいちばん、頭のなかで自分を悪く評価しやすいのだろうと、私は思っている。

少しくらい回復したところで、状況はほとんど変わっておらず、また、変えることもできない。

「やっぱりこのまま、ダメなんじゃないか」という思いが、グルグルし始めるのである。

長い時間、起きているからそうなるのだけれど、だんだん逆に、眠りづらくなったりもしてくる。

それで昼夜逆転して、暗い情報を探して、あとで余計に落ち込んだり、ね。

とにかく、まだ脳は正常には働いてくれていないから、

どんなにいろいろ考えても、悪いことしか、結果的に浮かんでこない。

結論はほとんど「私はダメだ」の方向へつながっていく。

このころって、たぶんね。

複雑骨折しました、まったく動けない状態ではなくなり、松葉杖でトイレくらいの距離なら

行ってもいいけれど、それも限界がありますよ、くらいの感じなんだと思う。

でも、身体じゃなく心の傷ゆえに、この「トイレくらいなら」の距離が、自分でわからないのだ。

気づいたら、出刃包丁で傷口を突き回して血だらけにしてる。あるいはギブスを半分、たたき壊してる。

……治らないよね、っていうか、悪化するよね、逆に。ばい菌が入って、傷口を化膿させたり、

新たな症状を招いてしまったりもするだろう。

よっぽどのことがない限り、急激には、治らないのだ。ゴメン、そこはたぶん、どうしようもない。

劇的な変化の可能性が、ないわけではないだろうけど。

たとえば鬱の原因になった人と、本当に心から理解し合って話し合えて、素晴らしい状態で和解できたとか、

何か本当に、今後の自分と周囲の両方が大きく変わっていくくらいの、そういう出来事が起きない限り、

劇的な変化は起こせないだろうと思う。

一瞬そう思えても、反動であとからまたひどく落ち込んだり、右往左往も激しいことだろう。

右往左往するのだって、抜け出したいからだもの、本当は。

こんな自分のままでいるの、イヤだもの。

それはたぶん、当たり前の反応だろうとは思う。

でもね、でもね、でも!

せっかく芽生えた双葉を、「成長するの遅いよ!」と引っこ抜いても、それ以上、育たないよね。

悪いことしか思いつかないときに、わざわざ思考をグルグルさせるのは、たぶん、それと同じなのだ。

芽生えたものにきちんと水と栄養を与え、逆にやり過ぎることもないようにし、日の光に当てて。

あとは、育つのを待つしかないのだ。

芽生えたものに、与える栄養と水、光。これが、食べものと、「心地いいもの」だ。

おいしいご飯を食べないと、脳の働きが、よくなってはいかない。

カフェインの摂りすぎは、あとで落ち込みをもたらすし、身体を冷やすような水っぽい野菜は、

夏でもない限り、血の巡りを却って悪くする。トマト、ナス、キュウリなんかは、その代表格。

消化が悪いときに繊維の多い野菜を食べると、繊維質を砕くために胃のほうへ血流が巡り、

脳の血行が悪くなる。中国の人が「医食同源」と言ったのには、ちゃんと理由があるのだ。

なるべく栄養バランスを考えて、消化の良いものを中心に、少なめに食べる。

温かいものを摂って、身体を冷やさないようにする。

刺激の強いもの、甘いものは、なるべく控えめにする。

お酒も、あとで気持ちが落ち込むから、できればやめるか、少量に。

その状態から早く抜け出したいのなら、自分の脳を栄養面で助けてあげること。

そして心地よく感じるものを、罪悪感なしで楽しむ。

ゲームやテレビなど「自分のペースではなく、巻き込まれる」要素の部分が多いものは、

長時間味わうのは勧めない。「ムダな時間を過ごした」と、あとになって思いがちだからだ。

Web検索も少し、同じような傾向にあるものだと思う。

情報がありすぎてキリがないし、良いものも悪いものも混ざってるからだ。それなのに

どこかに答えが見つかりそうで、それを万が一、見落としてしまうのがイヤで、やめられなくなる。

気が向いたら味わえて、自分でいつでもストップできるもの。

音楽鑑賞(ロックは昂揚したあと、逆に落ち込みやすいかもしれない……)。読書。

落語などの、時間が短めのお笑い。自然系の美しいDVDや音源。悲しく&激しくない映画。

お寺などで座禅や瞑想をしたことがあるなら、それもまた「考える時間を減らす」ことにはなるかもしれない。

ただし慣れるまで、悪い結論の思考がグルグルしちゃうことはあるだろうから、無理はしない。

あとは、「遊び」として時間に関係なく、お風呂に入る。

物理的に身体を温めるのは、緊張した身体の力を抜くことができるので効果が高い。

湯冷めしないように気をつければ、サッパリした気分を持続できる。

湯あたりに気をつけつつ、ゆっくり、お湯につかろう。半身浴であれば、長時間でも負担が少ない。

もし散歩に出られるのであれば、天気のいい午前中か夕暮れ前、お日さまの光が

優しくて明るい時間帯に、近場へ(近いことは疲れないために大切)自然を味わいに出かける。

土、樹木、花、水の流れ、香り、風の感触、光、鳥の声、葉ずれの音。

アスファルトの道路沿いではなく、五感を使って感じることができる、なるべく静かな場所を歩いてみる。

あるいはそこで、ただぼんやりと、休憩してみる。

いろいろ考え出したら、(考え出すのだけれど、これがもう、ね)、とにかく単純にやめる。

考えることを、どこかに置き忘れる。出てくる答えは「絶対に正解ではない」ことを、肝に銘じる。

複雑骨折が決して一生続くわけではないのに、このころは「一生だ」としか、思えないから。

「気持ちいいな、心地いいな、気分がいいな」の時間を、できるだけ増やす。

……たぶんだけど。私の経験からの想像だけど。これって、あらゆる手段を使って、

自分が「人という生きもの」であること、自然の中のひとつの存在であることを、

全身で感じて、軽く楽しんでみること、なんだと思う。

笑うことも、感動して泣くことも、それを心に優しい形で感じられる方法だと思える。

とにかく心地よく楽しめることが、この時期には、一番一番、大切なのだと。

この間に、もし家族から責められても、「もう少し待って」と心からわびて、あとは、ゴメン、放置しよう。

それでいい。ただ単純に、脇によけてしまうこと。自分の感覚を、自分が一番、大事にしてあげよう。

責められ続けてつらい状態になったら、病院などで話して、他の人から説得してもらおう。

複雑骨折を「いつ治るのよ!」と責められても、治癒は早くはならない。逆に悪化させるだろう。

芽が出ても、そこに毒をまくようなものだ。

キリがないなら、逃げ出してしまうくらいでいい。責任はいつか、あとからまとめてフォローすればいい。

フォローは必ずできる。ただし今は脳が正常じゃない。まともにちゃんと、できるはずがない。

そして脳が一番正常でないのは、まさに今、この時期なのだ。

それはもう、本当に「骨折に向かって」責めるようなものだ。骨が弱ければ、治ってから鍛えていけばいい。

今は、脳にいろいろな栄養素を届け、心地よさを感じる時間を増やすことだけを、考えよう。

考えるのは、そこだけでいいのだ。

あと、何度も言うが、涙もまた心を楽にするので、絶対に我慢しないで、飽きるまで泣くこと。

これらはすべて、治療行為である。

意識しないと、上手に長くは続けられない。難しいのは、十分、わかっている。

でも、それでも、ぜひやってほしい。これは絶対に絶対に、「逃げ」ではなく、

私の感覚で言えば「治癒への最短距離の疾走」でさえある。

明日以降も脱却について、もう少し話を続けてみようと思う。